香油壺を砕いた愛 – 張ダビデ牧師


1.ベタニアのツァラアト患者シモンの家と、香油の壺をいた女性にする

ベタニアのツァラアト患者シモンの家で起こったこの出来事は、四つの福音書すべてにさまざまな形で記録されています(マタイ26:6-13、マルコ14:3-9、ルカ7:36-50、ヨハネ12:1-8)。特にイエス様の公生涯最後の一週間に起こったことで、福音書記者たちにとって非常に重要な意味を持っていました。張ダビデ牧師はこの本文を黙想しながら、一方ではイエス様がどのようなお方であられたのか、そしてもう一方では私たちがどのような愛をもって主に近づくべきかを深く省察させられると強調しています。

まずマルコの福音書14章3節によると、イエス様はベタニアの“ツァラアト患者シモン”の家で食事をしておられました。ギリシャ語本文で「ツァラアト患者」と訳される単語は、旧約聖書で一般に“らい病(leprosy)”を指す言葉と同様に使われていますが、今日の臨床的なハンセン病とはある程度異なる可能性もあります。それでも、伝統的に“らい病”は「汚れたもの」「神から隔離されるべきもの」という象徴性を持っていました。張ダビデ牧師は、ここで注目すべき点として二つを挙げます。

第一に、イエス様は“汚れている”とみなされていた者と喜んで食卓を共にしておられる、ということです。当時のユダヤ社会では、ツァラアト患者は共同体から隔離され、神殿への出入りはもとより、一般の人々と普通に交流することも困難でした。しかしイエス様はそのようなベタニアのツァラアト患者シモンの家で食事をされました。これはイエス様が律法的・宗教的な障壁を越え、人を完全に“愛”のまなざしで見ておられることを示します。張ダビデ牧師は「イエス様がツァラアト患者シモンの家に入り、癒される姿は、まさに福音とは何かを明確に示すしるしである」と解釈します。福音とは神の国の喜ばしい知らせであり、その知らせは罪人や病人、弱い者へと開かれているのです。世の基準では隔離されて当然の人物がイエス様の食卓に加わるという事実自体、すでに福音の現実的な現れだと言えるのです。

第二に、“シモン”という名前の含意です。福音書に登場するシモンという名前は非常にありふれていました(ペテロの元の名もシモン)が、マルコの福音書でわざわざ「ツァラアト患者シモン」と書き記している点が重要です。張ダビデ牧師は、福音書の読者にとって“シモン”という名前は馴染み深いものであり、イエス様の主要な弟子であったシモン・ペテロの名とも結び付けながら黙想します。シモン・ペテロがイエス様の第一の弟子として召された事実は、一方で罪人や病人であっても同じ恵みにあずかれるという福音の原理を象徴的に示しているというのです。当時“らい病”は「神からの裁き」あるいは「霊的な汚れ」と見なされることが多々ありましたが、イエス様はそうしたシモンと食事を共にすることで、彼を“完全に受け入れる”ことを宣言されたのです。張ダビデ牧師は「私たちは皆、霊的にはツァラアト患者だったことを知らなければならない」と語ります。私たちもまた罪と咎によって死んでおり、神の聖さの前では汚れたものでしたが、イエス・キリストの愛によってその食卓に招かれ、共に交わるようになったのだ、というわけです。

このように“ベタニアのツァラアト患者シモンの家”という具体的かつ象徴的な場所で、一人の女性がイエス様のもとへ来て、高価な香油、すなわち純粋なナルドの入った壺を割り、その香油をイエス様の頭に注ぎました(マルコ14:3)。この女性について、マタイは「ある女」と書き、マルコも同様に「ある女」と言及し、ルカは「罪を犯したある女」がパリサイ人シモン(同名の別人の可能性)宅でイエス様のそばに来て泣きながら香油を注いだと伝え、ヨハネはこの女性を「マリア」と明確に名指しします。福音書記者による記録は細部で違いがありますが、核心的には「非常に高価な香油をイエス様に捧げた」という同じ出来事、あるいは類似の出来事を伝え、その女性の行為が持つ愛と献身の意味を深く浮き彫りにしています。

張ダビデ牧師は、ここで「ナルド」という香油の意味に注目します。ナルドはヒマラヤ山脈の高地に生息する植物の根から抽出される高級香油で、当時のパレスチナ地域では非常に希少かつ高価なものでした。したがって、この壺一つを買うには三百デナリオンもの、庶民ならほぼ一年間働いて得るほどの大金が必要でした。ですから、その香油の壺全部を割り、イエス様に惜しみなく注いだということは、その女性が持ちうる“すべて”を差し出したという象徴的な表現として見ることができます。張ダビデ牧師は「主の前でこの女性は最も尊いものを差し出したのだ。彼女はイエス様の差し迫った死と復活、そしてイエス様こそ真の王であることを直感的に悟ったのかもしれない」と解釈します。愛というものは見返りや計算をしません。ただ“惜しみなく与える行為”そのものが愛の本質であると、この出来事は証言しているのです。

このように香油の壺を割ってイエス様に注いだ女性の行動から、私たちは無条件の愛、あるいは“条件のない献身”を見いだします。張ダビデ牧師はこれを指して「真の弟子道はいつも浪費のように見える愛から花開く」と言います。外見的には彼女の行為はきわめて非合理的で、浪費のように映るかもしれません。しかし福音書全体の文脈で見ると、その愛がイエス様の死と復活を予見する預言的かつ象徴的な行為であったとわかるのです。古代近東の文化では、“油を注ぐ”ということは王や祭司など、特別な務めに就く際に行われる儀式でした。彼女は自分の篤い愛をもって、イエス様こそ真の“油注がれたお方”、すなわちメシアであることを宣言したことにもなります。

そしてルカの福音書7章38節では、この女性が涙を流しながらイエス様の足に口づけし、自分の髪の毛でその足を拭う姿が強調されます。これは罪人である自分がイエス様の前に立つことすら恐れ多いと認めつつも、同時にイエス様の聖なる愛を信頼する信仰をもって、自分を最も低い者として献身する態度を象徴しています。張ダビデ牧師は、女性が流した涙に注目し、そこには罪と弱さを抱えていても受け入れてくださるイエス様の憐れみに対する感謝と、同時に深く愛し敬うお方の死を予感する悲しみが入り交じった涙だった可能性があると解釈します。

このように、ベタニアのツァラアト患者シモンの家で起こった香油壺を砕く出来事は、場所自体が持つ意味(汚れた者が癒され、イエス様と共に食事をする)と、女性が示した無条件・絶対的な愛(最も大切な香油を砕いて注ぐ)が絡み合い、イエス様の真なるメシア性と福音の意味を豊かに示しています。張ダビデ牧師は、この愛の出来事こそが福音自体の最も重要な特徴、すなわち条件なしに注がれる愛を表しているのだと強調します。もし私たちの内に計算高く損得を勘定する視線が残っているならば、この女性が見せた愛を「浪費」あるいは「無駄遣い」と見なしてしまう危険があります。しかし福音は「神の愚かさは人よりも賢い」(第一コリント1:25)と宣言し、この世の基準では浪費にしか見えない愛こそが神の知恵であり、救いの力であることを知らせてくれるのです。

結論として、張ダビデ牧師はベタニアで起こったこの出来事を「最も低い場所、最も捨てられた者の家で、最も尊い愛が展開された福音の真髄だ」と語ります。ツァラアトにより隔離されるしかなかったシモンが回復し、主と食事を共にし、罪人とみなされていたある女性がその家で最も高価な香油を砕いてイエス様に仕えました。これこそが福音の現実であり、主は今もこうした愛を探しておられるというのです。そしてその愛は決して計算に基づかず、浪費のように見える、無条件で代価を求めない愛として現れるのだということを、私たちは覚えておかなければなりません。


2.弟子たちとイスカリオテのユダの視点

一方、福音書ではこの香油の壺が砕かれた出来事の直後あるいは途中で、弟子たちの反応とイスカリオテのユダの裏切りが言及されます(マタイ26:8-16、マルコ14:4-11、ルカ22:3-6、ヨハネ12:4-6)。特にマルコ14章4-5節には、香油の壺を砕いた女性に向かって「ある人々が憤って互いに言った、『なぜこの香油を浪費するのか』」という場面が出てきます。マタイ26章8節はこの「ある人々」が「弟子たち」であると具体的に明らかにし、ヨハネ12章4-5節はさらにそれをイスカリオテのユダと特定します。またルカでは、パリサイ人シモンがこの出来事を傍で見ながら、もしイエスが本当の預言者なら、罪深い女が近づくのを許さないはずだと疑う反応を示す場面も出てきます。つまり、香油の壺を砕いた女性の愛を「本当の愛」ではなく、「浪費」あるいは「無駄な熱意」と見る視点が、いくつもの形で福音書に現れているのです。

張ダビデ牧師はこれに対して、「愛を真に経験していない者にとっては、真実な愛の行為がときに『浪費』に見えることがある」と診断します。弟子たちとユダは、毎日イエス様のそばで御言葉を聞き、多くの奇跡を目撃していながら、その愛の本質を完全には悟れなかったのです。特にヨハネ12章4-6節は、ユダが「これを売って貧しい人々に施せばよかったのに!」と語った裏には、実は金入れを預かっていた彼がそこから金を盗もうとしていた邪な意図があったことを明かしています。張ダビデ牧師はこうした場面を指して、「愛の世界に入れない人は、最終的に計算高く利己的な思いをあらわにするものだ」と指摘します。

イエス様は弟子たちの非難に対して、「そのままにしておきなさい。なぜ彼女を困らせるのか」(マルコ14:6)とおっしゃり、女性の行為を大いに喜ばれたこと、そして弟子たちの態度を責める含みを同時に示されます。さらにイエス様は、この女性の行為がご自身の埋葬をあらかじめ備えるものであり、福音が伝えられるところには必ず永久に語り伝えられるだろうと宣言なさいます(マルコ14:8-9)。ここで張ダビデ牧師は重要な問いを投げかけます。「同じ出来事、同じ場面を見ても、なぜある人は天の秘密を悟り、ある人は浪費としか見ないのか」という問いです。その理由は「その心に何が宿っているか」によるというのです。愛に満ちた心を持つ人は、惜しげもなく香油壺を砕いてももったいないとは思いません。しかし愛が冷え、主を仰ぐ視点が打算的になると、すべてが浪費にしか見えず、その中で自分の利益を得る方法ばかりを考えるようになるのです。

イスカリオテのユダは、この出来事の後“決定的な”転換点を迎えます。福音書の記録によると、ユダは祭司長たちのもとへ行き、銀貨三十枚でイエス様を引き渡すことを取り決めます(マタイ26:14-16、マルコ14:10-11、ルカ22:3-6)。ヨハネ13章2節では「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心にイエスを売ろうという思いを入れていた」と書かれています。張ダビデ牧師は、ユダがイエス様を売り渡すに至ったきっかけを深く考えるとき、まさに「香油の壺の出来事」が彼の裏切りを確固たるものにした始まりだと解説します。ユダは、自分が信じて従っていた師が、こんな莫大な“浪費”を許容するのを見て、もはやイエス様が自分の思い描いていた「メシア王国の道」を歩んでいるとは思えなくなったと解釈できるのです。一言でいえば、ユダは「もし本当の指導者なら、こんな財政の浪費を放っておくはずがない。貧しい人を助ける機会をなぜ無駄にするのか?」という自分なりの論理を立てたのでしょう。しかしその裏にはすでに物質への貪欲さが芽生えており、打算的で合理的な枠組みでイエス様の愛と働きを評価していたために、主の御心と愛の本質をまったく理解できないまま、裏切りの道へと進んでいったのです。

弟子たちの中でユダは最も極端に裏切りの道を選びましたが、実際には他の弟子たちも香油の壺を砕いた女性の行動を浪費だと見て咎めました(マタイ26:8)。張ダビデ牧師は、これは私たちにとって重要な反面教師だと言います。人間はイエス様を知って従うと言いながらも、なお愛よりは打算や利益を優先してしまう存在だということです。結局、イエス様が十字架の道を進まれる前に、弟子たちは自分たちのうちで誰が偉いかと論じ合い(ルカ22:24)、主が捕らえられると散り散りに逃げ去り(マルコ14:50)、ペテロは主を三度も否認する事態に陥ります(マルコ14:66-72)。愛の主の前にさえ、自分なりの物差しや利益を手放せない弟子たちの姿は、張ダビデ牧師が繰り返し強調するように「私たち皆の鏡」なのです。

それでも主は、彼らを見捨てにはなりませんでした。主は過越の食事を終えた後、彼らの足を洗い、「自分のものを最後まで愛された」(ヨハネ13:1参照)ことを身をもって示されます。皮肉にも、弟子たちは主への愛と献身を進んで表すことができない状態でしたが、一人の“罪ある女”は全財産とも言うべき香油壺を砕いて主に油を注ぎ、死と葬りの準備までもしたのです。張ダビデ牧師は「愛とは惜しみなく与えることであり、それがときに浪費のように見えても、その中にこそ真の栄光が現れる」という真理をあらためて想起させます。弟子たちの視点は依然として世の論理に縛られ、ユダは貪欲に引きずられて裏切りの道を選びましたが、それにもかかわらず、福音はそんな欠点だらけで弱い人間をも愛する“無条件の愛”を宣言しています。

したがって張ダビデ牧師は、弟子たちやユダの反応を深く黙想しながら「自分の内には、あのような姿はないだろうか?」と自省すべきだと勧めます。長年教会に通い、礼拝にもよく出席し、御言葉をたくさん聞いていても、その心の奥底に打算的で自己中心的な態度が残っているなら、“正しさ”を振りかざしながら、本物の愛や献身を“浪費”だとみなす危険があるのです。そしてその果てには、最も悲劇的な形としてユダのように主を裏切る場所にまで行き着きかねないと警告します。張ダビデ牧師は「主を裏切ることは、ただ表面的にイエスを売り渡すだけを意味しない。教会の中で、あるいは信仰生活において、愛を浪費する心を拒否し、損得勘定ばかりを持ち出すなら、すでに私たちの心の中に愛の主を裏切る種が成長しているのだ」と強調します。


3.福音の核心としての“浪費の愛”

最後に、イエス様が香油壺を砕いた女性の行為をめぐって「全世界のどこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも語られて、この人の記念となるだろう」(マルコ14:9)とおっしゃった言葉に注目する必要があります。これは、女性の行為が福音のメッセージと不可分の関係にあることを意味しています。人間の論理から見れば浪費・無駄遣いのように思える愛こそが、“福音が究極的に目指す姿”なのです。張ダビデ牧師は、これを「福音とは、結局神が私たちのために示された聖なる浪費、すなわち御子を喜んで与えてくださった愛なのだ」と説明します。父なる神は罪人である私たちのために独り子イエス様を惜しまず差し出され、イエス様はご自身を十字架のいけにえとして惜しみなく“浪費”してくださることで、私たちの罪をあがない、救いを贈ってくださったのです。

この「浪費」という視点は、第一コリント1章18節以下でパウロが「十字架の言は滅びる者たちには愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力である」と宣言する箇所とも呼応します。世の価値観から見れば、十字架は理解不能で、とうてい合理的とはいえない“浪費”に近いのです。全知全能の神が、なぜわざわざ人の体を取って来られ、罪人のために死なねばならなかったのか。世の知恵では決して到達できない“神の愛の知恵”がそこに隠されている、と張ダビデ牧師は福音の核心として強調します。女性が壺を砕き、香油をすべて注ぎ出した出来事もまた、「主の前で浪費を恐れない者だけが、真に福音の深みを味わうことができる」という象徴的なメッセージを与えているのです。

したがって、この物語はただ昔のどこかの町で起こった美談というだけで終わりません。今日、私たち一人ひとりの信仰と生活の中で、果たして神への愛がどれほど“すべてを捧げる愛”であり、“浪費と思われるほどの愛”になっているかを問いかけられるのです。張ダビデ牧師は具体例として、私たちの時間や財政、才能、そして献身の姿勢を挙げます。時間を割いて礼拝し、祈り、財産を惜しまず神の国のために用い、才能を神の栄光のために喜んで捧げることは、ときに周囲から「なぜそこまでするのか。ほどほどでいいじゃないか」と咎められるかもしれません。ですが、真実の愛はそうした言葉を聞いても、喜んで主に捧げる場所へと進ませてくれるのです。

張ダビデ牧師は特に、「私たちの礼拝が形骸化したり習慣で終わったりしないためには、香油壺を砕く思いで自分のすべてを主にお捧げすることがまず必要だ」と勧めます。礼拝の時に心を込めて賛美し、祈ることが、誰かには「熱心すぎる」と見えるかもしれませんが、神に捧げる愛の表現は決して無駄にはなりません。宣教や救済に力を注ぐことも同様です。ある人は「なぜそんなに多くのお金やエネルギーを海外宣教に費やすのか。国内にも困っている人がいるのに」と批判することがあるかもしれません。しかし、最終的に福音の本質は全人類に及ぶ神の愛であり、その愛は“地域”や“条件”を超越するので、一方にだけ限定されない“浪費”が求められるのです。

さらに張ダビデ牧師は、香油壺を砕いた出来事にはイエス様の“葬りをあらかじめ準備する”意味があると指摘します(マルコ14:8)。イエス様は間もなく十字架につけられ、罪のいけにえとなられ、復活によって永遠の命を成就されますが、この女性は誰よりもイエス様の“未来”あるいは“運命”を愛の心で見通していたのです。「愛すると未来が見える」という言葉のように、彼女はイエス様を真実に愛していたからこそ、主の死と復活を暗示するものを直感的に感じ取ったのかもしれません。弟子たちが「主よ、そんなことがあってはなりません」と否定したり(マタイ16:22)、十字架の道を知らぬまま言い争っていたとき(マルコ10:35-45)、この女性は宴席に来て香油壺を砕く大胆な従順をもって、イエス様の“真の道”をお汲み取りしたのです。張ダビデ牧師は、この点で「愛は霊的洞察力の鍵」であると主張します。知的理解や神学的知識だけでは分からないイエス様の道を、愛を通して直感し、そこに共に参与できるのです。

さらに今日の教会共同体においても、福音の核心が“浪費の愛”であることを見失うと、弟子たちやユダのように打算的な観点に陥り、互いに非難し合い、争いに巻き込まれやすいと言います。誰がどれだけ奉仕しているか、献金をどれだけしているか、教会活動にどれほど熱心かを比較したり、あるいは誰かの献身に対して「あそこまでやるのはやりすぎじゃないか」と不満を示したりすることもあるでしょう。しかし福音が宣べ伝えられている真の共同体ならば、香油壺を割ってイエス様に惜しみなく注いだ女性を記念せよとおっしゃった主のお言葉のように、互いの献身と愛を喜び合い、一つ心で主に栄光をお返しする姿が自然であるべきです。

張ダビデ牧師は「福音伝播の目的は、単に教勢の拡大や個人の成功ではなく、この“惜しみなく与える愛”を生活で具体化することだ」と語ります。そしてそれこそが最終的に神を崇め、隣人に生き生きと福音を証しする道だというのです。イエス様が一粒の麦として地に落ちて死に、多くの実を結ばれたように(ヨハネ12:24)、私たちも主に倣って自らを“浪費する”決断をするとき、世はキリストの香りを感じ、神の国の現実が示される、というわけです。

結論として、香油壺を砕いた女性の物語は、四つの福音書の記者がそれぞれ違った書き方をしていても、共通のメッセージを伝えています。それは、「神に捧げる愛は決して浪費ではない」という事実です。その愛を失った人々には浪費に見えるかもしれませんが、福音の視点からすると、浪費のように見えるその愛こそが命と救いの源なのです。張ダビデ牧師はこの本文を引用しながら絶えず強調します。「主の十字架は、全能の神が愚かで無意味に見える方法を選ばれた最高の愛であり、その愛を受け入れた者は、喜んで香油壺を砕いて主に香油を注ぐ者とならなければならない。たとえそれが世の目には浪費に見えたとしても、その浪費の中にこそ福音の力が宿っているからだ」と。

私たち各自に与えられた決断は、人生の具体的な場面で“香油壺を砕く勇気”を持てるかどうかという問題です。信仰生活が長くても、依然として打算や理性的判断、損得勘定から自由になっていない場合もあるでしょう。しかしもし私たちが主の十字架の愛を真に体験し、また張ダビデ牧師が言うように「私たちは本来、霊的なツァラアト患者であり、主が癒してくださったのだ」ということを悟ったなら、主に自分の壺を砕いて差し出すことが決して惜しいとは思えなくなるはずです。その壺は私たちの財産かもしれませんし、時間かもしれないし、才能や将来の計画かもしれません。ある人にとっては自尊心や世間的地位かもしれません。何であれ、それを主以上に大切にしているものがあるならば、それを“砕いて”主に捧げる時、その献身こそが最も香り高い礼拝となるのです。

結論として、この第三の小主題で張ダビデ牧師はまとめます。福音とは“愛の浪費”によって完成した神の救いのご計画であり、その救いにあずかる道もまた、私たち自身が喜んで自分を浪費する愛の決断をするところに開かれるということ。そしてその出発点は、「主がまず私のために浪費してくださった」という真実を悟ることにあります。イエス様の十字架こそが最も素晴らしい“香油壺を砕く”出来事だったというわけです。イエス様がご自身のすべてを惜しみなく捧げてくださったからこそ、私たちはその愛を知り、さらにその愛を主と隣人にお返しできるのです。貧しい人、病む人、あるいは教会の交わりの中でもときに自分と合わない人にさえ、私たちは香油壺を砕いて主の香油を注いであげることができます。そしてその愛の献身は決して無駄にならず、福音が伝えられる所では必ず記憶され、記念されるに値すると主ご自身が約束してくださったのです。

ここまで見てきた三つの小主題――(1)ベタニアのツァラアト患者シモンの家と香油壺を砕いた女性についての張ダビデ牧師の黙想、(2)弟子たちとイスカリオテのユダの視点が示す警告、(3)福音の核心としての“浪費の愛”と今日的な適用――を通して、私たちはこの出来事が単なる“感動的な物語”ではなく、福音の精髄を含む重大な宣言であることを悟ります。この香油壺の出来事は、神が私たちに注いでくださる無条件の愛と、その愛の前で私たちがどのような献身を捧げるべきかを明確に示しています。張ダビデ牧師は「神は私たちに問うておられる。『あなたは本当に香油壺を砕く準備ができているか』」と問いかけ、その答えを通して私たちは福音の深みを体験するのだと強調します。そして、答えはすでに与えられています。イエス様が先に私たちのために香油壺を砕いてくださり、その中に注がれた無限の愛をもって私たちを満たしてくださったゆえ、私たちも喜んで香油壺を砕く力を得られるからです。

結局、神の大いなる愛はいつも“浪費のように見えるもの”として現れます。けれども、その浪費こそが世界を生かす命への道なのです。私たちは、弱く打算的な弟子たちやユダの姿を警戒しつつ、同時にベタニアのツァラアト患者シモンのように癒しと受容の恵みにあずかった者であることを忘れてはなりません。そして香油壺を砕いた女性のように感謝と愛をもって主の前に進み、私たちの人生で最も貴重なものを献身の礼拝としてお捧げすべきなのです。これこそが、張ダビデ牧師が本文を通して繰り返し教えている福音の核心であり、信徒が進むべき真の弟子道です。たとえこの“浪費する愛”を「愚かだ」と非難する声があっても、主はその愛を決して退けず、「全世界で福音が宣べ伝えられる所には、あなたのしたことも共に語られるだろう」と約束してくださいました。その約束を握りしめ、私たちは皆、香油壺を砕く生き方を決断する必要があります。

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破香膏玉瓶的爱—张大卫牧师


1. 在伯大尼麻病人西的家以及打破香膏玉的女子:默想

记载在伯大尼麻风病人西门家中所发生的这件事,四卷福音书都有各自不同的描述(太 26:6-13;可 14:3-9;路7:36-50;约12:1-8)。尤其这是耶稣公开事工最后一周里出现的事件,因此对福音书作者而言意义非凡。张大卫牧师在默想这一经文时指出:一方面,这段记载让我们看见耶稣到底是怎样的一位主,另一方面,也让我们深思自己该以何等的爱来到主面前。

首先,根据马可福音第14章第3节,耶稣在伯大尼麻风病人西门的家中用膳。希腊原文中“麻风病人”与旧约常指的麻风(leprosy)用词相同,然而和现代医学定义的汉森氏病并不完全一致。即便如此,传统上麻风象征“污秽”和“必须与神隔离”。对此,张大卫牧师提到有两点值得留意。

第一,耶稣毫无避讳地与被视为“不洁净”的人同席。当时犹太社会中,麻风病人被隔离在群体之外,不仅无法正常进出圣殿,也难以和一般人正常往来。可耶稣却在伯大尼麻风病人西门家中一起进餐。这显示出耶稣超越律法和宗教的藩篱,以完全的“爱”去看待人。张大卫牧师解释道:“耶稣进入麻风病人西门的家,并施行医治的样式,本身就清楚展现了福音的真谛。”福音是关乎神国的好消息,而这好消息正向罪人、病患及软弱之人开放。按世人的标准,那些理当被隔离的人,如今却与耶稣同席,正是福音在现实中的具体体现。

第二,需要注意“西门”这个名字所蕴含的含义。福音书中名叫“西门”的人不少(彼得原名亦为西门),但马可福音特意记载“麻风病人西门”,意义非同寻常。张大卫牧师提示,福音书读者对“西门”这个名字并不陌生,会自然联想到西门彼得曾被主呼召成为门徒这一事实。某种程度上,这象征着:福音的恩典同样适用于罪人和病人。那时人们多把麻风视为“神的审判”或“属灵的不洁”,但耶稣愿与这样的人同席,其实就是在宣告对他的“完全接纳”。张大卫牧师提道:“我们也当自知原本在灵性上犹如麻风病人。”我们死在过犯罪恶之中,在神的圣洁面前是污秽不堪,然而因着耶稣基督的爱,我们蒙恩得以与主同桌、享受与祂的亲密相交。

就是在这样一个极具象征意义的场景——“伯大尼麻风病人西门的家”里,一位妇人拿着贵重的香膏,也就是“纯正的哪哒香膏”所盛的玉瓶,打破后浇在耶稣的头上(可14:3)。关于这位妇人:马太福音说她是“有一个妇人”,马可福音也称之为“一个妇人”;路加福音则记载“有一个罪人妇女”在法利赛人西门(可能同名不同人)家中,哭着将香膏献给耶稣;约翰福音则明确说明这妇人名叫马利亚。尽管福音书在细节上略有差异,但共同点在于:“她将极其昂贵的香膏浇在耶稣身上”,无论是同一事件还是类似事件,重点都是要彰显她的行动所展现的爱和献上的意义。

张大卫牧师特别留意“哪哒”这一香膏的含义。哪哒是取自喜马拉雅高山植物的根部炼制而成,在当时巴勒斯坦地区极其珍贵且价值不菲。据说要购买这样一整瓶香膏,需要三百银币(约等于一般百姓一整年的工资)。所以,她打破整瓶香膏浇在耶稣身上,象征“将自己一切最宝贵的,都毫无保留地献上”。张大卫牧师分析:“在主面前,这位女子拿出了自己最珍贵的东西。她或许敏锐地察觉耶稣即将受死并复活,也知道祂才是真正的王。”爱不是算计与交易,而是毫无保留地奉献。这件事见证了爱之本质在于“甘愿付出不求回报”。

由此看来,这位打破玉瓶浇香膏的妇人,展现了一种无条件且绝对的爱。张大卫牧师形容:“真正的门徒之路,总是从外人看来像是‘浪费’的爱开始绽放。”从表面看,她的行为似乎很不理性、甚至像挥霍,但置于整本福音书的脉络中,我们才发现,这爱正是预表耶稣的死与复活,更具先知性与象征意义。在古代近东文化里,“膏抹”常用于立王或祭司等特殊职分的礼仪。那妇人以自己深切的爱宣告:耶稣乃是真正“受膏者”,即弥赛亚。

而在路加福音7章38节中,还特别提到这位妇人哭着亲吻耶稣的脚,用眼泪湿了主的脚,又以自己的头发擦干。她深知自己是个罪人,不配站在耶稣面前,但她同样深信耶稣圣洁的爱,因而以极度谦卑的姿态献上自己。张大卫牧师关注到她的泪水,认为这泪水里既有她因罪和软弱而蒙主怜悯的感谢,也包含她预感到自己所敬爱、尊崇的主即将死去的悲伤。

由此可见,伯大尼麻风病人西门家中所发生的这场“打破玉瓶倒香膏”的事件,把“曾被视为污秽之人,现与耶稣同席”的场所意义,以及“妇人毫无条件奉献的爱”紧密结合,将耶稣的弥赛亚身份和福音的内涵展现得淋漓尽致。张大卫牧师强调:此爱的事件突显了福音最重要的特质——无条件的恩典。如果心中仍存着计算的目光,我们可能会把这妇人的爱看成“浪费”或“奢侈”。但福音宣告“神的愚拙总比人更有智慧”(林前1:25),在世人看来像是浪费的爱,正是神的智慧与拯救大能。

总结而言,张大卫牧师认为,这件事就是“在最低微的地方、在最被遗弃者的家里,展现了最昂贵的爱——福音的精髓”。那因麻风而被隔绝的西门得了医治,与主同席;那被视为罪人的女子在这家中打破最宝贵的香膏,服事了耶稣。这正是福音的真实图景,也正是主今日仍然寻找的那种爱。那爱是不计代价、不计回报、看似浪费的奉献。


2. 加略人大的

在福音书的记载里,这场“打破玉瓶”事件发生后或当中,门徒们的反应以及加略人犹大的背叛也紧随其后出现(太26:8-16;可 14:4-11;路 22:3-6;约12:4-6)。特别是马可福音14章4-5节,提到有些人在看到妇人的举动时,气愤地对彼此说:“为什么这样浪费香膏呢?”马太福音26章8节点明这些人就是“门徒”;约翰福音12章4-5节则更明确指出那人是加略人犹大。路加福音则记载法利赛人西门在一旁质疑:“若耶稣真是先知,就不会容许这个罪人妇女碰触自己。”也就是说,对这位“打破玉瓶”的女子,那些人并不视其为真正的爱,反而觉得她在“浪费”或“徒劳的热情”。这在福音书中有不同的侧面展现。

对此,张大卫牧师点评道:“没有真正经历过爱的人,有时会把真诚的爱之举看成‘浪费’。”门徒和犹大虽每天都跟随耶稣,听祂讲道,见过不少神迹,却未真正明白那爱的核心。尤其约翰福音12章4~6节说明,犹大斥责这是浪费,并声称“何不把香膏卖了分给穷人呢”,实际上,他内心隐藏着私欲,因为他掌管钱袋,想中饱私囊。张大卫牧师指出:“凡没有进到爱里的人,终究会以利己的动机来衡量一切。”

于是,耶稣对门徒的指责回应说:“由他吧,为何难为他呢?”(可14:6)。这既表明主对那妇人的行动极为喜悦,也在责备门徒的态度。祂更说这妇人是为祂的安葬预备,当福音传遍天下时,也要述说这件事,永远记念她(可14:8~9)。张大卫牧师在此提出一个关键问题:“为什么在同一个事件、同一个场景中,有的人能洞悉天国的奥秘,有的人却只看见浪费?”答案就在于“心里装的是什么”。若心中充满爱,就会甘心打破玉瓶,全然奉献;若心中缺乏对主的爱,就会觉得一切都在浪费,并打起自我得利的算盘。

加略人犹大正是在这事件之后走向了“背叛”的关键转折。根据福音书的记载,他遂去找祭司长们,以三十块银钱作代价,商量如何把耶稣交给他们(太26:14-16;可 14:10-11;路22:3-6)。约翰福音13章2节也提到:“魔鬼已经将卖耶稣的意念放在加略人西门的儿子犹大心里。”张大卫牧师默想犹大之所以最终出卖耶稣,与“玉瓶香膏事件”极其相关。犹大看见自己所信任的老师居然许可这么大的“浪费”,不再相信耶稣所走的是他理想中“弥赛亚建国”的道路。换句话说,他心里或许想着:“若祂真是合格的领导者,就不会纵容这样耗费钱财;也不会忽视那原本可以拿去救济穷人的机会。”然而他内心早已有对金钱的贪欲,也习惯以功利、理性标准去审视耶稣的爱与事工,终究看不明白主的心意,走向背叛的深渊。

门徒中虽只有犹大走到最极端的地步,但其实其他人也曾因这妇人的行动而心生抱怨,觉得那是“浪费”(太26:8)。张大卫牧师提醒道,这是对我们的警戒。人即便跟随耶稣,也随时会陷入以“利益”和“计算”为先的境地。最终,在耶稣走向十字架时,门徒之间还在争论谁最伟大(路22:24);耶稣被捕时,他们各自逃跑(可 14:50);彼得也三次否认主(可14:66-72)。即使面对满有爱的主,他们仍然摆脱不了自我利益和衡量标准。这正如张大卫牧师反复提及的:“这是我们所有人的镜子。”

尽管如此,主却没有丢弃门徒。逾越节晚餐后,耶稣为他们洗脚,并以实际行动彰显“他既爱世间属自己的人,就爱他们到底”(参约13:1)。反差的是,门徒尚未能向主全情奉献,但那“罪人女子”却拿出她一生的宝贵香膏打破玉瓶,为耶稣膏抹,甚至包含了对耶稣受死与安葬的预备。张大卫牧师再次强调:“爱就是毫无保留地给予,即便看似浪费,却必然带出真荣耀。”门徒还被世间思维所捆绑,犹大更被贪心牵引选择背叛,但福音的信息却是对一切软弱、有瑕疵的人宣告“无条件的爱”!

因此,张大卫牧师劝诫我们要深思门徒和犹大的回应:“我的内心是否也有这样的一面?”纵然在教会里已久,常常聚会敬拜,听了不少道,若心灵深处仍然充满计算、自我中心,就可能口口声声讲“是或不是”,却轻视甚至否定真诚的爱和奉献为“浪费”。到了极端,甚至会像犹大一样,最终背叛主。张大卫牧师指出:“背叛主不只表面上的‘把耶稣交出去’,若我们在教会或信仰生活中,拒绝这样‘耗费式的爱’,而只会算自己的得失利益,在某种程度上,我们内心已在背弃爱之主的种子。”


3. 福音核心的“甘愿舍己的

最后,耶稣对那打破玉瓶的女子说:“无论在全世界什么地方传福音,也要述说这女人所行的,以为记念。”(可14:9)这表明她的作为与福音的信息紧密相连。凭世间的逻辑来看,这样的爱似乎是“浪费”,但在福音的眼光里,“甘愿舍己的爱”才是福音的终极目标。张大卫牧师指出:“福音本身正是神为我们所作的‘神圣浪费’,也就是不惜将独生子赐给我们的爱。”父神因爱愿将独生子赐下;耶稣也甘愿在十字架上舍己,把自己毫无保留地“倾倒”出来,好使罪人得救、得生命。

从“浪费”的视角看,保罗在哥林多前书1章18节以后也宣告:“十字架的道理,对那正灭亡的人为愚拙,对我们得救的人却为神的大能。”从世俗智慧看来,神道成肉身,并为罪人死在十字架上,怎么听都不合理,堪比“愚拙与浪费”。可事实上,这正是“神的爱与智慧”。张大卫牧师强调的福音重点就在此:打破玉瓶、倒出所有香膏的那件事,象征“只有不畏浪费地将自己献给主的人,才能真正品尝福音的深度”。

这故事并非只是过去在某地发生的动人场景,也对今天我们的信仰生活产生质问:我们对神的爱,是否能达到“舍弃一切”“甚至看似浪费”的程度?张大卫牧师举了几个实际例子:我们如何分配时间、金钱、恩赐?为了神的国度,我们是否甘心奉献?这样可能引来周围人说:“何必如此?别太过了!”然而真正的爱会超越这些质疑,心甘情愿地把自己交给神。

张大卫牧师尤其提醒:“若我们的敬拜只是形式或习惯,唯有先存着‘打破玉瓶’的心态,把最珍贵的献给主,才能避免虚空的礼仪。”有人或许会觉得:“唱诗、祷告投入这么多,岂不是情绪化或过度热情?”但在神面前,这种倾注的爱绝不是浪费。同理,海外宣教和社会关怀亦然。有些人会批评:“为什么要花那么多钱和精力在海外?我们国内也有不少需要。”然而福音的核心是神对全人类的爱,跨越地域与条件,而这爱本身就包含某种“浪费式”的舍己。

此外,张大卫牧师强调了这打破玉瓶之举也带有“为耶稣安葬预备”的含意(可14:8)。耶稣即将被钉十字架,为罪作牺牲,且复活进入永生。那妇人比任何人更先在“爱”里看见耶稣的未来或“命定”,如同俗语所言“因爱而见未来”。当门徒还在否认主会受死(太16:22),或为十字架的道而互相争辩之时(可10:35-45),这妇人却当机立断地打破玉瓶,用顺服与爱默默地参与了耶稣的“真正道路”。张大卫牧师因此说:“爱就是属灵洞察力的钥匙。”仅靠神学知识或理性理解,未必能领会耶稣的路,但若出于爱,往往能用心直觉感受到并加入主的脚踪。

同时,张大卫牧师提醒,当今教会若忘记“爱之舍己”是福音核心,很容易坠入门徒和犹大式的功利主义。教会里有人会比较谁奉献多,谁更热心,或质疑某些人的服事“过于夸张”。可若是真正传扬福音的群体,就应仿效耶稣对那女子的肯定:“无论何处传福音,也要记念她所行的。”我们当彼此欣赏对方的奉献与爱,同心将荣耀归给主。

张大卫牧师总结:“福音的目标并非教势扩张或个人成功,而是将这‘毫无保留的爱’活出来。”只有当我们效法耶稣那一粒麦子落地死去、结出许多子粒(约12:24),世人才会感受到基督的馨香之气,看见神国真实地临在。当我们效法主的牺牲,“甘心被消耗”时,世界才会借此认识并经历神的爱。

换言之,那位打破玉瓶的女子在福音书中虽以不同形式记录,却传递同一个讯息:“向神奉献的爱绝非浪费。”对缺乏爱的人来说,也许会显得愚拙;可对福音而言,这种看似浪费的爱,反是生命与救恩的源头。张大卫牧师不断提醒:“主的十字架就是全能的神采取似乎愚拙的方式,为我们倾倒的最高之爱。凡真正领受这爱的人,也会甘心像那妇人一样打破自己的玉瓶,倾倒自己最珍贵的一切。虽然在世人眼里看似浪费,但其中却蕴含福音的大能。”

因此,摆在我们面前的问题是:在具体的生活环节里,我们能否“鼓起勇气打破玉瓶”?纵使信主已久,我们也可能仍被理性、算计、利益驱使。但若我们真经历了耶稣十字架的爱,又领悟到如张大卫牧师所言“原先我们也在灵性上如麻风病人,而主医治了我们”,那么就会发现,把那玉瓶献给主绝不该觉得可惜。那“玉瓶”或许是我们的金钱、时间、才干,或者是未来计划;有时也可能是我们的自尊或地位。无论那是什么,只要在我们心中比主更宝贵,都当“打破”献上给主。如此的奉献,将成为最馨香的敬拜。

总之,张大卫牧师在他的第三个要点中如此总结:福音本身就因“爱之舍己”而完成神的救恩计划,而我们若要参与这救恩,也必须以“甘愿舍己的爱的决心”去回应。“因为主已经先为我们‘破瓶’了”,祂用无限的爱浇灌我们,于是我们也有力量同样舍己地去爱。无论是贫穷之人、患病之人,或在教会中那些与我们不和的人,我们都能“打破玉瓶”将主的馨香带给他们。而这爱的奉献绝不会徒然,主亲自应许:“福音所到之处,必要记念这事”。

纵观上述三个分题——(1)张大卫牧师对伯大尼麻风病人西门家及打破玉瓶浇香膏女子的默想,(2)门徒与犹大的反应所带来的警戒,(3)“舍己之爱”作为福音核心并当代的实际应用——我们深刻意识到,这不仅是段“感人的故事”,更是蕴含福音精髓的重要宣告。此“打破玉瓶”之事,同时彰显了神对我们的无条件之爱,以及我们当如何奉献回应。张大卫牧师发出振聋发聩的提问:“你准备好打破自己的玉瓶了吗?”而答案早已在主里赐下:因耶稣先替我们打破了祂的玉瓶,把那无尽的爱倾倒在我们身上,让我们也能有力量舍弃所有,回应那无条件的召唤。

归根结底,神的爱常常以“看似浪费的方式”展现,却正是这“浪费”拯救了世界。我们当防备自己心中那与门徒和犹大相似的软弱,也要常记得我们原先和伯大尼的西门一样蒙恩得医治,更要学那打破香膏的妇女,以感恩和爱献给主生命里最珍贵的事物。这便是张大卫牧师透过本段经文反复唤起的福音核心,也是每一个跟随主的门徒必须走上的道路。即便有人嘲笑这份舍己之爱“愚拙”,主却必然悦纳,并允诺“在普天之下,传福音的地方,都要记念这件事”。愿我们都能立定心志,在自己的人生里也“打破玉瓶”,活出这超越算计的爱。阿们。

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L’amour qui brise le vase d’albâtre – Pasteur David Jang


1. Méditation sur la maison de Simon le lépreux à Béthanie et sur la femme qui a brisé son vase

L’épisode qui se déroule dans la maison de Simon le lépreux à Béthanie est rapporté de diverses manières dans les quatre Évangiles (Mt 26:6-13; Mc 14:3-9; Lc 7:36-50; Jn 12:1-8). Il prend place, en particulier, durant la dernière semaine du ministère public de Jésus, ce qui lui confère une grande importance aux yeux des rédacteurs évangéliques. À travers sa méditation de ce texte, le pasteur David Jang souligne que, d’une part, cet événement révèle qui est vraiment Jésus et, d’autre part, il nous invite à réfléchir à la manière dont nous devons approcher le Seigneur avec un amour sincère.

Dans Marc 14:3, on voit Jésus prendre son repas chez Simon le lépreux, à Béthanie. Le terme grec utilisé pour désigner « lépreux » renvoie généralement à la même maladie que dans l’Ancien Testament (la lèpre, leprosy), bien qu’elle puisse différer quelque peu de la lèpre moderne (maladie de Hansen) sur le plan clinique. Quoi qu’il en soit, la lèpre, dans la tradition biblique, symbolisait l’« impureté » et la nécessité d’être mis à l’écart de la présence de Dieu. Selon le pasteur David Jang, deux points méritent ici notre attention.

Premièrement, Jésus partage librement la table avec un homme considéré comme « impur ». Dans la société juive de l’époque, les lépreux étaient exclus de la communauté et ne pouvaient ni accéder au Temple ni avoir des échanges normaux avec les gens. Pourtant, Jésus accepte de se rendre chez Simon le lépreux pour y prendre un repas. Cela montre que Jésus dépasse les barrières légales et religieuses pour considérer toute personne avec un regard d’« amour ». Le pasteur David Jang explique que « voir Jésus entrer chez Simon le lépreux et le guérir est un signe très clair de ce qu’est l’Évangile ». La Bonne Nouvelle du Royaume de Dieu est ouverte aux pécheurs, aux malades et aux faibles. Du point de vue du monde, Simon aurait dû être maintenu à l’écart, mais le fait qu’il puisse participer au repas de Jésus est déjà une manifestation concrète de l’Évangile.

Deuxièmement, la mention du nom de Simon n’est pas anodine. Le nom « Simon » apparaît souvent dans les Évangiles (c’était aussi le nom originel de Pierre). Toutefois, Marc l’identifie ici comme « Simon le lépreux ». Le pasteur David Jang y voit un indice soulignant combien ce nom est familier aux lecteurs des Évangiles : cela renvoie à la fois à Simon-Pierre, principal disciple de Jésus, et à Simon le lépreux, qui reçoit la visite et l’accueil du Seigneur. Ainsi, le fait que Pierre ait été choisi comme principal disciple illustre la même grâce accordée aux pécheurs ou aux malades. Dans la mentalité de l’époque, la lèpre était vue comme un « châtiment de Dieu » ou une « impureté spirituelle ». Mais le fait que Jésus mange avec Simon déclare en quelque sorte une « pleine acceptation » de cet homme. Le pasteur David Jang insiste : « Nous devons nous souvenir que nous étions tous des lépreux spirituels. » Autrement dit, nous étions morts dans nos fautes et nos péchés, impurs devant la sainteté de Dieu. Pourtant, grâce à l’amour de Jésus-Christ, nous avons été invités à Sa table, pour partager avec Lui une vraie communion.

C’est précisément dans cet endroit concret et symbolique qu’une femme s’avance vers Jésus, rompant un vase d’albâtre rempli d’un parfum précieux (du nard pur), pour en verser le contenu sur la tête du Seigneur (Mc 14:3). À propos de cette femme, Matthieu parle d’une « femme », Marc également d’une « femme », Luc rapporte que c’était une « femme pécheresse » (dans la maison de Simon le pharisien, homonyme possible), tandis que Jean l’identifie comme « Marie ». Malgré les différences de détail entre les récits, l’essentiel est que cette femme versa un « parfum très coûteux » sur Jésus, et que les Évangiles soulignent la valeur et la profondeur de ce geste d’amour et de dévotion.

Le pasteur David Jang attire l’attention sur le sens du « nard » : c’était un parfum de grand luxe, extrait de la racine d’une plante poussant dans les montagnes de l’Himalaya. On l’importait à prix élevé en Palestine. Le texte évoque trois cents deniers comme valeur possible de ce parfum, ce qui correspond à peu près au salaire d’une année de travail pour un ouvrier. Briser le vase entier pour le déverser aux pieds de Jésus exprime symboliquement que la femme a offert « tout ce qu’elle avait » au Seigneur. Selon le pasteur David Jang, « face au Seigneur, cette femme donne ce qu’elle a de plus précieux. Elle a sans doute perçu instinctivement l’imminence de la mort et de la résurrection de Jésus, et compris qu’Il était le vrai Roi. » En effet, l’amour ne calcule pas et ne demande pas de contrepartie. Le simple fait de « tout donner sans compter » incarne la nature même de l’amour, ce que cet épisode illustre magnifiquement.

Dans ce geste de la femme qui brise son vase de parfum, nous découvrons l’idée d’un amour inconditionnel ou d’une « consécration sans réserve ». Le pasteur David Jang dit à ce propos : « Un vrai disciple est toujours prêt à un amour qui peut sembler du gaspillage, et c’est là que fleurit la foi. » D’un point de vue purement humain, le geste de cette femme paraît absurde, irrationnel, exagéré. Mais dans le contexte de l’ensemble des Évangiles, cet amour prend une valeur prophétique et symbolique, puisqu’il anticipe la mort et la résurrection de Jésus. Dans l’Ancien Proche-Orient, on versait de l’huile pour consacrer un roi ou un prêtre appelé à un service sacré. Par son ardent amour, cette femme proclame que Jésus est véritablement « l’Oint », le Messie.

Dans Luc 7:38, nous voyons aussi cette femme se tenant derrière Jésus, en pleurs, mouillant Ses pieds de ses larmes, les essuyant de ses cheveux et les couvrant de baisers. C’est l’attitude de quelqu’un qui reconnaît ne pas pouvoir se tenir devant Lui à cause de ses péchés, mais qui fait pleinement confiance à Son amour saint et miséricordieux. Le pasteur David Jang souligne la profondeur de ses larmes : elles exprimaient peut-être à la fois la gratitude envers la compassion de Jésus, qui accueille les pécheurs, et la tristesse devant la mort qu’elle pressentait proche. Quoi qu’il en soit, cette scène montre bien comment, au milieu de l’impureté et de la maladie, la rencontre avec Jésus restaure, et comment l’amour se déverse sans limite ni condition.

Ainsi, ce qui se passe dans la maison de Simon le lépreux, à Béthanie, met en lumière la dimension à la fois concrète et hautement symbolique d’un double message : d’un côté, on trouve la signification du lieu lui-même (l’homme impur devient pur et partage le repas avec Jésus), et de l’autre, l’acte radical d’une femme qui verse un parfum très coûteux sur le Seigneur (une forme d’amour absolu). Le pasteur David Jang affirme que c’est là un reflet magistral de la vraie identité messianique de Jésus et de la puissance de l’Évangile. Il s’agit d’un amour offert sans aucune condition. Si l’on s’en tient aux critères humains, cet amour apparaît comme un gaspillage. Mais l’Évangile enseigne que « la folie de Dieu est plus sage que les hommes » (1 Co 1:25) : aux yeux du monde, l’amour semble parfois absurde, mais c’est en fait la sagesse divine et la puissance qui sauve.

En conclusion, le pasteur David Jang décrit l’événement de Béthanie comme « l’essence de l’Évangile, où la plus grande valeur jaillit au cœur du lieu le plus bas, la maison d’un homme rejeté ». Simon, exclu à cause de sa lèpre, y est pourtant restauré et partage le repas avec le Seigneur. Une femme pécheresse, considérée comme indigne, y brise le vase de parfum le plus précieux pour servir Jésus. Voilà ce qu’est l’Évangile en action, et Jésus cherche encore aujourd’hui un tel amour. Cet amour ne calcule pas. Il peut avoir l’air d’un gaspillage, mais il est inconditionnel, sans attente de retour. Et c’est là que la grâce et la gloire de Dieu se révèlent.


2. Le regard des disciples et de Judas Iscariot

Dans les récits évangéliques, juste après (ou parfois au cours de) l’épisode où la femme brise son vase de parfum, on voit la réaction des disciples et la trahison de Judas Iscariot (Mt 26:8-16; Mc 14:4-11; Lc 22:3-6; Jn 12:4-6). En particulier, dans Marc 14:4-5, on lit que « certains » s’indignent contre la femme, estimant qu’elle a gaspillé le parfum. Matthieu 26:8 précise qu’il s’agit des « disciples ». Jean 12:4-5 cible encore plus précisément Judas. Et Luc 7, de son côté, montre Simon le pharisien (autre personnage nommé Simon) qui doute de Jésus : si ce dernier était prophète, Il ne se laisserait pas toucher par une femme aussi pécheresse. Bref, tous ces passages illustrent plusieurs manières de considérer le geste de la femme non comme un « véritable amour », mais comme un « gaspillage » ou un « excès » injustifié.

Le pasteur David Jang souligne que « celui qui n’a jamais fait l’expérience de l’amour vrai perçoit parfois les élans d’amour sincère comme du gaspillage ». Les disciples et Judas, qui avaient pourtant écouté les paroles de Jésus et vu bon nombre de Ses miracles, n’avaient pas pleinement saisi la nature de Son amour. En particulier, dans Jean 12:4-6, Judas justifie sa critique en avançant que l’argent de la vente du parfum aurait pu être donné aux pauvres. Mais le texte note aussitôt que Judas, qui gérait la bourse commune, volait ce qu’on y déposait. Pour le pasteur David Jang, ce passage illustre « quiconque n’entre pas dans l’univers de l’amour finit par laisser paraître une intention égoïste et calculatrice ».

Devant l’indignation des disciples, Jésus répond : « Laissez-la. Pourquoi lui faites-vous de la peine ? » (Mc 14:6). Le Seigneur approuve grandement l’acte de cette femme et réprimande ceux qui le contestent. Il ajoute que son geste anticipe Son ensevelissement et qu’on s’en souviendra partout où l’Évangile sera prêché (Mc 14:8-9). À ce propos, le pasteur David Jang pose une question essentielle : « Pourquoi, face au même événement, certains voient-ils le mystère du Ciel, tandis que d’autres n’y voient qu’un gaspillage ? » La réponse réside dans « ce qui habite au fond du cœur ». Quand un cœur est rempli d’amour, on peut briser un vase d’albâtre sans ressentir la moindre perte. Mais quand l’amour se refroidit et que le regard sur le Seigneur se fait calculateur, tout paraît du gaspillage, et l’on ne cherche qu’à tirer profit de la situation.

Après ce moment, Judas prend un tournant décisif. Les Évangiles rapportent qu’il se rend alors auprès des grands prêtres pour négocier la livraison de Jésus pour trente pièces d’argent (Mt 26:14-16; Mc 14:10-11; Lc 22:3-6). Jean 13:2 ajoute : « Le diable avait déjà mis au cœur de Judas Iscariot, fils de Simon, le dessein de le trahir. » Pour le pasteur David Jang, l’épisode de l’« onction du parfum » a pu jouer un rôle de catalyseur dans le choix de Judas. Témoin de cet apparent « gaspillage » cautionné par Jésus, Judas a probablement considéré que ce n’était plus le « chemin messianique » qu’il s’imaginait. Peut-être s’est-il dit : « S’il était un vrai guide, Il ne permettrait pas un tel gaspillage. Pourquoi ne pas aider plutôt les pauvres ? » Mais derrière cette façade, Judas laissait grandir en lui l’avidité pour l’argent, jugeant l’action et la mission de Jésus selon des critères purement rationnels et égoïstes. Il ne parvenait donc pas à comprendre la profondeur de l’amour du Seigneur, et c’est ainsi qu’il se lança sur la voie de la trahison.

Même si Judas représente l’exemple le plus extrême de la dérive, il ne faut pas oublier que les autres disciples aussi jugeaient le geste de la femme comme un gaspillage (Mt 26:8). Le pasteur David Jang nous rappelle que c’est là une mise en garde pour chacun de nous : connaître Jésus, Le suivre et écouter Ses paroles ne nous préserve pas toujours du désir de calculer et de tirer un bénéfice. D’ailleurs, juste avant la Passion de Jésus, les disciples se querellaient pour savoir qui d’entre eux serait le plus grand (Lc 22:24). Quand Jésus fut arrêté, ils s’enfuirent tous (Mc 14:50) et Pierre renia le Seigneur à trois reprises (Mc 14:66-72). Ainsi, même face à l’amour, nous pouvons garder nos critères de jugement et nos intérêts personnels. Comme le souligne sans relâche le pasteur David Jang, « les disciples sont le miroir de nous tous ».

Pourtant, malgré ces faiblesses, Jésus ne les rejette pas. Après le dernier repas de la Pâque, Il leur lave les pieds et leur montre qu’Il les « aime jusqu’au bout » (cf. Jn 13:1). Le paradoxe est frappant : tandis que Ses disciples se montrent encore incapables d’exprimer pleinement leur amour et leur dévotion, une « femme pécheresse » offre au Seigneur un parfum d’une valeur inestimable, anticipant Sa mort et Sa mise au tombeau. Selon le pasteur David Jang, « l’amour consiste à donner sans compter et, bien qu’aux yeux du monde cela paraisse parfois du gaspillage, c’est de cette manière que la vraie gloire se révèle ». Les disciples, quant à eux, demeuraient prisonniers d’une logique terrestre. Judas, poussé par la convoitise, a choisi la trahison, mais l’Évangile n’en demeure pas moins un message d’amour inconditionnel pour des êtres humains faillibles et pécheurs.

Le pasteur David Jang nous invite, à travers la réaction des disciples et de Judas, à réfléchir sur nous-mêmes : « Ne retrouve-t-on pas en nous quelque chose de semblable ? » Même si nous allons à l’église depuis longtemps, si nous assistons à tous les cultes et connaissons bien la Bible, nous pouvons conserver au fond de nous-mêmes un état d’esprit calculateur et égocentrique. Alors, ce que d’autres font par amour nous apparaîtra comme un « gaspillage » ou une action démesurée. Et, dans les cas les plus dramatiques, nous pourrions finir par trahir le Seigneur comme Judas. Le pasteur David Jang met en garde : « Trahir le Seigneur, ce n’est pas seulement Le livrer officiellement. Dès lors que nous refusions de donner notre amour et que nous restions dans une mentalité de profit, la graine de la trahison de l’amour est déjà présente au fond de notre cœur. »


3. L’amour du « gaspillage » comme cœur de l’Évangile

Enfin, il faut prêter une attention particulière à la parole de Jésus : « Je vous le dis en vérité, partout où l’on prêchera l’Évangile dans le monde entier, on racontera aussi ce que cette femme a fait, en mémoire d’elle » (Mc 14:9). Jésus place ainsi le geste de cette femme au cœur même du message de l’Évangile. D’un point de vue humain, il s’agit d’un « gaspillage » scandaleux. Mais selon l’Évangile, c’est précisément ce genre d’amour qui incarne la visée ultime de Dieu. Le pasteur David Jang commente : « L’Évangile, c’est en définitive le “gaspillage sacré” que Dieu fait pour nous, en livrant Son Fils unique. » Le Père a donné Son Fils unique pour sauver des pécheurs, et Jésus, en s’offrant jusqu’à la mort sur la croix, s’est « entièrement dépensé » pour nous offrir le salut.

Cette idée de « gaspillage » entre en résonance avec la parole de Paul en 1 Corinthiens 1:18, selon laquelle « la parole de la croix est une folie pour ceux qui périssent, mais pour nous qui sommes sauvés, elle est la puissance de Dieu ». Du point de vue du monde, la croix est incompréhensible, une aberration qui défie toute logique. Pourquoi un Dieu tout-puissant se revêtirait-Il d’humanité pour souffrir et mourir à la place des pécheurs ? C’est un mystère que seule la « sagesse de l’amour de Dieu » peut éclairer. C’est cette sagesse qui se manifeste dans l’acte de la femme brisant son vase. Le pasteur David Jang explique que « seul celui qui est prêt à ce genre de “gaspillage” devant le Seigneur peut réellement saisir la profondeur de l’Évangile ». Sans cet élan, on reste prisonnier des logiques humaines.

Ainsi, ce récit n’est pas simplement un beau souvenir ancien. Il nous interpelle chacun aujourd’hui sur l’authenticité de notre amour pour Dieu et sur la mesure dans laquelle nous sommes prêts à tout remettre entre Ses mains, même si cela ressemble à un « gaspillage ». Le pasteur David Jang donne quelques exemples concrets : le temps, l’argent, nos talents, notre engagement. Bien souvent, quand quelqu’un s’investit à fond dans la prière, le culte ou la louange, certains autour de lui s’interrogent : « Pourquoi tant de ferveur ? » Quand une personne consacre une bonne partie de ses ressources pour l’œuvre du Seigneur ou la mission, certains trouvent que c’est « exagéré ». Mais le véritable amour ne se soucie pas de l’opinion des autres ; il se donne librement.

Pour éviter que notre culte ne devienne une pure formalité ou habitude, il nous faut, comme le dit le pasteur David Jang, « un cœur prêt à briser le vase d’albâtre et à offrir tout ce que nous sommes à Dieu ». Oui, d’autres pourront trouver que c’est « trop ». Mais aux yeux de Dieu, c’est l’expression d’un amour authentique. Il en va de même pour les efforts missionnaires et la solidarité envers les personnes dans le besoin. Certains diront : « Avec tout l’argent investi à l’étranger, ne pourrait-on pas d’abord aider les nôtres ? » Certes, nos sociétés ont aussi des défis, mais l’amour de l’Évangile ne se limite pas à nos frontières : il s’étend à toute l’humanité, au-delà de toute condition. Il s’agit donc d’oser « gaspiller » nos ressources dans l’élan de l’amour divin.

De plus, le pasteur David Jang souligne que le geste de cette femme a également une portée funéraire : « Elle a d’avance embaumé mon corps pour la sépulture » (Mc 14:8). Jésus s’apprêtait à mourir sur la croix et à ressusciter, et cette femme, probablement inspirée par l’amour, semblait avoir conscience du destin de Jésus. « Celui qui aime, voit l’avenir », dit-on parfois. Tandis que les disciples refusaient encore l’idée de la croix (Mt 16:22) ou ne comprenaient pas la voie du renoncement (Mc 10:35-45), cette femme s’est approchée de Jésus, a brisé son vase et Lui a manifesté un amour profond et audacieux, préparant Sa sépulture. Pour le pasteur David Jang, « l’amour est la clé du discernement spirituel » : ce n’est ni la connaissance intellectuelle ni la compétence théologique seule qui permet de saisir la voie de Jésus, mais bien l’amour qui pressent et communie à Son chemin.

Même aujourd’hui, dans nos Églises, si nous oublions que l’essence de l’Évangile est un « amour qui se dépense sans compter », nous pourrons facilement basculer dans des querelles motivées par la jalousie ou le calcul. Les uns comparent leur dévouement, leur offrande financière, leur zèle à ceux des autres, ou bien critiquent les engagements qu’ils jugent « excessifs ». Mais dans une communauté vraiment façonnée par l’Évangile, on se souviendra, comme l’a demandé Jésus, de cette femme qui a brisé son vase, et on s’en réjouira au lieu de s’en irriter. On s’édifiera mutuellement dans l’amour plutôt que d’en faire un sujet de reproche.

Le pasteur David Jang déclare : « Annoncer l’Évangile n’a pas pour but d’étendre une institution ecclésiale ou de servir l’intérêt individuel, mais de vivre concrètement cet “amour qui donne tout”. » Voilà qui glorifie Dieu et témoigne puissamment de l’Évangile au monde. Comme un grain de blé tombé en terre et mort pour porter beaucoup de fruits (Jn 12:24), nous sommes appelés à suivre Jésus, qui S’est Lui-même “gaspillé” pour notre salut. Par cet amour, l’Église diffuse le « parfum de Christ » et rend visibles les réalités du Royaume de Dieu.

En définitive, l’histoire de la femme qui brise son vase apparaît dans les différents Évangiles avec des variantes, mais avec un même message fondamental : « Ce qu’on donne à Dieu n’est jamais du gaspillage. » Celui qui a perdu le sens de l’amour trouvera ce geste absurde, mais, du point de vue de l’Évangile, ce soi-disant gaspillage est la source de la vie et du salut. Le pasteur David Jang souligne à maintes reprises que « la croix du Christ est l’expression suprême de cet amour qui, de l’extérieur, semble insensé : c’est la folie de Dieu, plus sage que la sagesse des hommes. » Jésus nous a offert Sa vie sur la croix, et quiconque accueille Son amour est invité à briser à son tour son vase de parfum pour Le consacrer. Même si le monde crie au gaspillage, c’est précisément dans ce « gaspillage » que se cache la puissance de l’Évangile.

La question ultime que pose ce récit est la suivante : « Aurons-nous le courage de briser notre vase d’albâtre pour Dieu, dans les situations concrètes de notre vie ? » Il se peut que nous ayons une longue pratique religieuse et une connaissance théologique solide, tout en restant attachés à nos critères rationnels, à nos calculs de rentabilité. Mais si nous avons vraiment fait l’expérience de la croix du Christ, si, comme le dit le pasteur David Jang, « nous avons réalisé que nous étions des lépreux spirituels et que le Seigneur nous a guéris », alors nous devrions comprendre qu’Il mérite la première place dans notre vie et que Lui offrir ce que nous avons de plus précieux n’est jamais « trop ». Pour certains, ce vase contiendra leurs biens matériels, leur temps, leurs talents ou leurs rêves. Pour d’autres, ce sera l’orgueil, le statut social ou n’importe quelle autre chose placée au-dessus de Dieu. Quelle que soit sa nature, si nous apprenons à « briser » cela devant le Seigneur, nous accomplissons l’acte le plus parfumé qui soit, le véritable culte.

Le pasteur David Jang résume ainsi le troisième point : l’Évangile est tout entier bâti sur ce « gaspillage d’amour », que Dieu a consenti pour notre salut. Et la voie pour participer à cette grâce passe par notre propre volonté de nous « gaspiller » pour Lui. Tout commence par la conscience que « le Seigneur s’est d’abord “gaspillé” pour moi ». En fait, la croix est le grand événement où Jésus a Lui-même brisé le vase et déversé la plénitude de Son amour. Grâce à cela, nous aussi nous pouvons puiser la force de tout Lui offrir. Cet amour peut alors se transmettre aux pauvres, aux malades, à ceux qui nous entourent, même à ceux avec qui nous ne nous entendons pas toujours. Et cet amour n’est jamais vain : Jésus promet qu’il sera raconté et commémoré partout où l’Évangile sera annoncé.

À travers ces trois volets — (1) la méditation sur la maison de Simon le lépreux et la femme qui brise son vase, (2) la réaction des disciples et de Judas Iscariot, (3) et l’idée que le « gaspillage » d’amour est le cœur de l’Évangile et son actualisation aujourd’hui —, nous voyons que cet événement n’est pas simplement une « histoire émouvante », mais bien une proclamation majeure de l’essence même de l’Évangile. Il affirme l’amour inconditionnel de Dieu pour nous et la réponse de consécration totale que nous sommes appelés à Lui offrir. Le pasteur David Jang nous pose cette question : « Sommes-nous prêts, nous aussi, à briser notre vase d’albâtre ? » Or la réponse, en réalité, est déjà donnée. Puisque Jésus a d’abord brisé pour nous Son propre vase et déversé l’abondance de Son amour, nous recevons la capacité de faire de même.

En définitive, le grand amour de Dieu se manifeste toujours sous la forme d’un « gaspillage ». Mais c’est ce gaspillage qui sauve le monde. En même temps, nous devons nous garder de la mentalité des disciples trop calculateurs ou de la dérive de Judas, et nous souvenir que, spirituellement, nous étions des lépreux, comme Simon, avant d’être guéris par le Seigneur. À l’image de la femme qui, pleine de gratitude, a brisé son vase pour oindre Jésus, engageons-nous à offrir ce que nous avons de plus précieux en acte d’adoration. Voilà le cœur de l’Évangile rappelé par le pasteur David Jang et la voie du véritable disciple. Et même si l’on nous traite de « fous » quand notre amour paraît être un gaspillage, le Seigneur ne nous abandonnera pas. Il a promis : « Partout où sera prêché l’Évangile dans le monde entier, on racontera aussi ce qu’elle a fait, en mémoire d’elle » (Mc 14:9). Tenons fermement cette promesse et décidons-nous, nous aussi, à briser notre vase pour vivre un amour total.

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El amor que rompió el alabastro – Pastor David Jang


1. Reflexión sobre la casa de Simón el leproso en Betania y la mujer que rompió el alabastro

El suceso ocurrido en la casa de Simón el leproso en Betania aparece registrado de distintas formas en los cuatro Evangelios (Mt 26:6-13; Mc 14:3-9; Lc 7:36-50; Jn 12:1-8). De manera particular, se narra como acontecimiento de la última semana del ministerio público de Jesús, adquiriendo gran importancia para los escritores de los Evangelios. A través de la meditación de este pasaje, el pastor David Jang enfatiza que nos ayuda, por un lado, a entender quién es Jesús y, por otro, a reflexionar profundamente sobre el tipo de amor con el que debemos acercarnos a Él.

En primer lugar, según Mc 14:3, Jesús estaba comiendo en la casa de Simón el leproso en Betania. En el texto griego, la palabra que se traduce como “leproso” coincide con la usada en el Antiguo Testamento para referirse a la lepra (leprosy), si bien no siempre se identifica de forma exacta con la lepra clínica (enfermedad de Hansen) que conocemos hoy. Aun así, tradicionalmente se consideraba la lepra como un símbolo de “impureza” o la razón para un “aislamiento” de parte de Dios. El pastor David Jang señala dos aspectos principales que conviene destacar:

Primero, Jesús está compartiendo la mesa con alguien que era considerado “impuro” en aquel entonces. En la sociedad judía de la época, el leproso debía aislarse de la comunidad y no podía asistir al Templo ni relacionarse normalmente con las personas. Con todo, Jesús participa en la mesa de Simón el leproso en Betania, demostrando que Él rompía las barreras legales y religiosas para ver a las personas con una mirada de “amor”. El pastor David Jang interpreta que “al entrar en la casa de Simón el leproso y sanarlo, Jesús da una clara demostración de lo que es el Evangelio”. El Evangelio es la buena noticia del Reino de Dios, y está abierta a pecadores, enfermos y débiles. El hecho de que alguien que, desde el punto de vista del mundo, debiera ser aislado, se siente a la mesa con Jesús, ya es la materialización del Evangelio.

Segundo, la implicación simbólica del nombre “Simón”. Aun cuando el nombre Simón era bastante común (de hecho, el nombre original de Pedro era Simón), que Marcos especifique “Simón el leproso” es significativo. El pastor David Jang recuerda a los lectores de los Evangelios que Simón es un nombre conocido y lo conecta con el Simón que fue llamado como Pedro. El hecho de que Simón Pedro fuera escogido como principal discípulo de Jesús simboliza la “igualdad de la gracia” del Evangelio hacia pecadores y enfermos. En ese entonces se consideraba la lepra como posible “castigo de Dios” o “impureza espiritual”, pero que Jesús coma con Simón implica proclamar su aceptación completa. El pastor David Jang subraya: “Debemos reconocer que todos fuimos leprosos espirituales”. También nosotros estábamos muertos en pecados y éramos impuros ante la santidad de Dios; sin embargo, por el amor de Jesucristo, hemos sido invitados a Su mesa y ahora compartimos comunión con Él.

Justo en ese lugar tan concreto y simbólico, la “casa de Simón el leproso” en Betania, llega una mujer con un costoso perfume, un alabastro de nardo puro, lo quiebra y lo vierte sobre la cabeza de Jesús (Mc 14:3). En cuanto a esta mujer, Mt la describe simplemente como “una mujer”; Mc también habla de “una mujer”; Lc menciona a “una mujer pecadora” que se acerca llorando al lugar donde Jesús comía en casa de un fariseo llamado Simón (posiblemente otro Simón); y Jn la identifica como “María”. A pesar de estas diferencias en los detalles, el núcleo es que se narra el hecho de “derramar un perfume muy costoso ante Jesús” y se resalta la profundidad del amor y la entrega de esta mujer.

El pastor David Jang se detiene en el significado del “nardo”. El nardo es un perfume selecto que se extrae de la raíz de una planta que crece en regiones montañosas del Himalaya; en aquel tiempo de Palestina era extremadamente caro y valioso. Un alabastro de este perfume podía costar unos trescientos denarios, equivalente a casi un año de sueldo de un trabajador promedio. Por tanto, romperlo por completo y verterlo sobre Jesús simboliza que la mujer dio “todo lo que tenía”. El pastor David Jang explica: “Delante del Señor, ella ofreció lo más valioso. Quizá presentía la muerte y resurrección de Jesús, y reconocía Su verdadera realeza”. El amor no exige recompensas ni se basa en cálculos; se expresa justamente en “dar sin reservas”, y este suceso lo atestigua.

En el acto de esta mujer de romper el alabastro y verter el perfume, contemplamos un amor incondicional, una entrega “sin condiciones”. El pastor David Jang añade: “El verdadero discipulado siempre florece donde hay un amor que, en apariencia, se ve como un derroche”. A simple vista, la acción de la mujer resultaba poco razonable o incluso despilfarradora, pero, en la perspectiva general del Evangelio, se ve que fue un acto profético y simbólico, que anunciaba la muerte y resurrección de Jesús. En la cultura del antiguo Cercano Oriente, “ungir con aceite” era parte de un rito excepcional para quien iba a ocupar un lugar de rey o sacerdote, o una función muy relevante. Mediante su gran amor, ella proclamó que Jesús era verdaderamente “el Ungido”, el Mesías.

Además, en Lc 7:38, la mujer llora, besa los pies de Jesús, los moja con sus lágrimas y los seca con sus cabellos, mostrando su propia humillación y a la vez confianza en la compasión sagrada de Jesús. El pastor David Jang destaca que, en las lágrimas de esta mujer, se mezclan la gratitud por ser acogida a pesar de su pecado y su debilidad, y la congoja de intuir la muerte de Aquel a quien tanto ama y reverencia.

Así, el episodio del alabastro quebrado en la casa de Simón el leproso en Betania, combinado con la carga simbólica de aquel lugar (alguien impuro, ahora sanado, que comparte la mesa de Jesús) y la devoción absoluta de la mujer (romper el perfume más preciado), revela la identidad mesiánica de Jesús y la plenitud del Evangelio. El pastor David Jang subraya que este suceso, esta historia de amor, muestra la cualidad más importante del Evangelio: el amor sin condiciones. Si en nuestro interior aún existe una mirada calculadora o un espíritu contable, podríamos ver, erróneamente, la acción de esta mujer como un “despilfarro”. Pero el Evangelio declara que “lo necio de Dios es más sabio que la sabiduría humana” (1 Co 1:25), y que el amor que a ojos del mundo luce como un gasto innecesario es, en realidad, la sabiduría de Dios y la potencia de la salvación.

En conclusión, el pastor David Jang define lo ocurrido en Betania como “la esencia misma del Evangelio: el amor más sublime en la casa de quien estaba en lo más bajo y abandonado”. Simón, antes aislado a causa de la lepra, es restaurado y come con Jesús, mientras una mujer considerada pecadora rompe el frasco de su perfume más costoso para ungirlo. Esto es el Evangelio hecho realidad, y es el tipo de amor que el Señor sigue buscando en la actualidad. Ese amor no se guía por un interés previo ni por un cálculo racional, sino que brota como si fuera un derroche: un amor incondicional, sin buscar recompensa.


2. La perspectiva de los discípulos y de Judas Iscariote

En los Evangelios, se registra también la reacción de los discípulos y la traición de Judas Iscariote, enlazándolos con el suceso del alabastro (Mt 26:8-16; Mc 14:4-11; Lc 22:3-6; Jn 12:4-6). Especialmente en Mc 14:4-5, tras el acto de quebrar el alabastro, “algunos” se indignaron y dijeron: “¿Por qué se ha hecho este desperdicio de perfume?” (v. 4). Mt 26:8 aclara que esos “algunos” eran los discípulos; Jn 12:4-5 focaliza en Judas Iscariote; y Lc 7 recoge el pensamiento del fariseo Simón, que cuestionaba la autenticidad profética de Jesús por permitirle a esa mujer “pecadora” acercarse a Él. Así, en varios Evangelios se ve una mirada que juzga el amor de la mujer como “derroche” o “exceso inútil”, incapaz de reconocerlo como “amor genuino”.

El pastor David Jang comenta: “Quien no ha experimentado de veras el amor puede ver los actos de amor sincero como un ‘desperdicio’”. Aunque los discípulos y Judas habían estado con Jesús a diario y contemplado Sus enseñanzas y milagros, no captaron por completo la esencia de Su amor. Además, Jn 12:4-6 revela que Judas consideraba un desperdicio el perfume, alegando que podría haberse vendido para ayudar a los pobres, pero en realidad lo que buscaba era obtener beneficio personal, pues él manejaba la bolsa y robaba de ella. Según el pastor David Jang, esta escena evidencia que “quien no se adentra en la dimensión del amor termina por demostrar su objetivo egoísta y calculador”.

Ante las protestas de los discípulos, Jesús responde: “Dejadla, ¿por qué la molestáis?” (Mc 14:6). Es una confirmación de que el Señor aprueba la acción de la mujer y, a su vez, reprende la actitud de los discípulos. Incluso afirma que este acto prepara Su propia sepultura y será recordado allí donde se predique el Evangelio (Mc 14:8-9). El pastor David Jang formula una pregunta esencial: “¿Por qué, si todos ven la misma escena, unos perciben un misterio celestial y otros lo tachan de derroche?” El motivo se halla en lo que mora en el corazón. Quien vive lleno de amor no duda en romper su frasco de alabastro, aun si parece costoso. Pero a quien le falta amor y se vuelve calculador, toda entrega le parece un desperdicio, y se centra en sus propios intereses.

Desde entonces, Judas Iscariote toma un giro drástico. Como relatan los Evangelios, él concierta con los sumos sacerdotes la entrega de Jesús por treinta monedas de plata (Mt 26:14-16; Mc 14:10-11; Lc 22:3-6). En Jn 13:2 se lee que “el diablo ya había puesto en el corazón de Judas Iscariote… que lo entregara”. El pastor David Jang explica que, si examinamos por qué Judas decidió traicionar a Jesús, el “episodio del alabastro” parece ser el impulso definitivo. Judas pudo concluir, al ver a su Maestro aceptar semejante “despilfarro”, que ya no se ajustaba a la idea de “Mesías” que él esperaba. Posiblemente pensó: “Si fuera un auténtico líder, no habría consentido que se malgastara tanto dinero. Y si se tratara del reino de Dios, lo habríamos usado para ayudar a los pobres, ¿no?” Pero en el fondo, lo dominaba la codicia; desde una mentalidad racional y calculadora, no supo ni quiso entender el propósito y el amor de Jesús, optando por la traición.

Entre los discípulos, Judas llegó al extremo de vender a Jesús, pero los demás también vieron el acto de la mujer como un derroche (Mt 26:8). El pastor David Jang recalca que esto es una gran advertencia para nosotros. Aunque caminemos con Jesús, seguimos siendo propensos a calcular y buscar nuestro propio beneficio. De hecho, antes de la cruz, los discípulos discutían sobre quién sería el mayor (Lc 22:24), luego huyeron al ser arrestado el Señor (Mc 14:50), y Pedro negó a Jesús tres veces (Mc 14:66-72). Como subraya el pastor David Jang, la actitud de aquellos discípulos refleja “un espejo de nuestra realidad”: aun estando frente al Señor del amor, no soltamos nuestros criterios de ganancia.

Sin embargo, el Señor no los rechazó. Después de la Cena de Pascua, les lavó los pies y dijo que “los amó hasta el fin” (Jn 13:1). Paradójicamente, los discípulos no habían expresado de forma tan directa su amor al Señor, mientras que esta “mujer pecadora” derramó sobre Él el perfume más valioso, anticipando Su muerte y entierro. El pastor David Jang enseña que “amar es dar sin escatimar, y aunque pueda verse como derroche, en realidad es el camino para que resplandezca la verdadera gloria”. Mientras los discípulos se aferraban a la lógica del mundo y Judas se rendía ante la codicia, el Evangelio proclama un amor incondicional hacia unos seres tan débiles y con tantas faltas.

Por ello, el pastor David Jang nos invita a observar la reacción de los discípulos y de Judas y preguntarnos: “¿No es ésa también mi actitud?” Incluso si llevamos mucho tiempo en la iglesia y escuchamos la Palabra con frecuencia, si en el fondo de nuestro corazón permanece la tendencia a buscar lo propio y a calcularlo todo, corremos el peligro de tachar de “despilfarro” el auténtico amor y la entrega, apelando a lo “correcto” o “incorrecto”. Y en el peor de los casos, terminamos traicionando al Señor al estilo de Judas. El pastor David Jang advierte que “traicionar a Jesús no significa únicamente venderlo de manera evidente. En la vida eclesial o en nuestro andar de fe, cuando rechazamos la entrega de amor que aparentemente se desperdicia y solo aplicamos reglas de coste-beneficio, ya está brotando la semilla de la traición en nuestro interior”.


3. El amor como “derroche” y su lugar central en el Evangelio

Por último, conviene fijarse en la declaración de Jesús sobre la mujer que rompió el alabastro: “De cierto os digo que dondequiera que se predique este Evangelio, en todo el mundo, también se contará lo que ella hizo, para memoria de ella” (Mc 14:9). Esto indica que su acción está intrínsecamente unida al mensaje del Evangelio. Puede parecer un gasto excesivo a la mirada humana, pero para el Evangelio es la “meta última” a la que aspira. El pastor David Jang expone: “El Evangelio, en el fondo, es el santo derroche de Dios, la entrega de Su Hijo unigénito por amor”. El Padre Dios entregó a Su Hijo por los pecadores, y Jesús se derramó como ofrenda en la cruz, dando Su vida por el perdón de nuestros pecados y regalándonos la salvación.

Este concepto de “derroche” se vincula a lo que se lee en 1 Co 1:18 y siguientes: “La palabra de la cruz es locura para los que se pierden, pero para nosotros los salvos es poder de Dios”. Desde la visión humana, la cruz parece ilógica e incomprensible. ¿Por qué Dios omnipotente tuvo que encarnarse y morir por los pecadores? Según el pastor David Jang, la “sabiduría del amor de Dios” encerrada en la cruz está fuera del alcance de la sabiduría humana. La acción de la mujer al derramar todo el perfume expresa que “solo quien está dispuesto a derrochar sin miedo ante el Señor puede experimentar la profundidad del Evangelio”. Ese evento nos comunica simbólicamente esta verdad.

Por ello, esta historia no se queda en un testimonio bello del pasado, sino que hoy nos cuestiona acerca de nuestra propia fe y de cuán “totalmente” amamos a Dios, si es que nuestro amor alcanza ese punto en que casi parece “despilfarro”. El pastor David Jang menciona ejemplos concretos de nuestro tiempo, nuestras finanzas, nuestros talentos y nuestra dedicación. A lo mejor, alguien a nuestro alrededor exclama: “¿Por qué tanto afán? ¿No es demasiado?” cuando invertimos tiempo en el culto y en la oración, o dinero en la expansión del Reino de Dios. Pero el amor genuino no ve eso como un gasto inútil, sino como gozo de ofrecer al Señor.

El pastor David Jang subraya que, para que nuestra adoración no se reduzca a una formalidad o rutina, lo primero es “romper el alabastro” y entregar todo nuestro ser al Señor. Tal vez a algunos les parezca un “exceso de fervor” la manera en que cantamos o oramos, pero si es una expresión de amor a Dios, jamás será un desperdicio. Lo mismo sucede con la obra misionera y de ayuda social. Puede que alguien critique: “¿Por qué emplear tanto esfuerzo y recursos en las misiones extranjeras cuando aún hay muchos necesitados aquí?” Pero el núcleo del Evangelio es el amor de Dios para todo el mundo, sin limitaciones geográficas ni condiciones. Se requiere, por tanto, un “derroche” que no se recluya en una sola área.

Asimismo, el pastor David Jang aclara que quebrar el alabastro anticipa la sepultura de Jesús (Mc 14:8). Muy pronto, Jesús iría a la cruz como ofrenda de expiación y resucitaría para traer vida eterna. Y esta mujer, desde su amor, al parecer pudo “vislumbrar” ese futuro y el “destino” de Jesús. Se dice que “quien ama, percibe el futuro”; ella, con su amor, captó e intuyó la muerte y la resurrección de Jesús. Mientras los discípulos se negaban a aceptar la cruz (“Señor, eso nunca te sucederá”, Mt 16:22) o simplemente no comprendían ese camino (Mc 10:35-45), esta mujer se presentó en el banquete, rompió el alabastro y, de manera audaz, se unió al verdadero camino del Señor. El pastor David Jang indica que “el amor es la llave de la comprensión espiritual”: sin un amor sincero, ni el estudio teológico más profundo alcanza para captar verdaderamente el camino de Jesús; se requiere amar para percibirlo y unirse a Él.

Hoy, del mismo modo, si dentro de la comunidad cristiana perdemos de vista que la esencia del Evangelio es “un amor que se entrega sin medida”, fácilmente, como los discípulos o Judas, caeremos en ópticas calculadoras y en conflictos y divisiones. Podemos llegar a criticar o comparar cuánto sirve cada uno, cuánto ofrenda, cuánta dedicación o fervor demuestra. Pero si de veras se predica el Evangelio, tal como Jesús mandó que recordáramos a la mujer que quebró el alabastro, nuestra reacción debería ser compartir la alegría ante la entrega y el amor de los hermanos, dando juntos la gloria al Señor.

El pastor David Jang enfatiza que “el propósito de anunciar el Evangelio no se limita a aumentar la congregación o a perseguir el éxito personal, sino que consiste en encarnar este ‘amor que se da sin reservas’ en la vida”. Y eso es lo que glorifica a Dios y da testimonio de forma viva al mundo. Tal como Jesús fue el grano de trigo que cayó a tierra y murió para dar mucho fruto (Jn 12:24), cuando nosotros también, a Su imagen, decidimos aceptar ‘desperdiciarnos’ por amor, el mundo percibe la fragancia de Cristo y se manifiesta la realidad del Reino de Dios.

En definitiva, la historia de la mujer que quiebra el alabastro puede variar en los detalles de cada Evangelio, pero su mensaje esencial es el mismo: “El amor ofrecido a Dios jamás es un derroche”. Para quienes han perdido ese amor, sí luce como despilfarro; pero desde el prisma del Evangelio, ese aparente gasto innecesario es la fuente de vida y de salvación. El pastor David Jang lo subraya: “La cruz del Señor es la máxima expresión de un Dios omnipotente que eligió un camino que parece absurdo, y quien acoge ese amor se convierte en alguien que, sin reservas, rompe su propio alabastro ante el Señor. Aunque el mundo lo juzgue un despilfarro, en ese acto se encierra el poder del Evangelio”.

La gran pregunta que se nos plantea es: “¿Seremos capaces de romper nuestro alabastro en la vida diaria?” Por más tiempo que llevemos en la fe, no resulta fácil liberarnos por completo de la lógica del cálculo y la utilidad. Pero si hemos experimentado el amor de la cruz y, como explica el pastor David Jang, comprendido que “éramos leprosos espirituales y el Señor nos sanó”, entonces descubriremos que ofrecerle al Señor lo más preciado no nos resulta una pérdida. Nuestro alabastro puede ser nuestro dinero, nuestro tiempo, nuestro talento o nuestro proyecto de vida. Para algunos, su posición o prestigio en la sociedad. Sea lo que fuere, si lo valoramos más que al Señor, hemos de “romperlo” y rendírselo a Él; de esta forma, esa entrega se convierte en una adoración de suave fragancia ante Dios.

En este tercer punto, el pastor David Jang sintetiza: El Evangelio es el plan de salvación de Dios que se realizó mediante un “amor que se derrocha”. Y el camino para participar en esa salvación también se abre por nuestra entrega decidida a “derrochar” nuestro amor. Y todo comienza entendiendo que “El Señor ya se derrochó primero por nosotros”. La cruz de Jesús fue la mayor rotura de alabastro, en la que Él lo entregó todo. Gracias a que Él dio Su vida, ahora conocemos el amor y podemos amar a Dios y a los demás, derramando también nosotros el perfume ante el necesitado, el enfermo o incluso las personas con quienes no coincidimos en la comunidad de fe. Y ese amor, en ningún caso, será estéril. Jesús prometió que en cada lugar donde se predique el Evangelio se recordaría esa entrega de amor.

A lo largo de las tres partes — (1) la reflexión del pastor David Jang sobre la casa de Simón el leproso en Betania y la mujer que rompió el alabastro, (2) la advertencia que representa la reacción de los discípulos y de Judas, y (3) la enseñanza de que la esencia del Evangelio radica en ese “amor que parece derroche” y su aplicación actual —, vemos que no se trata de una simple historia conmovedora, sino de una proclamación que contiene la quintaesencia del Evangelio. En el episodio del alabastro encontramos el amor incondicional de Dios por nosotros y se nos revela la entrega que debemos ofrecer ante Él. El pastor David Jang concluye planteando la pregunta que Dios dirige a cada uno: “¿Estás dispuesto a romper tu alabastro?” Y destaca que, al responder, es como penetramos en la hondura del Evangelio. Pero esa respuesta, en el fondo, ya está dada, pues Jesús rompió primero Su alabastro por nosotros y nos derramó Su amor infinito, capacitándonos así para romper el nuestro.

A fin de cuentas, el inmenso amor de Dios suele manifestarse en algo que parece un “despilfarro”. Pero es precisamente en ese “derroche” donde se halla el camino de vida para este mundo. No olvidemos que, como Simón el leproso, hemos sido sanados y aceptados a la mesa del Señor; cuidémonos de reproducir la actitud calculadora de los discípulos o de Judas, y como la mujer que rompió el frasco, ofrezcamos en gratitud y amor lo más valioso que tenemos en adoración a Dios. Esta es la verdad fundamental del Evangelio que el pastor David Jang recalca, y la senda del discipulado que debemos recorrer. Aunque el mundo lo vea como “algo insensato”, el Señor jamás desecha ese amor y promete: “Dondequiera que se predique este Evangelio, se contará también lo que ella hizo, para memoria de ella”. Aferrémonos a esa promesa y vivamos resueltamente, rompiendo nuestro alabastro ante Él.

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The Love That Broke the Alabaster Jar – Pastor David Jang


1. A Meditation on the House of Simon the Leper in Bethany and the Woman Who Broke the Alabaster Jar

The event that took place in the house of Simon the leper in Bethany is recorded in various forms in all four Gospels (Matt 26:6–13; Mark 14:3–9; Luke 7:36–50; John 12:1–8). Because it happened during the final week of Jesus’s public ministry, it held significant meaning for the Gospel writers. Through reflecting on this passage, Pastor David Jang emphasizes that on one hand, we must deeply ponder who Jesus is, and on the other hand, we must consider with what kind of love we ought to approach Him.

First, according to Mark 14:3, Jesus was having a meal in the house of Simon the leper in Bethany. The Greek word translated as “leper” here is the same term commonly used in the Old Testament for leprosy, yet it might have differed to some degree from modern-day Hansen’s disease in clinical terms. Nevertheless, traditionally, leprosy symbolized “uncleanness” or the need for separation from God. Pastor David Jang points out two key things here.

First, Jesus is willingly sharing a meal with someone deemed “unclean.” In the Jewish society of that time, a leper was segregated from the community and was unable to enter the Temple or normally interact with the general populace. Despite that, Jesus was eating in the house of Simon the leper in Bethany. This reveals that Jesus transcended legalistic and religious barriers and viewed people wholly through the lens of “love.” Pastor David Jang interprets Jesus entering and healing in the home of Simon the leper as a clear sign of what the gospel truly is. The gospel is the good news of the kingdom of God, extended toward sinners, the sick, and the weak. From a worldly perspective, it would seem fitting to keep someone like Simon in isolation, but the fact that he partook at Jesus’s table is the tangible embodiment of the gospel.

Second, there is the implicit significance of the name Simon. While Simon was a very common name in the Gospels (indeed Simon was the original name of Peter), Mark’s Gospel specifically distinguishes this person as “Simon the leper.” Pastor David Jang reminds us how familiar the name Simon would have been to the readers of the Gospels and connects it with the fact that Simon Peter was called as the chief disciple of Jesus. This indicates that the same grace which was extended to Peter applies equally to sinners and the sick. In those days, leprosy was often seen as “God’s judgment” or “spiritual impurity,” but by Jesus sharing a meal with such a man, He was in effect declaring His complete acceptance of him. Pastor David Jang says, “We must realize that we, too, were all spiritual lepers.” We also were dead in our sins and transgressions, unclean before the holiness of God; yet because of the love of Jesus Christ, we have been invited to fellowship at His table.

It is in this concrete and symbolic place—“the house of Simon the leper in Bethany”—that a woman approaches Jesus and breaks an alabaster jar of costly perfume, pure nard, over His head (Mark 14:3). Regarding this woman, Matthew’s Gospel describes her simply as “a woman,” Mark’s Gospel likewise calls her “a woman,” Luke’s Gospel recounts “a woman who had lived a sinful life” coming to Jesus in the house of Simon the Pharisee (possibly a different Simon) and pouring perfume while weeping, and John’s Gospel identifies her as Mary. There are differences in the details recorded by the authors, but all highlight the same or a similar event—namely, that this woman poured out very expensive perfume on Jesus, and they underscore the profound meaning of her loving and dedicated act.

Pastor David Jang focuses on the significance of the “nard” perfume. Nard was a high-grade fragrance extracted from the root of a plant gathered in the high mountain regions of the Himalayas, making it extremely rare and costly in the Palestinian area of that time. Purchasing one alabaster jar of this perfume would require about three hundred denarii—essentially a year’s wages for a common laborer. Hence, the woman’s complete outpouring of the jar over Jesus represents a symbolic act of giving “everything” she had. Pastor David Jang explains, “Before the Lord, this woman offered her most precious possession. She may have intuitively recognized the imminence of His death and resurrection, and that He was the true King.” Love does not calculate cost or return; the act of “giving without reserve” itself testifies to the essence of love.

From the woman’s action of breaking the alabaster jar and pouring out the perfume, we witness an unconditional love, or a “devotion without terms.” Pastor David Jang calls this “true discipleship, which always blooms from a love that appears wasteful.” Outwardly, her action may look irrational and wasteful, yet in the broader context of the Gospels, we see that her love was a prophetic and symbolic act foreshadowing Jesus’s death and resurrection. In the ancient Near East, anointing with oil was a ceremony that took place for very special offices, such as a king or priest. Through her immense love, she was proclaiming that Jesus was truly the Anointed One, the Messiah.

Moreover, in Luke 7:38, the woman is described weeping, kissing the feet of Jesus, soaking them with her tears, and wiping them with her hair. This highlights the humility of a sinner who barely dares stand before Jesus, yet with faith that trusts His holy love, she bows down and dedicates herself fully. Pastor David Jang especially focuses on her tears. These tears may have mixed emotions of gratitude for Jesus’s compassion, who accepts her despite her sinfulness and weakness, and the sorrow of foreseeing the death of the One she so deeply loves and reveres.

Thus, the story of the alabaster jar being broken in the house of Simon the leper in Bethany intertwines the significance of the setting (the unclean being healed and sharing a meal with Jesus) with the woman’s demonstration of absolute, unconditional love (breaking the most precious perfume and pouring it out). Together, these elements richly reveal Jesus’s true Messianic identity and the message of the gospel. Pastor David Jang emphasizes that this act of love discloses the foremost characteristic of the gospel—love given without conditions. If any part of us still measures, calculates, or compares, we risk deeming the woman’s love a “waste” or “squandering.” Yet the gospel declares, “the foolishness of God is wiser than men” (1 Cor 1:25), showing us that, by the world’s standards, love may appear wasteful—but it is actually God’s wisdom and the power of salvation.

In conclusion, Pastor David Jang describes this episode in Bethany as “the very heart of the gospel displayed in the lowest place, in the house of one cast out by society, where the most precious love unfolds.” Simon, who had been isolated by leprosy, was restored and dined with the Lord, and a woman thought to be a sinner broke her most valuable jar of perfume to serve Jesus in that same house. This is the tangible gospel, and the Lord still seeks this kind of love today—one that is never calculating, that may appear wasteful, and that is unconditional and offered without thought of return.


2. The Perspective of the Disciples and Judas Iscariot

In the Gospels, right after or in the midst of the alabaster jar breaking incident, the disciples’ reactions and the betrayal by Judas Iscariot are mentioned (Matt 26:8–16; Mark 14:4–11; Luke 22:3–6; John 12:4–6). Notably, Mark 14:4–5 shows that some spectators were indignant with the woman, saying to each other, “Why this waste of perfume?” Matthew 26:8 identifies these “some people” specifically as the disciples, while John 12:4–5 narrows it down to Judas Iscariot. Luke’s Gospel narrates how Simon the Pharisee (possibly another Simon) witnessed this act and questioned, “If this man were a prophet, He would know what kind of sinful woman is touching Him,” thus showing another angle of how people saw the woman’s anointing as not true love but wasteful or empty fervor.

Pastor David Jang observes, “To those who have never truly experienced love, a genuine act of love can sometimes appear to be ‘wasteful.’” Though the disciples and Judas heard Jesus’s words daily and witnessed many miracles, they did not fully grasp the essence of His love. John 12:4–6 indicates that while Judas condemned the perfume pouring as wasteful, claiming they could have sold it and given the money to the poor, he was in fact embezzling from the money bag. Pastor David Jang remarks that this shows “someone who remains outside the realm of love inevitably reveals a calculating and self-centered motive.”

Jesus rebukes the disciples’ objections by saying, “Leave her alone. Why do you trouble her?” (Mark 14:6). This shows that the Lord greatly appreciated her act, while simultaneously reproving the disciples’ attitude. Furthermore, Jesus declares that her deed was in preparation for His death and that it would be remembered wherever the gospel is preached (Mark 14:8–9). Pastor David Jang poses a crucial question: “Why is it that, witnessing the exact same event, some discern the secret of heaven while others see only waste?” The reason lies in “what fills their hearts.” Those with hearts filled with love do not regret breaking the alabaster jar. But those whose hearts have grown cold and whose gaze upon the Lord has become calculative see everything as wasteful and scheme only for their own gain.

Following this event, Judas Iscariot reaches a “decisive” turning point. According to the Gospels, he goes to the chief priests to betray Jesus for thirty silver coins (Matt 26:14–16; Mark 14:10–11; Luke 22:3–6). John 13:2 says, “the devil had already prompted Judas, son of Simon Iscariot, to betray Jesus.” Pastor David Jang reflects that the “alabaster jar incident” solidified Judas’s resolve to betray. Seeing his Teacher condone such a monumental extravagance, Judas likely ceased believing that Jesus was walking the path of the “Messianic kingdom” he had envisioned. In other words, Judas’s logic might have been, “If He were the true leader, He wouldn’t allow such a financial waste. Why let this chance to help the poor slip away?” Underneath, however, greed had already taken root; he was judging Christ’s ministry from a purely pragmatic standpoint, utterly failing to grasp the Lord’s heart and the nature of His love.

Among the disciples, Judas took the most extreme route of betrayal. Yet even the other disciples rebuked the woman’s action as wasteful (Matt 26:8). Pastor David Jang notes that we must treat this as a serious warning example. Even those who know and follow Jesus can still put profit or calculations ahead of love. Ultimately, on the eve of Jesus’s crucifixion, the disciples argued among themselves about who was the greatest (Luke 22:24), they scattered when He was arrested (Mark 14:50), and Peter was driven to deny the Lord three times (Mark 14:66–72). As Pastor David Jang repeatedly emphasizes, the disciples’ failure to relinquish their own standards and gain—even when standing before the Lord of love—mirrors “all of us.”

And yet, the Lord did not abandon them. After the Passover meal, He washed their feet, showing, “He loved them to the end” (see John 13:1). Ironically, the woman, widely regarded as a sinner, was the one who poured out a year’s worth of wages in perfume to anoint and prepare the Lord’s body for burial, while the disciples themselves were hesitant to express their own love and devotion. Pastor David Jang reiterates that “love is giving without reserve, and though it may look like waste, it is through such giving that true glory is revealed.” While the disciples’ perspective remained constrained by worldly logic, and Judas let greed pull him toward betrayal, the gospel proclaims “unconditional love” toward even such flawed, weak human beings.

Pastor David Jang urges us to reflect deeply on the disciples’ and Judas’s reactions, asking, “Might I have this tendency within myself?” Even if we have long attended church, drawn near to worship, and heard God’s Word, if our deepest heart remains calculative and self-centered, we risk labeling genuine love and devotion as “waste,” under the pretext of “right and wrong.” And in the worst case, we could end up, like Judas, betraying the Lord. Pastor David Jang warns, “Betraying the Lord isn’t limited to overtly ‘selling Jesus out.’ When we refuse the heart of sacrificial love within the church or in our faith life, and cling only to profit and calculation, then the seed of betraying the Lord of love has already taken root in our hearts.”


3. The Core of the Gospel: The Love That Appears Wasteful

Finally, we must focus on Jesus’s statement regarding the woman’s deed: “Truly I tell you, wherever the gospel is preached throughout the world, what she has done will also be told, in memory of her” (Mark 14:9). This signifies that her act is inextricably linked to the gospel message. By human logic, it is wasteful and extravagant; yet precisely such “waste” defines the ultimate shape that the gospel aims for. Pastor David Jang states, “The gospel is, in essence, God’s holy lavishness toward us—His willingness to give up His only begotten Son.” God the Father gave His only Son for sinners, and Jesus poured Himself out on the cross as a sacrificial offering without sparing Himself, thereby atoning for our sins and granting us salvation.

From the perspective of “waste,” this idea parallels Paul’s proclamation in 1 Corinthians 1:18 and onward: “For the message of the cross is foolishness to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God.” In the eyes of this world, the cross is incomprehensible and entirely irrational—indeed, a “waste.” Why would an omnipotent God need to take on human form and die for sinners? Worldly wisdom can never grasp the “wisdom of God’s love” hidden there, which Pastor David Jang asserts is the crux of the gospel. The story of the woman breaking her alabaster jar and pouring out its contents likewise carries “the symbolic message that only those unafraid to appear wasteful before the Lord can genuinely experience the depths of the gospel.”

Hence, this account does not merely depict a touching scene from a distant town in bygone days. It compels us, here and now, to examine the extent to which our faith and life embody “total devotion,” a love that seems “wasteful.” Pastor David Jang enumerates practical examples regarding our time, finances, talents, and even the posture of our dedication. When you allocate your time for worship and prayer, give generously for the purposes of God’s kingdom, or devote your talents entirely for God’s glory, people around you may protest, “Why do you go to such extremes? Why not keep things moderate?” However, true love continues to give to the Lord no matter the opinions of bystanders.

Pastor David Jang also cautions that the alabaster jar event had a particular relevance to the “anointing of Jesus for His burial” (Mark 14:8). Jesus would soon die on the cross as the atoning sacrifice and would rise again to bring everlasting life. This woman, perhaps more than anyone else, perceived in love the impending fate of Jesus—His “future”—and responded. “When one truly loves, one catches a glimpse of the future.” By loving Jesus wholeheartedly, she may have intuited His approaching death and resurrection. Even while the disciples were denying the possibility—“This shall never happen to you, Lord” (Matt 16:22)—and fighting among themselves without understanding the path of the cross (Mark 10:35–45), she boldly showed her devotion at the banquet, breaking her alabaster jar and, in her own way, grasping “the real path” of Jesus. In this sense, Pastor David Jang advocates that “love is the key to spiritual insight.” There are aspects of Jesus’s way we cannot know by mere head knowledge or theology but can sense and join through love.

Furthermore, Pastor David Jang asserts that if we lose sight of “wasteful love” as the core of the gospel, our churches today can easily mirror the disciples or Judas—becoming mired in self-centered perspectives, criticism, and strife. People may compare who serves more or who gives more offerings, or they may feel uneasy about someone’s devotion, asking, “Why such excess?” But in a true gospel-centered community, where the gospel is proclaimed in its fullness, we do what Jesus commanded: remember and celebrate the woman who broke the alabaster jar for Him, and together, with one accord, glorify the Lord for such love.

According to Pastor David Jang, “The purpose of spreading the gospel is not merely expanding church membership or attaining individual success, but rather embodying ‘selfless giving love’ in our daily lives.” This is what ultimately glorifies God and bears living witness to the gospel for our neighbors. Just as Jesus, the grain of wheat, fell into the ground and died to bear much fruit (John 12:24), we too, when we imitate the Lord and choose to be “spent” for others, spread Christ’s fragrance to the world and reveal the reality of God’s kingdom.

In conclusion, the story of the woman who broke the alabaster jar is recorded differently by each Gospel writer, yet they convey the same message: “No act of love given to God is ever wasted.” To those who have lost love, it may look like mere waste. But from the gospel’s vantage, the love that seems squandered is in fact the wellspring of life and salvation. Pastor David Jang repeatedly insists, “The cross of our Lord is the supreme manifestation of an omnipotent God choosing a method that appears foolish and wasteful—yet this is the pinnacle of love. Those who accept that love become those willing to break the alabaster jar for the Lord, even if it appears extravagant in the world’s eyes. The power of the gospel resides in that seeming waste.”

Each of us must decide whether we have the courage to “break the alabaster jar” in concrete moments of life. Even seasoned believers may be bound by pragmatic, calculated thinking, not entirely free from concerns about benefit or gain. But if we have truly experienced the love of the cross, and, as Pastor David Jang reminds us, “recognized that we were once all spiritual lepers whom the Lord has healed,” then we will understand that devoting our all to the Lord is never too costly. That alabaster jar might be our finances, our time, our talents, or our future plans. For some, it could be a matter of pride or worldly position. Whatever it is we treasure more than the Lord, in “breaking” it and surrendering it to Him, we offer a most fragrant act of worship.

Pastor David Jang concludes this third section by summarizing, “The gospel is God’s saving plan completed by a ‘wasteful act of love,’ and our participation in that salvation likewise begins with a decision to pour out ourselves in love.” The starting point is realizing that “the Lord has already been wasted for my sake.” The cross of Jesus was the greatest example of an alabaster jar broken. Because He gave us everything He had, we can know that love and in turn offer it back to Him and to others. Whether to the poor, the sick, or someone in our church community with whom we struggle, we can still break the jar and pour out the perfume of the Lord. Such sacrificial love will never be in vain; the Lord Himself promised that wherever the gospel is proclaimed, it would be remembered and honored.

Having examined these three subtopics—(1) Pastor David Jang’s meditation on the house of Simon the leper and the woman who broke the alabaster jar, (2) the warning from the disciples’ and Judas’s perspective, and (3) the relevance of wasteful love as the core of the gospel—we see that this story is not merely a “moving tale,” but a profound proclamation of the heart of the gospel. The alabaster jar event embodies God’s unconditional love for us and shows the kind of devotion we should offer in response. Pastor David Jang asks, “God is asking us: ‘Are you ready to break your alabaster jar?’” and stresses that our answer to this question determines how profoundly we experience the gospel. And the answer has already been given: because Jesus first broke His jar for us and poured out infinite love, we too have the power to break ours.

Ultimately, God’s great love always appears “wasteful.” Yet it is precisely that seeming wastefulness which brings life to the world. We must remember the disciples’ and Judas’s failings, while also recalling that we, like Simon the leper in Bethany, have received healing and acceptance from the Lord. Then, in thankfulness and love, we should come before Him like the woman who broke the alabaster jar, offering the most precious aspects of our lives in a worshipful commitment. This is the essence of the gospel that Pastor David Jang persistently underscores, and it is the path of discipleship we must walk. Even if voices deride it as “foolish waste,” the Lord will never overlook such love but has promised, “Wherever the gospel is preached throughout the world, what she has done will also be told.” May we each resolve to live a life of breaking the alabaster jar.

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옥합을 깨뜨린 사랑 – 장재형목사

  1. 베다니 문둥이 시몬의 집과 옥합을 깨뜨린 여인에 대한 묵상

베다니 문둥이 시몬의 집에서 일어난 이 사건은 네 복음서에 다양하게 기록되어 있으며(마 26:6-13; 막 14:3-9; 눅 7:36-50; 요 12:1-8), 특히 예수님의 공생애 마지막 주간에 벌어진 일로 복음서 기자들에게 매우 중요한 의미가 있었습니다. 장재형(장다윗)목사는 이 본문에 대한 묵상을 통해, 한편으로는 예수님이 어떤 분이셨고 다른 한편으로는 우리가 어떠한 사랑으로 주님께 나아가야 하는지를 깊이 성찰하게 된다고 강조합니다.

먼저 마가복음 14장 3절에 따르면, 예수님께서는 베다니 나병환자 시몬의 집에서 식사하셨습니다. 헬라어 본문에서 ‘나병환자’로 번역된 단어는 구약성경에서 흔히 말하는 문둥병(leprosy)을 가리키는 말과 동일하게 쓰이지만, 오늘날 임상적 의미의 한센병과는 어느 정도 차이가 있을 수도 있습니다. 그럼에도 불구하고 전통적으로 문둥병은 ‘부정하다’ 혹은 ‘하나님께로부터 격리되어야 한다’라는 상징성을 지니고 있었습니다. 장재형 목사는 여기서 주목해야 할 점이 두 가지라고 말합니다.

첫째, 예수님께서는 ‘부정’하다고 여겨지던 자와 기꺼이 식탁을 나누고 계신다는 것입니다. 당시 유대 사회에서 나병환자는 공동체로부터 격리되고, 성전 출입은 물론 일반인들과 정상적으로 교류하기 어려운 상태에 있었습니다. 그런데도 예수님께서는 베다니 문둥이 시몬의 집에서 함께 식사를 하셨습니다. 이는 예수님께서 율법적·종교적 장벽을 뛰어넘어 사람을 온전히 ‘사랑’의 시선으로 바라보셨음을 드러냅니다. 장재형 목사는 “예수님께서 나병환자 시몬의 집에 들어가시고, 치유하시는 모습은 곧 복음이 무엇인지 명확하게 보여주는 표징”이라고 해석합니다. 복음은 하나님 나라의 기쁜 소식이며, 그 소식은 죄인과 병자와 연약한 자를 향해 열려 있다는 것입니다. 세상적으로 보면 격리되어야 마땅한 이가 예수님의 식탁에 동참한다는 사실 자체가 이미 복음의 실제 구현이라는 것입니다.

둘째, 시몬이라는 이름의 함축적 의미입니다. 복음서에 등장하는 시몬이라는 이름은 매우 흔하긴 했지만(베드로의 본래 이름도 시몬), 마가복음에서 “나병환자 시몬”이라고 특정하여 적어 놓았다는 점이 중요합니다. 장재형 목사는 이에 대해 ‘시몬’이라는 이름이 복음서 독자들에게 낯설지 않은 이름임을 상기시키면서, 베드로의 본래 이름이 또한 시몬이었음을 연결 지어 묵상합니다. 시몬 베드로가 예수님의 수제자로 부름받았다는 사실은, 한편으로 죄인이나 병자에게도 동일한 은혜가 적용된다는 복음의 원리를 상징적으로 보여준다는 것입니다. 문둥병은 당시 ‘하나님으로부터의 심판’ 혹은 ‘영적인 부정함’으로 이해되곤 했는데, 예수님께서 그런 시몬과 식사를 나누심으로써, 그를 향한 ‘완전한 용납’을 선언하신 셈이 됩니다. 장재형 목사는 “우리가 모두 영적으로 문둥병자였음을 알아야 한다”고 말합니다. 우리 또한 죄와 허물로 죽었고, 하나님의 거룩함 앞에서 부정한 자였지만, 예수 그리스도의 사랑 때문에 그분의 식탁에 초대되어 함께 교제하게 되었다는 것이지요.

이렇게 ‘베다니 문둥이 시몬의 집’이라는 구체적이고 상징적인 장소에서, 한 여인이 예수님께 나와 값비싼 향유 곧 순전한 나드 한 옥합을 깨뜨려 예수님의 머리에 부었습니다(막 14:3). 이 여인에 대해 마태복음은 “한 여인”이라고 서술하고, 마가복음도 동일하게 “한 여인”이라고 언급하며, 누가복음은 “죄를 지은 한 여인”이 바리새인 시몬(동명이인 가능성) 집에서 예수님께 나와 울며 향유를 부었다고 전하고, 요한복음은 이 여인을 ‘마리아’라고 명시합니다. 복음서 저자들의 기록은 세부적으로 차이가 있지만, 핵심적으로는 “매우 값비싼 향유를 예수님께 부어 드렸다”는 동일한 사건 혹은 유사 사건을 전하면서, 그 여인의 행위가 지닌 사랑과 헌신의 의미를 깊이 부각합니다.

장재형 목사는 여기서 ‘나드’라는 향유의 의미를 주목합니다. 나드는 히말라야 고산지대에서 채취되는 식물 뿌리에서 추출되는 고급 향유로, 당대 팔레스타인 지역에서는 매우 귀하고 비싼 기름이었습니다. 따라서 이 한 옥합을 사려면 삼백 데나리온이라는, 서민들이 거의 일 년간 일해야 벌 수 있는 거금을 지불해야 했습니다. 그러니 향유 옥합 전체를 깨뜨려 예수님께 쏟아 부었다는 것은 그 여인이 지닌 ‘모든 것’을 드렸다는 상징적 표현으로 볼 수 있습니다. 장재형 목사는 “주님 앞에서 이 여인은 가장 귀한 것을 내어놓았다. 그녀는 예수님의 임박한 죽음과 부활, 그리고 그분이 참된 왕이심을 직감적으로 알았을 것”이라고 해석합니다. 사랑이란 대가나 계산을 따지지 않습니다. 오직 ‘아낌없이 주는 행위’ 자체가 사랑의 본질임을 이 사건이 증언한다는 것입니다.

이처럼 옥합을 깨뜨려 향유를 부은 여인의 행동에서 우리는 무조건적인 사랑, 혹은 ‘조건 없는 헌신’을 발견합니다. 장재형 목사는 이를 두고 “참된 제자도는 언제나 허비처럼 보이는 사랑에서 꽃핀다”라고 말합니다. 겉으로 보기에 그 여인의 행동은 매우 비합리적이고 낭비처럼 보이지만, 복음서 전체 맥락 속에서는 그 사랑이 예수님의 죽음과 부활을 예비하는 예언적이고 상징적인 행위였음을 알게 됩니다. 고대 근동 문화에서 ‘기름을 붓는다’는 것은 왕이 되거나 제사장이 되는 등 아주 특별한 직무를 맡을 때 이루어지는 의식이었습니다. 그녀는 자신의 지극한 사랑을 통해 예수님이 진정한 ‘기름부음 받은 자’, 곧 메시아이심을 선포하는 셈이 되었습니다.

그리고 누가복음 7장 38절에서는 이 여인이 울며 예수님의 발에 입 맞추고, 눈물로 예수님의 발을 적신 뒤 자신의 머리털로 닦는 모습이 강조됩니다. 이는 죄인인 자신이 감히 예수님 앞에 설 수 없음을 인정하면서도, 동시에 예수님의 거룩한 사랑을 신뢰하는 믿음으로써 자신을 가장 낮추어 헌신하는 태도를 상징합니다. 장재형 목사는 여인이 흘렸던 눈물에 주목하며, 이는 죄와 연약함 속에서도 용납하시는 예수님의 긍휼에 대한 감사와, 동시에 자신이 그토록 사랑하고 경외하는 분의 죽음을 예감하는 슬픔이 뒤섞인 울음이었을 수 있다고 해석합니다.

이처럼 베다니 문둥이 시몬의 집에서 벌어진 옥합 파쇄 사건은, 장소 자체의 의미(부정했던 자가 치유되고 예수님과 함께 식사함)와 여인이 드러낸 무조건적이고 절대적인 사랑(가장 귀한 기름을 깨뜨려 부음)이 맞물려 예수님의 참된 메시아적 정체성과 복음의 의미를 풍성하게 보여줍니다. 장재형 목사는 이 사랑의 사건이 복음 자체의 가장 중요한 특징, 즉 조건 없이 베푸는 사랑을 드러낸다고 강조합니다. 만약 우리 안에 계산하고 따지는 시선이 남아 있다면, 우리는 이 여인이 보여준 사랑을 오히려 ‘낭비’ 혹은 ‘허비’라고 판단할 위험이 있습니다. 그러나 복음은 ‘하나님의 어리석음이 사람보다 지혜롭다’(고전 1:25)고 선언하며, 세상의 기준으로는 낭비처럼 보이는 사랑이야말로 하나님의 지혜이자 구원의 능력임을 알려 줍니다.

결론적으로, 장재형 목사는 베다니에서 벌어진 이 사건이 “가장 낮은 곳, 가장 버림받은 자의 집에서 가장 값진 사랑이 펼쳐진 복음의 진수”라고 이야기합니다. 문둥병으로 인해 격리될 수밖에 없었던 시몬이 회복되어 주님과 식사를 나누었고, 죄인으로 여겨졌던 한 여인이 그 집에서 가장 귀한 기름을 깨뜨려 예수님을 섬겼습니다. 이것이 바로 복음의 실제이며, 주님께서는 이런 사랑을 지금도 찾고 계신다는 것입니다. 그리고 그것은 결코 계산적이지 않고, 허비처럼 보이는, 무조건적이고 대가 없는 사랑으로 나타난다는 점을 기억해야 합니다.

  •  제자들과 가룟 유다의 시각

한편, 복음서에서 이 옥합을 깨뜨린 사건 직후 혹은 중간에, 제자들의 반응과 가룟 유다의 배반이 언급됩니다(마 26:8-16; 막 14:4-11; 눅 22:3-6; 요12:4-6). 특히 마가복음 14장 45절에 보면, 옥합을 깨뜨린 여인을 향해 “어떤 사람들이 화를 내어 서로 말하되 어찌하여 이 향유를 허비하는가”라며 분노합니다. 마태복음 26장 8절은 이 ‘어떤 사람들’을 ‘제자들’이라고 구체적으로 밝혔고, 요한복음 12장 45절은 이를 더욱 좁혀 가룟 유다라고 지목합니다. 누가복음에서는 바리새인 시몬이 이 사건을 곁에서 지켜보며 예수님이 진짜 선지자라면 죄 많은 여인이 자신께 다가오는 것을 허용하지 않았을 것이라고 의심하는 반응을 보이기도 합니다. 즉, 옥합을 깨뜨린 여인의 사랑을 ‘진정한 사랑’이 아니라 ‘낭비’ 혹은 ‘헛된 열정’으로 바라보는 시각이 여러 모양으로 복음서에서 드러나는 것입니다.

장재형 목사는 이에 대해 “사랑을 진정으로 경험하지 못한 자에게는, 진실한 사랑의 행위가 때로 ‘허비’로 보일 수 있다”고 진단합니다. 제자들과 유다는 매일 예수님 곁에서 말씀을 들었고 여러 기적의 현장을 목격했지만, 그 사랑의 본질을 온전히 깨닫지는 못했던 것입니다. 특히 요한복음 12장 4~6절은 유다가 향유를 낭비라고 말하면서 그 이유로 “그것을 팔아 가난한 자들에게 나누어줄 수 있었을 텐데!”라고 외친 것이, 실상은 돈궤를 맡고 있던 유다가 거기서 돈을 빼돌리려는 악한 의도가 숨어 있었다고 설명합니다. 장재형 목사는 이러한 장면을 가리켜, “사랑의 세계로 들어오지 못한 사람이 결국 계산적이고 이기적인 의도를 드러내는 법”이라 지적합니다.

예수님께서는 제자들의 항변에 대해 “가만 두라, 너희가 어찌하여 그를 괴롭게 하느냐”(막 14:6)라고 말씀하십니다. 이는 주님께서 여인의 행위를 크게 기뻐하셨음을 보여주는 동시에, 제자들의 태도를 책망하시는 뉘앙스를 담고 있습니다. 그뿐 아니라 예수님은 이 여인의 행위가 자신의 죽음을 예비하는 것이요, 복음이 전파되는 곳마다 영원히 기념될 것이라 선언하십니다(막 14:8~9). 장재형 목사는 여기서 중요한 질문을 던집니다. “같은 사건, 같은 장면을 보고도 왜 누군가는 하늘의 비밀을 깨닫고, 누군가는 허비로만 보는가?”라는 질문입니다. 그 이유는 ‘그 마음에 무엇이 담겨 있는지’에서 비롯된다는 것입니다. 사랑이 담긴 마음을 지닌 자는 기꺼이 옥합을 깨뜨리고도 아깝지 않아 합니다. 그러나 사랑이 식고 주님을 향한 시선이 계산적으로 바뀐 자에게는 모든 것이 낭비처럼 보이고, 그 안에서 자신의 이익을 취하는 방법만을 궁리하게 됩니다.

가룟 유다는 이 사건 이후에 ‘결정적인’ 변곡점을 맞이합니다. 복음서의 기록에 따르면, 유다는 대제사장들을 찾아가 은화 서른에 예수님을 넘겨주는 일에 대해 합의합니다(마 26:14-16; 막 14:10-11; 눅 22:3-6). 요한복음 13장 2절에서는 “마귀가 벌써 시몬의 아들 가룟 유다의 마음에 예수를 팔려는 생각을 넣었더라”고 기록합니다. 장재형 목사는 유다가 예수님을 팔아넘기게 된 계기를 깊이 묵상할 때, 바로 ‘향유 옥합 사건’이 그의 배반을 확고히 한 시발점이라고 설명합니다. 유다는 자신이 믿고 따르던 스승이 이토록 엄청난 낭비 행위를 용납하시는 모습을 보고, 더는 예수님이 자신이 꿈꾸던 ‘메시아 왕국의 길’을 걷고 있다고 믿지 않았던 것으로 해석됩니다. 한마디로 유다는 “이분이 진정한 지도자라면, 이렇게 재정을 낭비하도록 방치해서는 안 된다. 그리고 가난한 자들을 도울 수 있는 기회를 왜 허비하시는 것인가?”라는 자기 논리를 세웠을 수도 있습니다. 하지만 그 이면에는 이미 물질에 대한 탐심이 싹트고 있었고, 계산적이고 합리적인 틀 안에서 예수님의 사랑과 사역을 재단하고 있었기 때문에, 주님의 뜻과 사랑의 본질을 전혀 이해하지 못한 채 배반의 길로 들어섰습니다.

제자들 중에서 유다는 가장 극단적으로 배반의 길을 택했지만, 사실 다른 제자들도 옥합을 깨뜨린 여인의 행동을 낭비로 보고 핀잔하였습니다(마 26:8). 장재형 목사는 이것이 우리에게 중요한 반면교사가 된다고 말합니다. 인간은 예수님을 알고 따른다고 해도, 여전히 사랑보다는 계산과 이익을 먼저 따질 수 있는 존재라는 것입니다. 결국 예수님의 십자가 길을 앞두고 제자들은 서로 누가 크냐를 다투었고(눅 22:24), 주님이 잡히시자 뿔뿔이 흩어져 도망쳤으며(막 14:50), 베드로는 주님을 세 번이나 부인하는 상황으로 내몰립니다(막 14:66-72). 사랑의 주님 앞에서조차 자기만의 잣대와 이익을 놓지 못하는 제자들의 모습은, 장재형 목사가 반복해서 강조하듯 “우리 모두의 거울”입니다.

그런데도 주님은 그들을 버리지 않으셨습니다. 주님은 유월절 만찬이 끝난 뒤 그들의 발을 씻어 주시면서 “내가 너희를 사랑하되 끝까지 사랑한다”(요13:1 참조)고 몸소 보여주십니다. 아이러니하게도, 제자들은 주님을 향한 사랑과 헌신을 선뜻 표현하지 못하는 상태였는데, 한 ‘죄인 여인’은 전 재산과도 같은 옥합을 깨뜨려 주님을 기름부음으로써 죽음과 장례까지 준비했습니다. 장재형 목사는 “사랑은 아낌없이 주는 것이며, 그것이 때론 허비처럼 보여도 그것을 통해서 진정한 영광이 드러난다”는 진리를 재차 환기시킵니다. 제자들의 시선은 여전히 세상의 논리에 갇혀 있었고, 유다는 탐심에 이끌려 배반의 길을 선택했지만, 그럼에도 불구하고 복음은 그런 허물 많고 연약한 인간을 향한 ‘무조건적인 사랑’을 선언합니다.

따라서 장재형 목사는 제자들과 유다의 반응을 깊이 묵상하면서, “내 안에는 혹시 그러한 모습이 없는가?”를 스스로 돌아보아야 한다고 권면합니다. 교회를 오래 다니고, 예배 자리에 가까이 있으며, 말씀을 많이 들었다 할지라도, 그 심령 깊은 곳에 계산적이고 자기중심적인 태도가 남아 있다면, ‘옳고 그름’을 내세우면서 진정한 사랑과 헌신을 ‘낭비’로 여길 위험이 있다는 것입니다. 그리고 그 끝에는, 가장 비극적인 형태로는 유다처럼 주님을 배반하는 자리까지 이르게 될 수 있음을 경고합니다. 장재형 목사는 “주님을 배반하는 것은 단지 외형적인 ‘예수 팔아넘김’만을 뜻하지 않는다. 교회 안에서, 혹은 신앙생활 속에서 사랑을 허비하는 마음을 거절하고 손익계산만 내세운다면, 이미 우리 심령 안에 사랑의 주님을 배반하는 씨앗이 자라고 있는 것”이라고 강조합니다.

  • 복음의 핵심으로서의 허비의 사랑

마지막으로, 예수님께서 옥합을 깨뜨린 여인의 행위를 두고 “온 천하에 어디서든지 복음이 전파되는 곳에는 이 여자가 행한 일도 말하여 그를 기억하리라”(막 14:9)고 하신 말씀에 주목할 필요가 있습니다. 이는 그 여인의 행위가 복음 메시지와 불가분한 관계에 있음을 의미합니다. 인간의 논리로 보면 허비요 낭비처럼 보이는 사랑이야말로 ‘복음이 지향하는 궁극적인 모습’이라는 뜻입니다. 장재형 목사는 이를 두고 “복음이란 결국 하나님께서 우리를 위해 베푸신 거룩한 낭비, 즉 독생자를 기꺼이 내어 주신 사랑”이라고 설명합니다. 아버지 하나님께서 죄인 된 우리를 위해 독생자 예수님을 내어 주셨고, 예수님께서는 자신을 십자가의 제물로 아낌없이 허비하심으로써, 우리의 죄를 대속하고 구원을 선물하셨다는 것입니다.

이 ‘허비’라는 관점은 고린도전서 1장 18절 이하에서 “십자가의 도가 멸망하는 자들에게는 미련한 것이요, 구원을 받는 우리에게는 하나님의 능력”이라는 바울의 선포와도 맞닿아 있습니다. 세상적 가치관으로 보면 십자가는 이해 불가능하고 결코 합리적이지 않은 ‘낭비’에 가깝습니다. 전지전능하신 하나님께서 굳이 사람의 몸을 입고 오셔서, 죄인을 위해 죽으셔야 했던 이유가 무엇인가? 세상의 지혜로는 결코 도달할 수 없는 ‘하나님의 사랑의 지혜’가 바로 그곳에 담겨 있다는 것이 장재형 목사가 강조하는 복음의 핵심입니다. 여인이 옥합을 깨뜨려 모든 향유를 쏟아 부은 사건 역시 “주님 앞에서 낭비를 두려워하지 않는 자만이 진정으로 복음의 깊이를 경험할 수 있다”는 상징적 메시지를 준다는 것입니다.

그러므로 이 이야기는 단지 옛날 어느 동네에서 일어난 아름다운 장면 정도로 끝나지 않습니다. 오늘날 우리 각자의 신앙과 삶 속에서, 하나님을 향한 사랑이 과연 얼마나 ‘전부를 드리는 사랑’이며, ‘허비처럼 보일 정도의 사랑’인지를 점검하게 만듭니다. 장재형 목사는 구체적인 예로써, 우리의 시간과 재정, 재능, 그리고 헌신의 태도를 들려줍니다. 시간을 쪼개어 예배하고 기도하며, 재정을 아낌없이 하나님 나라를 위해 사용하며, 재능을 하나님의 영광을 위해 기꺼이 드리는 행위가 때론 주변 사람들에게 “왜 그렇게까지 하느냐? 적당히 하지.”라는 핀잔을 들을 수 있습니다. 그러나 참된 사랑은 그런 말을 들어도 기꺼이 주님께 드리는 자리로 나아가게 만듭니다.

장재형 목사는 특별히, “우리의 예배가 형식이 되거나 습관에 그치지 않으려면, 옥합을 깨뜨리는 심정으로 나의 모든 것을 주님께 올려 드리는 일이 우선되어야 한다”고 권면합니다. 예배 시간에 정성껏 찬양하고 기도하는 것이 누군가에게 ‘열정 과잉’으로 보일지 몰라도, 하나님께 드려지는 사랑의 표현은 결코 낭비가 아닙니다. 선교와 구제에 힘쓰는 것도 마찬가지입니다. 누군가는 “왜 그렇게 많은 돈과 에너지를 들여 해외 선교를 하는가? 국내에도 어려운 사람들이 많은데.”라고 비판할 수 있지만, 결국 복음의 본질은 전 인류를 향한 하나님의 사랑이며, 그 사랑은 ‘지역’과 ‘조건’을 초월하기에, 어느 편에만 제한되지 않는 허비가 요구됩니다.

또한 장재형 목사는 옥합 파쇄 사건이 예수님의 ‘장례를 미리 준비하는’ 의미가 있음을 지적합니다(막 14:8). 예수님께서 곧 십자가에 달려 죽으심으로써 속죄의 제물이 되시고, 부활하심으로써 영원한 생명을 이루실 터인데, 이 여인은 누구보다 예수님의 ‘미래’, 혹은 ‘운명’을 사랑의 마음으로 내다본 것입니다. “사랑하게 되면 미래를 알게 된다”는 말처럼, 그녀는 예수님을 온전히 사랑했기에 주님의 죽음과 부활에 대한 암시를 직감했는지도 모릅니다. 제자들조차 “주여, 그런 일이 결코 일어나지 않을 것입니다”라고 부인하거나(마 16:22), 십자가의 길을 모른 채 다투고 있을 때(막 10:35-45), 여인은 잔치석에 와서 옥합을 깨뜨리는 과감한 순종을 통해, 예수님의 ‘진정한 길’을 헤아려 드렸습니다. 장재형 목사는 이러한 점에서 “사랑은 영적 통찰력의 열쇠”라는 주장을 펼칩니다. 지적 이해나 신학적 지식만으로는 알 수 없는 예수님의 길을, 사랑을 통해 직감하고 동참하게 되는 것입니다.

더 나아가 오늘날 교회 공동체 안에서도, 복음의 핵심이 ‘사랑의 허비’라는 사실을 놓치면, 쉽게 제자들이나 유다처럼 타산적 관점에 빠져 서로를 비난하고 분쟁에 휩싸일 수 있다고 합니다. 누가 얼마나 봉사하느냐, 헌금을 얼마나 많이 하느냐, 교회 활동에 열심이냐를 두고 비교하거나, 때로는 누군가의 헌신을 놓고 “왜 저렇게 과한가?”라는 불편함을 드러낼 수 있습니다. 그러나 복음이 선포되는 진정한 공동체라면, 옥합을 깨뜨려 예수님께 아낌없이 쏟아 부은 여인을 기념하라고 하신 주님의 말씀처럼, 서로의 헌신과 사랑을 기뻐하며 한마음으로 주님께 영광을 돌리는 모습이 자연스러워야 합니다.

장재형 목사는 “복음 전파의 목적은 단지 교세 확장이나 개인의 성공이 아니라, 바로 이 ‘아낌없이 주는 사랑’을 삶으로 구현하는 것이다”라고 말합니다. 그리고 그것이 궁극적으로 하나님을 영화롭게 하며 이웃에게 복음을 생생하게 증언하는 길입니다. 예수님께서 한 알의 밀알로 땅에 떨어져 죽어 많은 열매를 맺으셨듯이(요 12:24), 우리 또한 주님을 닮아 스스로 허비되는 결단을 내릴 때, 세상은 그리스도의 향기를 맡게 되고 하나님 나라의 실제가 드러난다는 것이지요.

결론적으로, 옥합을 깨뜨린 여인의 이야기는 모든 복음서 저자들이 각기 다르게 기록했음에도 공통된 메시지를 전달합니다. 그것은 바로, “하나님께 드려지는 사랑은 절대 낭비가 아니다”라는 사실입니다. 그 사랑을 잃어버린 이들에게는 낭비로 보이겠지만, 복음의 관점에서 보면 허비처럼 보이는 그 사랑이야말로 생명과 구원의 원천인 것입니다. 장재형 목사는 이 본문을 인용하며 끊임없이 강조합니다. “주님의 십자가는 전능한 하나님이 미련하고 어리석어 보이는 방법을 택하신 최고의 사랑이며, 그 사랑을 받아들인 이들은 기꺼이 옥합을 깨뜨려 주님께 향유를 부어 드리는 자가 되어야 한다. 비록 그것이 세상적 시선에는 낭비로 보일지라도, 바로 그 허비 안에 복음의 능력이 담겨 있기 때문이다.”

우리 각자에게 주어진 결단은, 삶의 구체적인 지점에서 ‘옥합을 깨뜨리는 용기’를 낼 수 있느냐 하는 문제입니다. 신앙생활을 오래 했어도 여전히 계산과 이성적 판단, 그리고 손익을 따지는 마음에서 자유롭지 못할 수 있습니다. 그러나 만약 우리는 주님의 십자가 사랑을 실제로 경험했다면, 그리고 장재형 목사가 말하듯이 “우리가 본래 영적으로 문둥병자였고 주님께서 치유해 주셨음”을 깨달았다면, 이제 주님께 우리의 옥합을 깨뜨려 드리는 것이 결코 아깝지 않음을 깨달아야 합니다. 그 옥합이 우리의 재물일 수도 있고, 시간일 수도 있고, 재능이나 미래의 계획일 수도 있습니다. 어떤 이에게는 자신의 자존심이나 세상의 지위일 수도 있습니다. 무엇이 되었든, 주님보다 더 귀히 여기는 것이 있다면, 그것을 ‘깨뜨려’ 주님께 내어드릴 때, 그 헌신이야말로 가장 향기로운 예배가 된다는 것입니다.

결론적으로, 이 세 번째 소주제에서 장재형 목사는 이렇게 요약합니다. 복음은 ‘사랑의 허비’로 완성된 하나님의 구원 계획이며, 그 구원에 동참하는 길 역시 우리가 기꺼이 자신을 허비하는 사랑의 결단으로 열리게 된다는 것입니다. 그리고 그 출발점은 바로 “주님이 나를 위해 먼저 허비해 주셨다”는 진실을 깨닫는 데 있습니다. 예수님의 십자가가 가장 훌륭한 옥합 파쇄의 사건이었던 셈입니다. 그분이 자신의 모든 것을 내어주셨기에, 이제 우리는 그 사랑을 알고, 또 다시 그 사랑을 주님과 이웃에게 돌려드릴 수 있습니다. 가난한 자에게나 병든 자에게나, 혹은 교회 공동체 안에서 때로는 나와 맞지 않는 사람에게까지도, 우리는 옥합을 깨뜨려 주님의 향유를 부어 줄 수 있습니다. 그리고 그 사랑의 헌신은 절대로 헛되지 않고, 복음이 전해지는 곳마다 기억되고 기념될 만한 가치가 있다고 주님께서 친히 약속하셨습니다.

이상으로 살펴본 세 소주제—(1) 베다니 문둥이 시몬의 집과 옥합을 깨뜨린 여인에 대한 장재형 목사의 묵상, (2) 제자들과 가룟 유다의 시각에 대한 경고, (3) 복음의 핵심으로서의 허비의 사랑과 오늘날의 적용—를 통해 우리는 이 사건이 단순히 ‘감동적인 이야기’가 아니라 복음의 정수(精髓)를 담은 중대한 선언임을 깨닫게 됩니다. 이 옥합 사건은 곧 우리를 향한 하나님의 조건 없는 사랑과, 그 사랑 앞에 우리가 어떠한 헌신을 드려야 하는지를 분명히 보여줍니다. 장재형 목사는 “하나님이 우리에게 묻고 계신다. ‘너는 과연 옥합을 깰 준비가 되어 있느냐?’”라고 질문하며, 그 대답을 통해 우리가 복음의 깊이를 체험하게 된다고 강조합니다. 그리고 답은 이미 주어져 있습니다. 예수님께서 먼저 우리를 위해 옥합을 깨뜨려 주셨고, 그 안에 담긴 무한한 사랑을 부어주심으로써, 우리도 기꺼이 옥합을 깨뜨릴 수 있는 힘을 얻게 되었기 때문입니다.

결국, 하나님의 큰 사랑은 항상 ‘허비처럼 보이는 것’으로 나타납니다. 그러나 그 허비야말로 세상을 살리는 생명의 길입니다. 우리는 연약하고 계산적인 제자들과 유다의 모습을 경계하면서, 동시에 베다니 문둥이 시몬처럼 치유와 용납의 은혜를 입은 자임을 잊지 말아야 합니다. 그리고 옥합을 깨뜨린 여인처럼 감사와 사랑으로 주님 앞에 나아가, 우리 삶의 가장 귀한 것들을 헌신의 예배로 바쳐야 할 것입니다. 이것이 장재형 목사가 본문을 통해 거듭 일깨우는 복음의 핵심이며, 성도가 마땅히 걸어가야 할 제자도의 길입니다. 그렇게 허비하는 사랑을 ‘미련하다’고 비난하는 목소리가 있을지라도, 주님께서는 그 사랑을 결코 외면치 않으시며 “온 천하에 복음이 전파되는 곳에 함께 기억하겠다”고 약속하셨음을 붙들고, 우리 모두 옥합을 깨뜨리는 삶을 결단해야 하겠습니다.

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La Prière du Notre Père et le pardon – Pasteur David Jang


1. Le sujet et l’ordre de la prière

Le pasteur David Jang explique de manière concrète pourquoi nous devons prier et comment nous devons prier, en repassant point par point sur le sens contenu dans la prière du Notre Père. Il souligne d’abord que « notre prière a un but précis et un ordre établi » et met l’accent sur le fait que, dans la première partie du Notre Père, deux requêtes sont mentionnées en premier : que le nom de Dieu soit sanctifié et que le règne de Dieu vienne. Selon lui, ces deux requêtes correspondent à la « raison même de l’existence de l’homme » et à « notre objectif en tant qu’êtres vivants ». Autrement dit, notre vie doit rendre gloire à Dieu et contribuer à l’avancement de son règne sur terre. Toutefois, puisque nous sommes limités et ignorants, il nous arrive de ne pas savoir quoi demander dans la prière. Dans ce contexte, le Notre Père devient le modèle et le cadre de prière que Jésus lui-même nous a enseigné.

Le pasteur David Jang affirme que le Notre Père n’est pas simplement une « prière récitée par cœur », mais une prière très importante qui nous amène à intérioriser la manière même de prier. Beaucoup ne savent pas vraiment ce qu’est la prière ou comment formuler leurs requêtes devant Dieu ; ils finissent souvent par tourner en rond, ou ne prient que pour des besoins quotidiens et triviaux. Mais en comprenant correctement le Notre Père et en le méditant, on saisit clairement la structure fondamentale : « d’abord rechercher la gloire de Dieu et son règne », puis demander d’une manière équilibrée notre pain quotidien et ce dont nous avons réellement besoin.

En citant Romains 8 (« Nous ne savons pas ce qu’il convient de demander dans nos prières, mais l’Esprit intercède pour nous par des soupirs inexprimables »), il souligne à quel point l’être humain est faible et combien il dépend de l’assistance du Saint-Esprit pour prier. Le don des langues ou leur interprétation en est un aspect : cela facilite la communication avec Dieu. Toutefois, il insiste aussi sur l’importance de la prière intelligible : « Si le parler en langues est un don merveilleux qui nous permet de prier Dieu dans un langage que nous ne comprenons pas, la prière avec notre intelligence, nos émotions et notre volonté, afin de la formuler clairement devant Dieu, est tout aussi précieuse ». Citant 1 Corinthiens 14 :19 (« Dans l’Église, je préfère dire cinq paroles avec mon intelligence plutôt que dix mille paroles en langue »), il enseigne qu’il peut être bien plus bénéfique de prier en étant conscient de ce que l’on demande et de son sens.

Ainsi, en étudiant la structure et la signification profondes du Notre Père, le pasteur David Jang rappelle avoir déjà abordé les première et deuxième requêtes, « que ton nom soit sanctifié » et « que ton règne vienne », ainsi que la requête « donne-nous aujourd’hui notre pain quotidien ». Il met en avant que c’est Dieu qui pourvoit à tous nos besoins, et qu’il est le « bon Dieu qui récompense ceux qui le cherchent et répond à ceux qui le prient ». Comme le dit Jésus dans Matthieu 7 :9-10 (« Lequel d’entre vous donnera une pierre à son fils, s’il lui demande du pain ? Ou bien, s’il demande un poisson, lui donnera-t-il un serpent ?»), nous avons raison de faire confiance en Dieu, car il nous donne ce qu’il y a de meilleur.

Mais la prière n’est pas une simple énumération de vœux ; il faut d’abord savoir « qui est Dieu ». Le pasteur David Jang souligne que « la plus grande raison pour laquelle les gens ne croient pas en Dieu, c’est qu’ils ne savent pas qu’il est véritablement bon ». L’être humain se sent en confiance envers quelqu’un lorsqu’il fait l’expérience de la bienveillance répétée de cette personne ; ainsi, pour un enfant, la « bonne personne » qu’il identifie d’abord est souvent sa mère. De même, beaucoup ne croient pas en Dieu parce qu’ils ne le connaissent pas bien. Il insiste donc sur l’importance de montrer, dans l’Église comme à la maison, que « Dieu est réellement bon ». Comme on le chante parfois dans le cantique « Dieu est bon », il s’agit d’intégrer l’idée que Dieu nous nourrit, nous habille et nous lave, de manière à ce que cette image devienne familière.

Le pasteur David Jang porte ensuite son attention sur la scène où les disciples demandent à Jésus : « Seigneur, apprends-nous à prier ». Les disciples de Jean-Baptiste, comme toutes les écoles religieuses juives, avaient leur style de prière ; ainsi, les disciples de Jésus avaient besoin d’apprendre à prier selon leur Maître. Le Notre Père est précisément ce résumé le plus complet de la prière, ce condensé de toutes les dimensions de la prière que Jésus nous a enseigné. Il englobe la glorification de Dieu, la demande de pain quotidien pour nos besoins, et le pardon de nos péchés ainsi que celui envers autrui. Et c’est sur cette notion de « demander et offrir le pardon » que porte le cœur du message à ce stade du discours.

Le pasteur David Jang insiste sur l’importance du fait que, dans le Notre Père, la requête du pardon arrive juste après la demande du « pain quotidien ». En somme, l’être humain qui reçoit de quoi subsister et s’épanouir de la part de Dieu est ensuite appelé à pardonner et à recevoir le pardon à son tour. Cet enchaînement suggère qu’une fois qu’une personne, symbolisant le croyant, a reçu abondamment la provision divine, elle doit passer à l’étape suivante : « pardonner aux autres et être pardonnée ». Étant donné la structure progressive du Notre Père, il encourage à ne pas se contenter de le réciter mécaniquement, mais à en saisir la profondeur et à la mettre en pratique.

Pour illustrer l’importance du pardon, il évoque l’histoire de la femme surprise en adultère (Jean 8). Les religieux de l’époque soumettaient Jésus à un piège, demandant : « Faut-il lapider cette femme selon la Loi, ou non ? » Pendant ce temps, Jésus écrit quelque chose sur le sol. Le pasteur David Jang suppose que Jésus y a peut-être tracé la « nouvelle justice » et la « nouvelle Loi ». Jésus ne méprise pas la Loi ; au contraire, il l’accomplit et l’élève à un niveau supérieur. Sans abroger la condamnation que la Loi prononce contre les pécheurs, il déclare : « Que celui qui n’a jamais péché jette la première pierre », amenant chacun à examiner son propre péché. Résultat : tous lâchent leurs pierres et s’en vont. Seul Jésus reste avec la femme, et il lui dit : « Moi non plus, je ne te condamne pas ; va, et ne pèche plus ». Ce geste de Jésus consiste en un « pardon qui libère » – rappelons que dans le texte original grec, « pardonner » signifie « laisser partir, relâcher ». Jésus, dépassant la sanction exigée par la Loi, proclame une justice d’un ordre nouveau.

C’est là le cœur du pardon que l’on trouve dans le Notre Père, et qui rejoint l’enseignement de Jésus : « Pardonne jusqu’à soixante-dix fois sept fois ». Avant de condamner et de s’emporter contre quelqu’un, il faut reconnaître qu’on est soi-même pécheur : « Comment pourrais-je condamner autrui, moi qui ai déjà été pardonné de tant de fautes devant Dieu ? » Puis, pour mettre en pratique cette « nouvelle justice et cette nouvelle Loi » qu’a apportées Jésus, il faut pardonner. Le pasteur David Jang rappelle que Jésus a aimé les personnes adultères, les meurtriers, les voleurs, les cupides ; en le voyant agir, on découvre le « cœur du Père », fait de compassion. Et cela se reflète naturellement dans l’ordre du Notre Père.

Il ajoute que « condamner un pécheur peut sembler relever de la justice », mais « la “nouvelle justice” que Jésus enseigne se situe à un niveau supérieur, celui de l’amour et du pardon ». Il ne s’agit pas de « fermer les yeux sur le mal », mais de s’élever au-delà de la Loi, jusqu’à son but ultime : l’amour et la miséricorde. Ainsi, en Jésus, on voit l’accomplissement de la volonté de Dieu. Il ne s’agit pas d’abolir la Loi, mais d’atteindre « le cœur de Dieu » qui en est la source. De plus, ce pardon ne s’arrête pas à un acte isolé ; il ouvre la voie à une vie renouvelée où l’on ne pèche plus, et où la grâce reçue se transmet aux autres. C’est le message que le pasteur David Jang tire de ce passage.


2. Au-delà de la Loi, la grâce

Le pasteur David Jang souligne ensuite que l’humanité, ayant d’abord vécu à l’époque « sans Loi », est ensuite passée sous la Loi, pour finalement entrer à présent dans l’ère de la grâce grâce à Jésus. Le but de la Loi est d’amener l’homme à reconnaître son péché et à maintenir l’équilibre (l’égalité) et l’ordre au sein de la société. Par exemple, dans Exode 21, Lévitique 24 et Deutéronome 19, on trouve la loi du talion : « œil pour œil, dent pour dent », qui cherchait à rendre équitable la punition d’un péché. « La Loi vise la justice et l’égalité, et ainsi procure la paix sociale. »

Cependant, Jésus proclame une réalité qui dépasse cette Loi. Il enseigne : « Ne résistez pas au méchant ; si quelqu’un te frappe sur la joue droite, présente-lui aussi l’autre ; et si quelqu’un veut te forcer à faire un kilomètre, fais-en deux avec lui. » C’est un niveau bien plus élevé que celui du « œil pour œil ». Jésus révèle : « Vous ne pourrez pas entrer dans le Royaume de Dieu avec votre propre justice, mais le monde nouveau que j’apporte, où règnent l’amour, la miséricorde et la bienveillance, dépasse la Loi et en est l’ultime finalité. » Le pasteur David Jang qualifie cela d’« ère de la grâce » ou de « nouveaux cieux et d’une nouvelle terre ». Ceux qui y entrent ne suivent plus la logique de la vengeance, mais celle de la vie totalement renouvelée.

À ce point, il évoque l’histoire de Caïn et Abel dans l’Ancien Testament. Quand Caïn s’irrita à propos de l’offrande, Dieu lui dit : « Pourquoi es-tu irrité ? Le péché est tapi à ta porte ; mais toi, domine-le ! » Or Caïn ne surmonta pas sa colère et assassina Abel. C’est l’exemple même de la « période sans Loi » qui a produit le pire résultat de violence, manifestant la profondeur du péché humain. Malgré cela, Dieu vint trouver Caïn, comme il avait cherché Adam et Ève après leur faute : « Où es-tu ? » Alors que l’homme pécheur et coupable se cache et rejette la faute sur autrui, Dieu, lui, tend toujours la main.

À la question : « Pourquoi Dieu laisse-t-il le péché et Satan exister ? », le pasteur David Jang répond : « Satan, aussi puissant soit-il, ne peut rien face à l’autorité absolue de Jésus, qui lui ordonne de sortir ou d’entrer à sa guise. Tant que nous demeurons en Christ et vivons selon sa Parole, Satan ne peut nous faire de mal. » Le vrai problème, c’est que l’homme ne se défait pas de sa nature pécheresse : orgueil, jalousie, irresponsabilité. Cette nature nous retient dans la « violence ou la Loi », alors que Jésus nous appelle à avancer d’un cran, en pardonnant, en libérant, et en choisissant même de supporter le tort subi pour sauver l’autre. C’est « la nouvelle Loi » qu’il nous a enseignée.

Le pardon, précise-t-il, ce n’est pas « considérer qu’un mal est bon », mais c’est « refuser de se venger, même si on a subi un préjudice, et laisser partir l’offenseur ». Jésus nous exhorte « à pardonner jusqu’à soixante-dix fois sept fois », citant la parabole de Matthieu 18 où un serviteur endetté de dix mille talents est gracié par son maître, mais refuse à son tour de faire grâce à un homme qui ne lui doit que cent deniers. Le maître s’indigne : « Ne devais-tu pas, toi aussi, avoir pitié de ton compagnon, comme j’ai eu pitié de toi ? » Le pasteur David Jang souligne que voilà l’essentiel du pardon : nous sommes tous, devant Dieu, redevables d’une dette impossible à rembourser, et pourtant nous avons été graciés. Il est donc naturel, en retour, de montrer la même compassion envers ceux qui nous doivent peu.

Il enchaîne alors avec la parabole des ouvriers de la vigne dans Matthieu 20 : « Si tu as travaillé toute la journée pour un denier, et qu’un autre, arrivé à la onzième heure, touche le même salaire, comment réagirais-tu ? » Lorsque celui qui a travaillé depuis le matin s’en plaint, le maître répond : « N’ai-je pas convenu avec toi d’un denier ? Pourquoi regardes-tu d’un œil mauvais ma bonté ? » C’est une dénonciation de l’envie et de la jalousie « à la manière de Caïn ». Le pasteur David Jang insiste sur le fait que la grâce de Dieu dépasse toute logique humaine. Nous avons déjà reçu « une grâce immense » et n’avons pas à la « mesurer » ni à la « comparer » par rapport aux autres. Pardonner, c’est ainsi accepter de « libérer » celui qui nous a offensés ou qui nous est redevable. C’est, selon lui, le « cœur du Père » révélé par Jésus.

Dans la perspective de l’Ancien Testament où la justice consiste à punir le coupable et à dédommager la victime, cela peut paraître injuste. Cependant, Jésus nous dit : « Nous sommes tous redevables de dix mille talents. Dieu nous a pardonnés sans condition, alors faites de même pour autrui. » Il ne s’agit pas d’un simple acte de bonté ponctuel, mais d’un changement radical de racine et d’attitude, nourri quotidiennement par la récitation et la méditation du Notre Père. Nous qui étions portés à haïr et à nous venger, nous sommes désormais appelés à cheminer vers « l’amour des ennemis ». Et cela se manifeste clairement dans la partie « Pardonne-nous nos offenses, comme nous pardonnons aussi à ceux qui nous ont offensés » de la prière du Notre Père.

En conclusion de cette partie, le pasteur David Jang explique que ce n’est pas un hasard si, après la demande du pain quotidien, nous avons la requête : « Pardonne-nous nos offenses, comme nous pardonnons aussi à ceux qui nous ont offensés ». Celui qui reçoit du pain pour vivre doit naturellement manifester la miséricorde et le pardon. Il souligne également que Jésus a accompli la Loi en inaugurant une réalité plus vaste et plus profonde : « Vivez désormais dans cet univers riche de grâce ». Cela renvoie à la dynamique du Notre Père, qui va du don de Dieu envers nous à l’amour et au pardon à offrir autour de nous.


3. L’absolu de Dieu et son amour

Enfin, le pasteur David Jang élargit le propos, expliquant les implications spirituelles et théologiques de cette « nouvelle Loi » et de cette « nouvelle ère ». Il fait remarquer que, même aujourd’hui, la technologie et le monde changent de manière spectaculaire, mais que la transformation véritable part du cœur et des valeurs de l’être humain. On peut envoyer des hommes sur Mars, installer des satellites de communication, mais aucune technologie ne peut éliminer le péché dans le cœur de l’homme. Bien qu’on souhaite que l’Évangile soit annoncé partout, même si on le fait, « si l’on n’accueille pas le monde du pardon et de la bienveillance, les conflits, la jalousie, la violence et la persécution persisteront ». Mais Dieu veut que l’Évangile soit proclamé « jusqu’à la fin du monde », et le cœur de cet Évangile, c’est le pardon et la réconciliation.

À la remarque d’un enfant : « Pourquoi ne pouvons-nous pas voir Dieu ? », le pasteur David Jang répond en abordant l’absolu divin. Dieu est l’Être absolu qui voit en même temps le haut, le bas, la gauche, la droite, l’avant et l’arrière. En tant qu’êtres situés, nous ne pouvons pas le voir sous cet angle absolu. Cela indique que Dieu n’est pas de la même nature que nous, et que, peu importe la direction dans laquelle nous allons, nous restons devant l’Absolu immuable. Dans une époque marquée par le postmodernisme et le pluralisme religieux qui proclamait « l’inexistence de toute valeur absolue », il souligne néanmoins que sans absolu, l’homme est vite perdu et privé de sens. Pour les croyants, cet absolu, c’est Dieu, et la Parole de Dieu, laquelle soutient chacun de nous.

Partant de là, il conclut : « Si nous comprenons vraiment ce Dieu absolu, qui est amour, comment pourrions-nous ne pas pardonner aux autres ? » C’est précisément la raison pour laquelle le Notre Père nous demande à la fois de demander et de donner le pardon. Si nous avons déjà reçu et revêtu l’amour et la grâce de notre Père céleste, nous devons, à notre tour, aimer et pardonner. L’attitude d’Adam qui accuse Ève, ou celle d’Ève qui accuse le serpent, ou encore celle de Caïn envers Abel, subsistent en nous sous la forme du péché. Pourtant, Jésus est venu pour restaurer les pécheurs ; il est « l’Agneau de Dieu qui ôte le péché du monde » (Jean 1 :29) et a pris le chemin de la Croix.

Le pasteur David Jang fait aussi allusion aux débats théologiques, comme entre calvinisme et arminianisme, qui surgissent parfois dans l’Église, rappelant le chapitre 14 de l’Épître aux Romains : « que le fort ne méprise pas le faible, et que le faible ne juge pas le fort ». En effet, nous sommes tous choisis par la grâce souveraine de Dieu, et en même temps responsables de répondre par la foi. Derrière ces controverses doctrinales, le fait essentiel demeure : « Dieu nous a aimés inconditionnellement et a effacé notre immense dette, nous devons donc, nous aussi, pardonner aux autres ». Les paraboles des ouvriers de la vigne en Matthieu 20 ou du fils prodigue en Luc 15 illustrent la bonté divine, qui dépasse de loin notre compréhension. Après avoir reçu cette grâce, il est tentant de nous plaindre : « Pourquoi être aussi généreux avec les autres ? », mais c’est une posture semblable à celle de Caïn, un refus du « monde nouveau » dont Jésus parle.

Au final, le pardon que Jésus nous enseigne dans le Notre Père n’est pas facultatif pour le croyant : c’est un engagement pratique et incontournable. « De même que Dieu a effacé nos dettes, nous devons effacer celles de nos frères. » Loin de la logique légale qui voudrait qu’on jette en prison le débiteur afin de rétablir l’équilibre, nous nous souvenons humblement que nous-mêmes avions une dette immense totalement annulée par Dieu. C’est là tout le sens du pardon. Le pasteur David Jang le définit comme « le cœur de Dieu ». La Loi d’autrefois disait : « œil pour œil, dent pour dent », mais Jésus dit : « Aimez même vos ennemis ». Voilà l’invitation du Seigneur : entrer chaque jour dans la prière en considérant le pardon comme un sujet majeur, et renoncer à nos rancunes ou colères pour suivre l’exemple de son amour sacrificiel.

Lorsque nous disons que, par la foi, nous sommes entrés dans « l’ère nouvelle, l’ère de la grâce », cela signifie vivre sous le signe du pardon, de la réconciliation et de l’amour. Ce n’est plus se satisfaire de la réparation légitime du dommage subi ; c’est imiter Jésus, qui a tout donné pour sauver même ceux qui l’avaient offensé. Il n’a pas condamné la femme adultère, mais lui a simplement demandé de ne plus pécher. Il a tendu la main à tous les pécheurs pour leur offrir la repentance et la restauration. Dans notre vie quotidienne, nous sommes appelés à nous souvenir en permanence de ce message et à mettre en pratique la parole : « Si quelqu’un te frappe sur la joue droite, présente-lui aussi l’autre ».

Tout au long de sa prédication, le pasteur David Jang souligne que, malgré la présence persistante de la lâcheté et de la violence (les traits d’Adam et de Caïn) en l’homme, nous sommes devenus de nouvelles créatures par le sang et la grâce de Jésus. Il faut donc renouveler radicalement nos pensées et nos attitudes. Par ailleurs, même si la technologie avance à grande vitesse et que le monde paraît se transformer, si notre cœur reste emprisonné dans l’« orgueil, l’envie, la colère et la haine », il ne peut y avoir de paix véritable. Seul Dieu peut établir les « nouveaux cieux et la nouvelle terre ». Et cette réalité est dominée par la loi de l’amour et du pardon. C’est en effet la valeur la plus décisive pour ce nouveau monde promis par Dieu.

La Loi que Jésus nous a enseignée sur cette terre, c’est : « Aimez-vous les uns les autres, comme je vous ai aimés ; de même que vous avez reçu mon pardon, pardonnez aussi. » Notre propre force ne suffit pas, mais le Saint-Esprit nous aidera à y parvenir. Romains 8, où il est écrit que « l’Esprit intercède pour nous par des soupirs inexprimables », atteste que Dieu nous soutient dans notre faiblesse. Le Notre Père, de même, nous ouvre un chemin pour rendre notre vie de prière toujours plus riche dans l’Esprit. De même que nous demandons chaque jour à Dieu notre subsistance, nous devons compter sur la même force divine pour pardonner. Alors notre prière deviendra féconde : « Que ton nom soit sanctifié, que ton règne vienne, donne-nous notre pain quotidien, et pardonne-nous nos offenses comme nous pardonnons aussi à ceux qui nous ont offensés », afin que nous entrions dans une communion plus intime avec Dieu.

En conclusion, le pasteur David Jang encourage l’assemblée à réciter le Notre Père en méditant chaque fois sur la « gloire et le règne de Dieu », puis sur « notre subsistance », et enfin sur « le pardon mutuel ». C’est ainsi que nous établissons notre identité et notre objectif de chrétiens. Et c’est aussi de cette manière que, dans la vie concrète, nous pouvons exercer l’amour envers nos ennemis et la bienveillance, qui sont les signes d’une foi mature. En récitant chaque jour cette prière, nous disons : « Seigneur, merci pour le pain dont tu me nourris aujourd’hui. Aide-moi à transmettre à autrui l’amour et le pardon que j’ai moi-même reçus ». C’est ainsi que, peu à peu, nous devenons les serviteurs de cette nouvelle ère, celle de la grâce, de l’amour et du pardon. Le cœur du christianisme n’est pas un ensemble de devoirs religieux, mais un appel à embrasser le regard et les sentiments de Dieu sur le monde, et à les mettre en pratique.

En définitive, dans le Notre Père, le pardon est l’un des aspects fondamentaux de la vie spirituelle. Plutôt que de « rendre coup pour coup » selon l’ancienne justice, Jésus nous invite à la justice plus élevée : « puisque Dieu t’a pardonné, fais de même pour les autres ». Cette attitude reflète la nature même de Dieu, et constitue la clé pour mener à bien la vie que propose le Notre Père : honorer le nom de Dieu, rechercher son règne, demander le pain de chaque jour et instaurer des relations réconciliées dans la communauté. Selon le pasteur David Jang, il ne s’agit pas seulement de réciter inlassablement le Notre Père, mais de ne jamais oublier sa signification profonde et de la pratiquer au quotidien.

主祷文与饶恕 — 张大卫牧师


1. 告的主

张大卫牧师通过逐条回顾主祷文所包含的意义,具体阐明了我们为何需要祷告以及该如何祷告。他首先强调,“我们在祷告时,应该有明确的目的和顺序。”并指出,在主祷文的前半部分,首先提到的两个祷告主题是:愿上帝的名被尊为圣,愿上帝的国降临。这两个主题既是“人类存在的目的”,也是“我们活着的目标”,提醒我们要过荣耀上帝的生活,并将上帝的国度拓展到这片大地上。然而,我们自己是有限而且无知的,有时甚至不知道该求什么。这时,主祷文就成为耶稣亲自教导我们的祷告典范和框架。

张大卫牧师认为,主祷文并不仅仅是“一段背诵用的祷告”,而是让我们学会如何祷告、将祷告内化于心的极其重要的祷告。很多人并不了解何为祷告,或不知道如何在上帝面前祈求,常常只是在祷告中模糊重复,或者仅列举一些日常需求就草草结束。但若正确理解并持续默想主祷文,我们就会牢牢抓住“先求上帝的荣耀和上帝的国度”这一大框架,然后才在此基础上平衡地求取我们日常生活中所必需的粮食和各样需要。

他引用《罗马书》第8章中“我们本不知道该怎样祷告,但圣灵会用说不出来的叹息亲自为我们代求”这段经文,强调人因软弱,所以连祷告本身也需要圣灵的帮助。说到方言或翻方言之类的恩赐,这可以帮助我们与上帝沟通,但同时也应当重视用我们听得懂的语言、在理性层面祷告的重要性。“若说方言能让我在不明白具体内容的情形下向上帝祷告,这是宝贵的恩赐;那么能用自己的理智、感情、意志明确地向上帝祈求,更是难能可贵。”他引用《哥林多前书》14章19节:“宁可用悟性说五句教导人的话,胜过说万句方言”,来说明当我们清楚知道自己在祈求什么,也明白其意义时,这样的祷告往往更有益处。

就这样,张大卫牧师在探讨主祷文奇妙的结构和内涵时指出,在已经讲解了第一和第二个祷告主题“愿上帝的名被尊为圣,愿上帝的国降临”,以及随后“赐给我们日用的饮食”这一段后,他特别说明:真正能供应我们一切所需的那一位乃是上帝,“祂会奖赏那寻求祂、祂也供应向祂祈求的人”,因此我们当凭信心向这位美善的上帝祈求。正如《马太福音》7章9-10节,耶稣曾说:“你们中间,谁会给求饼的儿子石头呢?求鱼的儿子,会给他蛇吗?”意思是上帝是赐给我们最好的那位,我们理应相信并祈求祂。

然而,这里祷告并不只是罗列愿望,而是要先正确认识“上帝是怎样的一位上帝”。张大卫牧师指出,“人们不信上帝,最大的原因之一就是没真正认识到上帝确实是良善的神。”人会对某个对象产生好感,往往是因为在与其相处的过程中感受到对方持续施予善意。就像孩子年幼时首先会感知到母亲的好,同样,在灵性层面上也是如此。很多人是因为不熟悉上帝,或对上帝有错误印象,所以才不相信。因此,无论在教会还是家庭中,都应该首先教导“上帝真的是一位好神”。我们常唱“良善的上帝”这类诗歌,也是在帮助人熟悉这样一个形象:祂会喂养我们、给我们穿戴、为我们洗涤。这个熟悉的过程十分重要。

接着,张大卫牧师提到门徒问耶稣“我们该如何祷告”这一情节。因为犹太教和其他宗教团体都有各自的祷告传统和方式,正如施洗约翰教导他的门徒一样,耶稣的门徒也需要学习如何祷告。而耶稣亲自教给他们的“主祷文”便是我们所有祷告的最完美总结,里面蕴含了所有祷告的核心:荣耀上帝,祈求日常所需,饶恕彼此的罪。张大卫牧师强调,今天的焦点正是“在祷告中请求并施与饶恕”这一主题。

他进一步指出,主祷文里,“饶恕”之所以紧接在“赐给我们日用的饮食”之后,其内在脉络极为关键:人之所以能生存、能获得粮食供应,最终目的是要实践饶恕与爱。当一个象征信徒的个体在享受上帝所赐的丰盛粮食后,下一个必然阶段便是“主动地饶恕他人,也从上帝那里蒙饶恕”。主祷文有这样阶段性的结构,不应只停留在背诵,还要细细品味其中含义,将之应用在实际生活中。

在这个背景下,他在讲道中引用了《约翰福音》第8章行淫时被捉的妇人那段故事,来进一步阐明饶恕的重要。那时,一些拿着律法的人以此为借口来试探耶稣:“依照律法,这个妇人该用石头打死吗?”耶稣却沉默地在地上写字。张大卫牧师推测,耶稣在地上写下的是“新的义和新的律”。耶稣并不是漠视律法,而是要成全律法,并把它提升到更高境界。祂并没有把律法对罪人的定罪简单地废除或无限期延后,而是通过“你们中间谁是没有罪的,先拿石头打她”这一句话,使在场的人自行省察罪,然后都纷纷放下石头离开。当只剩下耶稣和那妇人时,耶稣对她说:“我也不定你的罪;去吧,从此不要再犯罪了。”用行动展现了“赦免就是释放、让其离开(在希腊原文中,‘饶恕’有‘释放、离开’之意)”的真义。祂跨越了律法处刑的范畴,宣告了某种新的、更高层次的义。

他认为,这正是主祷文里饶恕的核心,也与耶稣“要饶恕人七十个七次”的教导一脉相通。在我们彼此定罪、彼此愤怒、甚至想拿起石头互相攻击之前,要先看到自己的罪:“我在上帝面前已经蒙了许多赦免,怎么能去定别人的罪呢?”接着,出于对耶稣所成全的“新的义和律”的践行,我们也应当选择饶恕。张大卫牧师说:“无论是犯了奸淫的女子,还是杀人犯、盗贼、贪心的人,上帝都这样爱他们,耶稣也亲自示范给我们看了。我们也要有这样一颗父神的心,一颗宽容的心。”而这一“饶恕”的次序在主祷文中显得非常自然。

他进一步强调,“指责罪人,从表面看似乎实现了公义,但耶稣所教导的‘新义’却体现在更高层面的爱与宽恕当中。”我们若仍只是停留在“难道可以对罪恶视而不见吗?”的律法视角里,那就无法体会到耶稣所示范的对律法的超越,以及其终极目标“爱与宽容”。在耶稣身上,我们看见如何真正成全了上帝所颁布的“应当行的事”。祂并非废除律法,而是通过饶恕引领我们走向律法最深处的“上帝之心”。而这种饶恕不仅是一次性的;更重要的是在我们再不犯罪、并将所领受的恩典继续施予他人的生活实践中具体展现出来。


2. 超越律法的恩典

接着,张大卫牧师在阐明“饶恕”这一核心概念的同时,强调人原先生活在旧约的律法之中,如今却因为耶稣进入了新的“恩典时代”。他先说明,在律法时代之前还有一个“无律法的时代”,然后才是赐下律法的时代,而现今我们所处的是“恩典时代”。律法之所以出现,目的在于让人认识到何为罪,并维持社会的公平与秩序。比如在《出埃及记》第21章、《利未记》第24章、《申命记》第19章等经文中有“以眼还眼,以牙还牙”的报应原则,就是为了让犯罪者“罪当其罚”,使天平归于平衡。它的动机是“法律以公义为目的,从而带来社会平安”。

但是,耶稣向我们宣告了超越律法的新境界:“不要与恶人作对;有人打你的右脸,连左脸也转过来由他打;有人强逼你走一里路,就同他走两里……”这比“以眼还眼,以牙还牙”的公平报应要高出许多。主好像在告诉我们:“单凭你们自己的义无法进天国,但我带来了一个新世界——爱、怜悯与宽容掌权的世界,这才是律法真正的目的地。”他把这个时代比作“恩典时代”或“新天新地”,进入这个时代的人,不再遵循报复的逻辑,而要接受一种全新的生命准则。

在此,张大卫牧师引用了旧约中“该隐和亚伯”的例子。该隐因献祭之事向上帝发怒时,上帝警告他说:“你为何发怒呢?罪正伏在门前,它必恋慕你,你却要制伏它。”但该隐没能压制怒火,最终杀死了亚伯。这是“无律法时代”的极端暴力悲剧,也显现了人性罪恶的深度。尽管如此,上帝仍然来找该隐;在亚当和夏娃犯罪后,上帝也曾向他们呼唤“你在哪里?”虽然人犯罪后相互推卸责任,但上帝依然伸手寻找他们。

关于“上帝为何不直接消灭罪与撒旦?”这类神正论问题,张大卫牧师回应说:“尽管撒旦在世间猖狂,但在耶稣面前终究无能为力;耶稣对撒旦有绝对的权柄,让它出来就得出来,让它进去就得进去。所以若我们真在耶稣里,并照祂的话而行,撒旦就无法恣意妄为。”问题在于人自己放不下罪性,包括“骄傲、嫉妒、无责感”等,这些不断将我们捆绑在“无律法或律法的层次”里。而耶稣则带领我们更进一步,“赦免、释放、愿意自己受损也要让对方活过来”的“新律”才是祂所开的路。

因此,饶恕绝不是“把恶说成善”或无原则的放任,而是“即使我受了亏损,却不以暴力去报复,而是选择‘让其离开’”。耶稣在《马太福音》第18章里,就借着“饶恕七十个七次”的教导和“万他连得的债被免”的比喻来说明这一点。那欠主人“万他连得”巨款的人,被全然免债后,却不肯饶恕欠自己区区“一百银币”的同伴,反而把同伴送进监里。主人就责备他说:“我怜悯了你,你难道不应当照样怜悯你的同伴吗?”张大卫牧师指出,这正是饶恕的关键所在:在人完全无法偿还的罪债面前,上帝已先赦免了我们,我们理当以同样的怜悯之心去对待周围的人。

紧接着他提到《马太福音》第20章“葡萄园工人的比喻”:早上就进葡萄园劳作、一天约定一个银币的人,与只在下午五点进场、干活时间极短却得到相同工价的人之间的冲突。那些辛勤劳作整天的人会抱怨说“不公平”,但园主回答:“我并没有亏待你们;你拿到自己应得的工钱,为何因我对别人施以恩慈就生恶意呢?”这其实是在揭示某种“该隐式的嫉妒”:为何后来的也享受同样的恩典呢?张大卫牧师指出,上帝对人的恩典并非人可以用理性或道德准则来衡量或争执,我们都已经领受了“极大的恩典”,因此不应当计较“为什么那个人也能得到这么多?”在饶恕层面也是一样,即使有人亏欠我们,我们也应在更高的层面接纳、释放对方。这就是耶稣所示范的“父神的心”。

以旧约的报复法来看,这似乎并不“公义”。一般而言,公义就是要分清受害者和加害者,并通过归还或惩罚去维系平衡。然而耶稣所提出的是“我们都像欠了主人万他连得的人,却被无条件赦免了。因而我们也理应学习饶恕他人”的讯息。这不只是某个时刻的“善举”,更是通过每天背诵、默想主祷文来改变我们内心深处与行为习惯的根本教导。过去,我们或许是常常恨人、随时想要报复的存在,但现在我们身为蒙恩者,被呼召走上一条“连仇敌也要爱”的道路。主祷文中的“免我们的债,如同我们免了人的债”就直接昭示了这一点。

张大卫牧师在讲道接近尾声时说:“我们既祈求日用的饮食,却不能止步于此;后面紧接着‘免我们的债,如同我们也免了欠我们债的人’,这里就要求我们在实际生活中实践饶恕。”换言之,若我们得到上帝供应的粮食来维持生存,那么接下来就当以这份生命力去饶恕别人,将他们释放,并更大程度上效法耶稣“牺牲式的饶恕”。耶稣成全了律法,打开了更广更深的宽容世界,并呼唤我们“进入这丰盛的世界”。


3. 上帝的绝对

最后,张大卫牧师进一步拓展“新律”和“新时代”的神学与属灵含义。他说:“在我们所处的时代,科技发展和各种变化似乎日新月异,但真正的转变还是要从人的内心与价值观开始。”即使未来人类能登陆火星,或拥有在地球任何地方都能即时通信的高科技,这些依然无法改变“人的罪性”。因此,尽管传福音很重要,但若传完福音,人依然拒绝“饶恕与宽容的世界”,那么争斗、嫉妒、暴力与逼迫仍然会继续。然而主的心意是“直到世界的末了,福音都要被传扬”。而这福音的核心正是“饶恕”与“和好”。

对于孩子常问的“为什么看不见上帝?”这一类问题,张大卫牧师从上帝的绝对性着眼:因为上帝可以看见一切上下、左右、前后所有方位,而我们却只是相对的,无法以相对的视角看见绝对的神。这意味着上帝并不与我们处于同一层级,也意味着无论我们往哪个方向走,上帝的绝对性都不会改变。他还提到,在后现代主义或宗教多元化的时代,人们常说“世上并无绝对的价值”,但实际上,一旦失去绝对,人的生命意义很容易失衡并流于迷茫。而对信徒而言,上帝或上帝的话语就是那绝对的尺度,祂在我们心中作王。

由此,他得出结论:“如果我们真认识到这位绝对的上帝、充满爱的上帝,为什么还不能饶恕他人呢?”张大卫牧师指出,这正是主祷文呼吁我们“求并实行饶恕”的理由:当我们穿上了天父毫无保留的爱与恩典,也当以同样的心肠去包容他人。就如亚当与夏娃互相推诿,或该隐因嫉妒亚伯的祭物而导致的悲剧,在我们心中其实仍残留着这样的罪性。而耶稣之所以来,就是为了拯救罪人,让“看哪,神的羔羊,除去世人罪孽的”(约翰福音1章29节)这句话真正应验在我们身上。

他也提到,在教会里常因教义分歧(如“加尔文主义与亚米念主义”)而引发争执,对此,他引用《罗马书》第14章的原则:“刚强的不要轻看软弱的,软弱的也不要论断刚强的。”因为我们都是在上帝极大的恩典中被拣选,同时也需要在个人救恩上谨慎负责的人。探讨教义的根本在于“上帝主权的恩典”与“人的责任”这两大框架。但最终我们应该紧紧抓住的真理核心还是:“上帝无条件地爱了我们,为我们免了无法偿还的债;因此,我们也要饶恕并接纳他人。”正如《马太福音》第20章“葡萄园工人”的比喻,或《路加福音》第15章“浪子回头”的比喻展现的那样,上帝的善远超我们的想象。我们往往像那位埋怨“为什么他也配得同样恩典”的工人,或像另一个责怪父亲“为何为这个浪费钱财的儿子大摆筵席”的哥哥,其实这才是真正的“该隐式”心态,是在拒绝主所描述的“新世界”。

因此,在主祷文中,耶稣教导的饶恕不是可选项,而是所有基督徒生命中不可或缺的具体实践。“正如上帝已免了我们的债,我们也要免去那些欠我们债的人。”不要将“把欠债的人关进监狱以实现公平的律法式正义”作为终点,而要记得“我自己也曾背负无法偿还的大债,是何等蒙了恩典”的谦卑,去用更大的爱来饶恕别人。张大卫牧师总结道:“这才是真正符合上帝心意的做法。”过去的律法在“以眼还眼,以牙还牙”层面止步,但耶稣则呼召我们“爱你的仇敌”。我们受了这个呼召,就当在日常祷告中始终把“饶恕”视为重点,从自己开始放下委屈与愤怒,走上主所示范的牺牲之爱之路。

我们谈到“已经进入新时代、恩典时代”,其含义就在于这是一个“以饶恕、和好、爱”为代表的时代,不再满足于以等量报复来寻求平衡,而是在耶稣舍己爱人的榜样中,我们也甘愿付出更多,以挽回并拯救别人的生命。耶稣没有定那行淫妇人的罪,而是只说“去吧,不要再犯罪了”,也为所有罪人敞开了悔改与恢复的路。同样,我们的日常生活要不断回顾这一信息,努力践行“有人打你的左脸,就把右脸也转过来给他”的教导。

纵观整篇讲道,张大卫牧师不断提醒我们:“亚当、该隐那样的软弱、自私、暴力倾向依然潜藏在人里面;然而因耶稣的宝血和恩典,我们已经成为新造的人,理应在思想和态度上彻底更新。”在他看来,即使科学技术飞速发展,世界似乎在不断翻新,但只要人的内心仍被“骄傲、嫉妒、愤怒、憎恨”捆绑,就不会有真正的和平。他强调,能将一切变为“新天新地”的,唯有上帝,而在那新天新地里,最关键的原则就是“饶恕与爱的律”。这才是社会与人心得到根本改变的关键。

归根到底,主在地上教给我们的法则是:“正如上帝先爱了我们、先饶恕了我们,你们也当如此行。”我们凭自己无法做到,但主应许会藉着圣灵帮助我们。《罗马书》第8章所言“圣灵用说不出来的叹息为我们代求”便是上帝大能的证明,主祷文同样能在圣灵里使我们的祷告生活更加丰盛。我们需要“求日用的饮食”,也需要同样依靠主的恩典来“饶恕”。如此,当我们顺服主的教导生活时,我们的祷告才能真正结出果子:“愿上帝的名被尊为圣,愿上帝的国降临,愿我们所需的日用饮食得以供给,也愿我们彼此之间因饶恕而更加与上帝和好”。

张大卫牧师在总结时呼吁,每次背诵主祷文时,都要重新默想“上帝的荣耀与国度”、“我们生存所需”,以及“彼此饶恕”这几大重点。确立基督徒的身份与目标,并在实际生活中操练爱仇敌和宽容,这才是真正的灵命成熟。每天重复主祷文时,带着“主啊,今天谢谢你赐给我所需的粮食,也求你帮助我把得到的爱与饶恕同样分享出去”的心志活着,我们就能成为主所展示的“新世纪”、“充满恩典与爱心与饶恕”的工人。基督信仰的核心并不是履行单纯的宗教责任,而是让我们以神的心看待世界,并活出那份心肠。

因此,在主祷文的脉络下,饶恕是我们信仰生活中不可回避的根本课题。它并非按照律法标准去执行复仇或公平,而是遵照耶稣开启的更高层次的义——“主怎样饶恕了我们,我们也要怎样饶恕他人”的生命态度。这样的生命态度不但是“效法神的性情”,也是通往主祷文所教导的“尊神的名为圣、寻求神的国度、祈求日常所需并互相饶恕,进而与神更加和好”的重要钥匙。正如张大卫牧师所强调,这也需要每个信仰群体在一次又一次背诵主祷文时,都要铭记这份深意,并在日常中不断实践。愿我们都能如此行。阿们。

主の祈りと赦し – 張ダビデ牧師


1. 祈りの題目と順序

張ダビデ牧師は、主の祈りに込められた意味を一つひとつ思い起こす過程を通して、なぜ私たちが祈るべきなのか、どのように祈るべきなのかを具体的に説明する。まず彼は「私たちが祈るには明確な目的と順序がある」と強調し、主の祈りの冒頭部分で2つの祈りの題目が先に挙げられている事実を指摘する。その2つとは、「神の御名があがめられること」と「神の御国が来ること」を求める祈りである。これら2つは「人間が存在する目的」であり、「私たちが生きる目的」であると同時に、私たちの人生が神に栄光をお返しする生き方、そして神の国をこの地上に広げる生き方へと導くものであると説く。しかし私たちは有限で無知ゆえ、ときに何を願うべきかさえ分からなくなる。そうしたときにこそ、主の祈りはイエス様が自ら私たちに教えてくださった祈りの手本であり、一つの枠組みとして大きな助けになるという。

張ダビデ牧師は、主の祈りが単なる“暗誦祈祷”ではなく、“祈りとは何か”を身にしみて学ばせる非常に重要な祈りだと述べる。多くの人は、祈りとは何か、あるいは神の前で何をどのように願うべきかを知らず、漠然と同じことを繰り返してしまったり、日常の些細な必要だけを並べ立てて終わってしまうことが多い。しかし主の祈りを正しく理解し、絶えず黙想するならば、「まず神の栄光と神の国を求める」という大きな枠組みがはっきりし、そのうえで私たちの生活に必要な糧やさまざまな必要をバランスよく願うことができるようになるのだという。

彼はローマ8章の「私たちは何を祈るべきかを知りませんが、御霊(聖霊)が言いようもないうめきをもってご自身でとりなしてくださる」という御言葉を引用し、人間は弱い存在であるゆえ、祈りそのものも聖霊の助けが必要だと力説する。異言や通訳などの賜物はその一つの形であり、神と私たちのコミュニケーションを助けてくれるが、同時に自分の理性を開いて理解できる言語で祈ることも大切であると述べる。「異言が、自分の知らない祈りを神にささげられる素晴らしい賜物だとすれば、理性と感情と意志を込めて正確に神に祈ることができるなら、さらにすばらしい」といった理解が必要だということだ。第一コリント14章19節の「一万語異言で話すよりは、五語を悟りの心で話すほうがよい」という聖句を例に挙げながら、自分が何を願っているのか、その意味は何かを認識して行う祈りのほうが、より有益となる場合があると教えている。

このように張ダビデ牧師は、主の祈りの奥深い構造と意味を丁寧に見ながら、第一と第二の祈りの題目である「神の御名があがめられ、神の御国が来ること」を求めるに続き、「日ごとの糧」を求める箇所まで既に考察してきたと語る。私たちのあらゆる必要を満たしてくださるのは神であり、「求める者に報い、願う者に与えてくださる良い神」であるから、信仰をもって祈るべきだと伝える。マタイ7章9~10節でイエス様が「子がパンを求めるのに石を与える者がいるだろうか。魚を求めるのに蛇を与える者がいるだろうか」とおっしゃったように、神は私たちに最善を与えてくださるお方であり、その方を信頼して祈るのは正しい姿であると論じる。

しかしここでの祈りは、ただ願望を並べるだけではなく、「神がどのようなお方か」を正しく知ることが大前提だと強調する。張ダビデ牧師は「人々が神を信じない最大の理由は、神が本当に善良なお方であることを知らないからだ」と指摘する。人間は相手が自分に継続的に善を施していると知覚したときに好意を抱くが、幼い子供が最初に「自分にとっての良い人」と認識する代表が母親であるように、霊的次元でも神を十分に知らないゆえに信じられない場合が多いという。だからこそ教会や家庭において、まず「神は本当に良いお方」であると教えることが重要なのだと力説する。賛美の中にも「良い神様(良き神)」という表現があるように、神は私たちを食べさせ、着せ、洗ってくださるお方というイメージを身近に受け入れられるよう助ける過程が必要だというわけである。

さらに張ダビデ牧師は、イエス様に弟子たちが「私たちはどのように祈ったらよいのでしょうか」と尋ねた場面に注目する。すべてのユダヤ教や他の宗教にもそれぞれ祈りの伝統とスタイルがあるからこそ、バプテスマのヨハネの弟子たちのように、イエス様の弟子たちも祈り方を学ばねばならなかった。イエス様が直接教えてくださった“主の祈り”こそ、私たちの祈りの最も完成された要約版であり、あらゆる祈りの骨子が内包されていると彼は強調する。主の祈りには、神を崇めること、私たちの生存に欠かせない日ごとの糧を求めること、そして自分と他者の罪を赦すことが含まれている。そしてまさにこの「赦しを求め、与える祈り」が今回取り上げる核心的テーマだというのである。

張ダビデ牧師は、「赦し」が主の祈りの順序の中で「日ごとの糧を求めたあと」に続くという事実を、非常に重要な文脈だと説明する。人間が生きるうえで糧を与えられ満たされた目的は、最終的に赦しと愛の実践へつながらなければならないという。神から糧を豊かに与えられる「信仰者」が次に踏む段階とは、必然的に「他者を赦し、自分自身も赦される」行為であることを暗示しているのだ。主の祈りにはこのように段階的な構造が備わっているため、ただ暗誦して終わらず、その内容と意味をじっくりと噛み締め、適用すべきだと牧師は繰り返し促す。

ここで彼は説教の中で姦淫の女の物語(ヨハネ8章)にすぐさまつなげて、赦しの重要性を語る。当時、律法を掲げる者たちが「この女を石打ちにするのが正しいのか、そうでないのか」とイエス様を試みたとき、イエス様は黙って地面に何かを書きつけておられた。張ダビデ牧師は、イエス様が地面に書き記された内容こそ「新しい義と新しい法」だったのではないか、と解釈する。イエス様は決して律法を無視されるお方ではなく、むしろ律法を完成し、一段高い次元へと引き上げられるお方だ。律法が罪人に下す定罪をただ延々と猶予したり、もみ消したりするのではなく、「罪のない者がまず石を投げよ」と仰せになり、人々自らが自分の罪を省みるように促された。そして最終的に彼らは石を置いて立ち去り、イエス様と女だけが残ったとき、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と仰って、その女を“解き放つ(立ち去らせる)赦し”を示された。ギリシア語の原語で「赦し」が「解き放つ、送り出す」という意味を持つように、イエス様は律法の枠組みが命じる処罰を超えて、新しい次元の義を宣言されたのである。

これこそ主の祈りに示される赦しの核心であり、「七の七十倍までも赦しなさい」というイエス様の教えとも通じるものだ、と彼は言う。私たちは互いを罪に定め、怒って石を投げる前に、まず自分自身の罪を振り返り、「神の前で多くの罪を赦された私が、どうして他人を罪に定められるだろうか」という気づきが必要なのだ。そしてイエス様が完成なさったその“新しい義と法”を実践するために、赦しを与えなければならない。張ダビデ牧師は「姦淫した女や、殺人者、盗人、強欲な者さえも、神はこれほどまでに愛し、イエス様はそれを身をもって示された。私たちもこの父の心、寛容の心を持つべきだ」と繰り返し説く。そしてこの順序が主の祈りにも自然に組み込まれているのだと語る。

さらに「罪を犯した者を断罪するのは、一見すると正義のように見えるが、イエス様の教える“新しい義”は、より高い次元の愛と赦しにある」と強調する。「罪人をむやみに許容してもいいのか」という律法的視点から抜け出し、律法を超越して、その究極的目的地である“愛と寛容”に到達する。神が人間にお与えになった「行うべき正しさ」を完成する姿がイエス様のうちに現れている。律法を廃するのではなく、その根本である「神の心」に達する道こそ赦しである、というわけだ。そしてこの赦しは一度きりですべて完結するのではなく、再び罪を犯さない生き方、受けた恵みを流し出す実践のなかで本格的に表されていくのだと、張ダビデ牧師は説く。


2. 律法を超える

続いて張ダビデ牧師は、「赦し」という核心的概念とあわせて、人間が旧約の律法のもとに生きてきたところからイエス様によって新しい恵みの時代へと招かれた点を強調する。まず彼は、律法の時代に先立つ無法の時代があり、その後に律法が与えられ、そして今は恵みの時代が到来したと解説する。律法が与えられた目的は、罪を罪として自覚させ、社会的平等(equality)と秩序を守ることにある。たとえば出エジプト記21章、レビ記24章、申命記19章などにある「目には目を、歯には歯を」という報復法は、罪に相応した報いを与えることで天秤を釣り合わせ、社会の平和をもたらそうとする意図がある。つまり「法は平等と正義を目的とし、その結果社会的平和をもたらす」ということだ。

しかしイエス様は、この律法を超える新しい次元を宣言される。「悪人に手向かうな。右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ。1マイル行かされるなら、共に2マイル行け」と語られる。これは「目には目」という正当な報復によってバランスを取るレベルよりはるかに高い段階だ。主は「あなたがた自身の義によっては決して神の国に入ることはできないが、わたしがもたらした新しい世界、すなわち愛と慈しみ、寛容が支配する世界がある。その世界こそ真に律法が目指す最終地点なのだ」と教えておられる。その時代を「恵みの時代」あるいは「新しい天と新しい地」にたとえ、この時代に入る者は、以前の報復原則ではなくまったく新しい生き方の原理に従うべきだというわけだ。

ここで張ダビデ牧師は、旧約に登場するいろいろな出来事、とくに「カインとアベル」の物語を引き合いに出す。カインが捧げものを巡って神に怒りを向けたとき、神はカインに「なぜおまえは怒っているのか。罪は戸口でおまえを待ち伏せしている。おまえはそれを治めるべきだ」と警告された。結局、カインは怒りを抑えられずアベルを殺してしまう。これは律法以前の無法の時代がもたらした最悪の暴力的結果であると同時に、人間の罪深さがいかに根深いかを示すエピソードでもある。それにもかかわらず、神はカインを見捨てずに探し出し、またアダムとエバが罪を犯したときも「おまえはどこにいるのか」と問うて探しに来られる。すなわち、人間が恥ずかしく卑怯にも罪をなすり合うような状況に陥っても、神は依然として彼らに手を差し伸べておられるのだ。

張ダビデ牧師は「なぜ神は罪やサタンを放置しておられるのか?」という神義論的な問いに対して、「サタンがいくら荒れ狂っても、結局イエス様の前ではどうすることもできない。イエス様はサタンに対しても『出て行け』と仰せになれば出て行くしかなく、『入れ』とおっしゃれば入らざるを得ない絶対的権威を持っておられる。それゆえ私たちがイエス様のうちにとどまり、主の御言葉どおりに生きていれば、サタンは勝手に手出しできない」と説く。問題は人間自身が罪深い本性、つまり「高慢やねたみ、嫉妬、無責任」を捨てきれない点にある。そしてこの罪性が絶えず私たちを無法または律法の段階に留めようとするが、イエス様はさらに一歩進んで「赦し、解き放ち、自分が被害を負うことになっても相手を生かしてあげなさい」という“新しい法”をくださったのだ。

こうして見ると、赦しとは決して「悪を善とみなす」ことではなく、「自分が損をしても暴力的な仕返しをせず、解き放し、送り出す選択」のことだとわかる。このときイエス様は私たちに「七の七十倍までも赦しなさい」と具体的に語り、マタイ18章の「一万タラントを帳消しにしてもらった者」のたとえを挙げて説明している。一万タラントの借金を免除してもらった者が、自分に百デナリの借金がある仲間を赦さず牢に入れたとき、主人は「わたしがおまえをあわれんでやったのだから、おまえも仲間をあわれむのが当然ではないか」と叱責する。張ダビデ牧師は、このくだりこそ赦しの核心だと語る。人間は神の前で到底返済できない借金(罪)を帳消しにしていただいた存在なのだから、周りの人たちにも寛容を施すべきだ、というのである。

さらに張ダビデ牧師は「朝早くから一日分の賃金(一デナリ)を約束されて働いたのに、夕方5時に来てほとんど仕事をしていない者が自分と同じ賃金を受け取ったらどう思うか?」という、マタイ20章のぶどう園の労働者のたとえ話にも言及する。朝から働いた者が不満を言うと、主人は「あなたが受け取るべき賃金を払うと約束したのだ。なぜわたしの善を悪いと言うのか?」と答える。これは「なぜ遅く来た者にも同じ恵みを与えるのか?」と不平を述べる、ある種の“カイン的な妬み”を戒める物語である。張ダビデ牧師は「神が人間に施される恵みは、人間が計算し査定できるものではない。それほどまでに私たちは‘神の驚くべき恵み’を受けていることを思い出すべきなのだ」と強調する。つまり「赦し」とは、借りがある者や自分に危害を加えた者がいたとしても、その人を抱きとめて解き放す次元へ進むことを意味する。それこそがイエス様が新しい義として示された「父の心」なのだ。

旧約的な報復概念から見れば、これは不当にも思えるかもしれない。正義とは被害者と加害者の区別を正確につけ、奪われたものを取り返し、しかるべき処罰を通じて釣り合いを取ることだと考えられるからだ。しかしイエス様が示された道は「私たちはみな一万タラントの借金を負った者と同じである。それにもかかわらず無条件に赦してくださる神を見習うべきだ」というメッセージである。これはある瞬間の「いい行い」では終わらず、主の祈りを毎日暗誦し黙想することで私たちの根本的な姿勢を変えていく教えである。常に誰かを憎み、仕返ししようとする存在だった私たちが、今や恵みをいただいた者として「敵さえも愛する道」へと招かれている──この事実が主の祈りの「赦し」の箇所に明確に示されているのだ。

張ダビデ牧師は説教の結びに「日ごとの糧を求めるだけで終わるのではなく、すぐ後に続く『私たちに負い目のある者を私たちが赦しましたように、私たちの負い目をも赦してください』というところで、赦しの生活を具体的に実践しなければならない」と語る。これは糧を与えられて生きる者なら、その命の力をもって他者を受け入れ、解き放し、さらにイエス様の“犠牲的赦し”に倣わなければならないという意味だ。イエス様は律法を完成され、より広く深い寛容の世界を開かれた。「今やその豊かな世界の中で生きよ」と命じておられるというのである。


3. 神の絶性と愛

最後に張ダビデ牧師は、この「新しい法」と「新しい時代」がもたらす霊的・神学的意味をさらに広げて語る。彼は「私たちの時代にも驚くべき技術発展や変化が起こっているが、本当の変化は人間の心と価値観から始まる」と言う。火星に人を送るとか、世界中どこでも通信可能になる衛星を打ち上げるといった未来技術の話は確かにすごいが、いかなる技術をもってしても「人間の罪性」を変えることはできない。同時に、すべての人に福音が伝えられるのが望ましいとはいえ、福音が伝わった後でも「赦しと寛容の世界」を受け入れなければ、争いやねたみ、暴力や迫害が依然としてなくならない可能性がある。だが主は「世の終わりまでに」福音が述べ伝えられることを望まれ、その福音の核心には「赦し」と「和解」があるのだと説明する。

また、「神は見えない」という子供のような疑問に対しても、神の絶対性を説く。神は上や下、左右、前後すべての位置から見ることができる絶対者であるがゆえに、相対的な位置にいる私たちからは神を直接見ることができないという理屈である。これは神が私たちと同じレベルの存在ではなく、私たちがどの方向に動こうと神の絶対性は変わらないことを意味する。続けてポストモダニズムや宗教多元主義の時代において「絶対価値など存在しない」という主張が増えているが、実際には人間は絶対がなければ人生の根本的な意味を見失い彷徨うしかないと指摘する。信仰者にとっては、その絶対的基準こそ神、あるいは神の御言葉であり、神は人間の中心で私たちを支えてくださるお方なのである。

そうであるならば、「この絶対なる神、愛なる神を本当に知り悟ったなら、どうして他者を赦せないだろうか」という結論に至る。張ダビデ牧師はまさにこの点こそ、「主の祈りの中で赦しを求め、実践せよと命じられる理由」なのだと力説する。天の絶対者である父が私たちに注いでくださった愛と恵みを受け取ったのならば、私たちも同じ心でほかの人々を受け入れ赦すべきなのである。アダムがエバを責め、エバが蛇を責めるような卑怯さや、カインがアベルへの嫉妬を募らせ遂には殺害に至ったような姿は、私たちのうちにいまだ残る罪の性質を象徴している。イエス様はそうした罪性にもかかわらず、罪人を回復させるために自ら来られ、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)として十字架への道を歩まれたのだ。

彼はさらに「カルヴィニズムとアルミニアン主義」のように教理上の対立が教会内にしばしば起こることにも触れ、ローマ14章の原則を示して「強い者も弱い者も互いに批判せず、兄弟を侮ってはならない」と念押しする。なぜなら私たちは皆、神の大いなる恵みによって選ばれた存在であると同時に、自分の救いのために誠実に応答すべき存在でもあるからだ。こうした教理的問題は「神の主権的恵み」と「人間の責任」という大枠の中で捉えるべきだが、結局私たちが最も本質的に握るべき真理は「神が私たちを無条件で愛し、大きな負債を帳消しにしてくださったのだから、私たちも他者を赦し、受け入れなければならない」という命令に尽きる、と語る。マタイ20章のぶどう園の労働者のたとえやルカ15章の放蕩息子のたとえを見ると、神は人間の理解をはるかに超えるほどの善をもって私たちに接しておられる。私たちは恵みを受けていながら「なぜあの人にまで同じ恵みを与えるのですか」と文句を言いがちだが、それこそがカイン的態度であり、主が示された「新しい世界」を拒否することなのだ。

結局、主の祈りでイエス様が教えてくださった赦しは、すべての信者の人生において選択の余地のない必須の実践である。「神が私たちの罪を赦してくださったように、私たちも私たちに負い目のある人を赦す」。負い目のある人を牢に入れて律法的正義で帳尻を合わせるのではなく、自分がすでに返しきれない大きな借金を免除された者だと思い出すへりくだりをもって、より大きな愛を示す――これこそ赦しの核心であると張ダビデ牧師は述べる。「これこそが神の御心」である。かつて律法は「目には目、歯には歯」として報復によって釣り合いを取る段階を保っていたが、イエス様は「敵をも愛せ」と命じる言葉で私たちを招かれる。この招きを受けた者は、日々祈るときごとに「赦し」を重要なテーマとし、まず自分自身が理不尽さや怒りを手放し、主が示された犠牲的愛の道を歩まなければならないと張ダビデ牧師は解き明かす。

私たちが信仰のうちに「新しい時代、恵みの時代」に入ったといえるのは、それが赦しと和解、愛によって表される時代だからだ。もはや自分を傷つけた人に正当なレベルの仕返しをして満足するのではなく、イエス様の犠牲を倣って、たとえ自分がより多くを差し出すことになってもその人を生かし、その魂を救おうとする思いを抱くべきだ。イエス様は姦淫の女を罪に定めず、「もう罪を犯してはならない」と告げられただけではなく、すべての罪人に手を差し伸べ、悔い改めと回復の道を開いてくださった。私たちの日常もまた、そのメッセージを繰り返し思い出し、「右の頬を打たれたら左も向けなさい」という主の言葉を現実の生活で適用してみる練習の場になっていかなければならない。

張ダビデ牧師は説教を通して、「アダムやカインのような卑怯さや暴力性が今なお人間の中に流れているが、イエス様の血潮と恵みによって私たちは新しい造りとされた以上、その考え方と姿勢を一変させるべきだ」と促す。一方で科学技術の進歩が速く世界が大きく変わっていくように見えても、人間の心の中心にある「高慢やねたみ、怒りや憎しみ」が解決されなければ、決して真の平和は訪れないという事実を指摘し、すべてを「新しい天と新しい地」に造り変えてくださるのは神だけであり、その新しい天と新しい地で究極的に実現する核心の価値こそ、赦しと愛の法であると繰り返し強調するのである。

最終的に、この地上において主が教えてくださった法は、「神が先に私たちを愛し、赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」という命令に集約される。私たちの力だけでは困難だが、主は聖霊によって私たちのうちにその道を成し遂げるよう助けてくださる。ローマ8章の「御霊(聖霊)が言いようもないうめきで私たちをとりなしてくださる」という御言葉は、私たちが弱いときにも神が助けてくださる証拠であり、主の祈りもまた聖霊のうちで私たちの祈りの生活を豊かにしてくれる根拠なのだ。私たちが日ごとの糧を求め、その糧によって今日を生きることができるならば、赦しも同じ祈りの力によって成し遂げられなければならない。こうして主の教えに従って生きるとき、私たちの祈りは初めて「神の御名があがめられ、神の御国が到来し、私たちの必要な糧が与えられ、互いを赦すことによって神とのいっそうの和解に至る」という真の実を結ぶようになるのだ。

張ダビデ牧師は以上をまとめながら、主の祈りを唱えるたびに「神の栄光と御国」、さらに「私たちの生存」、そして「お互いの赦し」を重ねて黙想するよう勧める。キリスト者としてのアイデンティティと目的を確立しつつ、同時に日常生活のなかで敵を愛し、寛容を身につけていくことこそ真の信仰の成熟なのだと説く。毎日主の祈りを繰り返しながら「主よ、今日も必要な糧を与えてくださりありがとうございます。そして私が受けた愛と赦しを、今度はほかの人へ流せますように」という心で生きるとき、私たちはイエス様が示してくださった新しい時代、すなわち恵みと愛と赦しに満ちた時代の働き手となることができる。キリスト教信仰の核心は、単なる宗教的義務ではなく、神の御心を抱いて世界を見つめ、その御心を実践するところにあることを、彼は改めて呼び覚ましている。

結論として、主の祈りの文脈の中で語られる赦しは、私たちの信仰生活において必ず押さえておくべき根本的課題だ。それは律法の基準で報復の正義を執行するのではなく、イエス様が開いてくださったより高い次元の義に従って「主が私たちを赦してくださったように私たちも他者を赦す」という生き方を意味する。そしてこの姿勢は、神の御品性にあずかる道であり、主の祈りに示された「神の御名をあがめる生、神の御国を求める生、日々の糧を願いながら生きる生」を完成に導く重要な鍵となる。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、信仰共同体が主の祈りをいくら暗誦しても、その深い意味を忘れず、日ごとに実践していくことこそが、主の祈りの真髄を生きる道なのである。

The Lord’s Prayer and Forgiveness – Pastor David Jang


1. The Purpose and Order of Prayer

Pastor David Jang offers a detailed explanation of why and how we should pray by reflecting on the meaning of each part of the Lord’s Prayer. He first underscores that “there is a clear purpose and sequence in our prayers” and highlights that, at the very beginning of the Lord’s Prayer, two prayer topics are mentioned. The first is that God’s name would be hallowed, and the second is that His kingdom would come. He stresses that these two points are “the purpose for which human beings exist” and “the reason we live”: our lives should glorify God and expand His kingdom on earth.

Yet we are finite and ignorant, sometimes not even knowing what to ask for. At this point, the Lord’s Prayer serves as a model and framework for prayer, personally taught to us by Jesus.

Pastor David Jang points out that the Lord’s Prayer is not just a “memorized prayer,” but rather an extremely important prayer that helps us internalize how to pray. Many people do not really know what prayer is or how to petition before God, so they end up repeating themselves vaguely or merely listing everyday needs, then stop. However, if one understands the Lord’s Prayer properly and continually meditates on it, one clearly gains the broad framework of “first seeking God’s glory and His kingdom,” after which one can also ask for the daily bread and other necessities of life in a balanced way.

He cites Romans 8—“We do not know what we ought to pray for, but the Spirit Himself intercedes for us through wordless groans”—to emphasize that because humans are weak, even our praying requires the Spirit’s help. Speaking in tongues or the gift of interpreting tongues is one form of that help, aiding communication between us and God. At the same time, praying in a language we can understand is also important. He suggests that we view the matter like this: “If speaking in tongues is an amazing gift that allows me to pray to God beyond my own understanding, then being able to pray precisely with my own intellect, emotions, and will is also a great blessing.” Citing 1 Corinthians 14:19—“I would rather speak five intelligible words to instruct others than ten thousand words in a tongue”—he teaches that conscious prayer, in which we recognize what we are asking for and what it means, can be even more beneficial.

In this way, Pastor David Jang examines the profound structure and meaning of the Lord’s Prayer. He explains that he has already looked at the first and second prayer topics—“May God’s name be hallowed, may God’s kingdom come”—and then moved on to the section about asking for “daily bread.” He notes that it is God who meets all our needs and that we should pray in faith to “the good God who rewards those who seek Him and provides for those who ask.” Referring to Matthew 7:9–10, where Jesus says, “Which of you, if your son asks for bread, will give him a stone? Or if he asks for a fish, will give him a snake?”, he argues that because God is the One who gives us the best things, it is right to trust Him in prayer.

But here, prayer is not simply a series of wishes. Pastor David Jang stresses that we must first know “who God is.” “The biggest reason people do not believe in God,” he observes, “is that they do not realize how good He truly is.” When humans sense goodwill from someone, it is usually because they have repeatedly experienced that person doing good to them. In the same way that children recognize their mother as the first “good person” in their lives, people often fail to believe in God simply because they do not really know Him. Hence, it is crucial—whether in church or at home—to teach from the very beginning that “God truly is good.” Like the lyrics of “God Is So Good,” we need to familiarize ourselves with the image of God as the One who feeds us, clothes us, and cleanses us.

Pastor David Jang then focuses on the scene where Jesus’ disciples ask Him, “Teach us how to pray,” referencing the fact that every branch of Judaism or other religious groups had their own traditions and styles of prayer—like John the Baptist’s disciples. Jesus’ disciples, likewise, needed to learn how to pray. He emphasizes that the Lord’s Prayer, personally taught by Jesus, is indeed the most complete summary of our prayers, containing the essence of all that prayer should be. The Lord’s Prayer includes glorifying God, asking for our daily bread to sustain our lives, and seeking forgiveness both for ourselves and for others. And this very theme of “asking for and extending forgiveness” is what he identifies as the central topic of the day.

Pastor David Jang finds critical significance in the fact that “forgiveness” appears in the Lord’s Prayer right after “asking for daily bread.” The ultimate purpose of human survival and being provided for is to practice forgiveness and love. Once believers, symbolized by those who receive God’s abundant provision, are filled with that daily bread, the next necessary step is “forgiving others and being forgiven themselves.” Because the Lord’s Prayer follows a structured progression, it is not something we merely memorize; rather, he repeatedly urges that we ponder its content and meaning and apply them.

In his sermon, he connects directly to the story of the woman caught in adultery (John 8) to illustrate the importance of forgiveness. When the teachers of the Law tested Jesus by asking, “Should we stone this woman or not?” He quietly wrote something on the ground. Pastor David Jang interprets that what Jesus wrote was “a new righteousness and a new law.” Jesus does not ignore the Law at all; in fact, He fulfills it and elevates it to a higher dimension. Rather than indefinitely postponing or nullifying the Law’s requirement to condemn sin, He makes people confront their own sin by saying, “Let any one of you who is without sin be the first to throw a stone,” and eventually they all drop their stones and leave. Left alone with the woman, Jesus says, “Neither do I condemn you. Go now and leave your life of sin,” showing a “forgiveness that releases her (lets her go).” In Greek, the word for “forgive” has the meaning of “to let go” or “to set free,” and thus Jesus here declares a righteousness of a new dimension beyond the Law’s demand for punishment.

He explains that this is precisely the core of the forgiveness taught in the Lord’s Prayer and is consistent with Jesus’ teaching to “forgive seventy-seven times.” Before we judge one another and grow angry, picking up stones, we must first examine our own sin and ask, “How can I condemn someone else when I have already had so much of my own sin forgiven by God?” Then, in order to practice the “new righteousness and new law” fulfilled by Jesus, we must extend forgiveness. Pastor David Jang stresses that “God loved even the woman caught in adultery, murderers, thieves, and the greedy,” and Jesus personally demonstrated this. We, too, must possess such a heart of the Father, a spirit of forbearance. He then reiterates that this naturally flows out of the Lord’s Prayer.

Additionally, he emphasizes, “Judging those who have sinned may seem like justice at a glance, but the ‘new righteousness’ that Jesus teaches is on a higher plane of love and forgiveness.” Escaping the perspective of the Law that asks, “Should we keep letting sinners get away with it?” means rising above the Law and reaching its ultimate end goal—“love and forbearance.” Jesus reveals in Himself what it truly looks like for human beings to fulfill the “right” thing God commanded. He does not abolish the Law; rather, the fundamental foundation of the Law—“the heart of God”—is achieved through forgiveness. Such forgiveness does not end after a single act but must be expressed through a life free of further sin, a life that spreads the grace received. Pastor David Jang teaches that this is the real beginning of living the life of forgiveness.


2. Grace That Surpasses the Law

Moving on, Pastor David Jang highlights the theological point that we lived under the Old Testament Law but are now called to a new era of grace through Jesus. First, he explains that there was a period before the Law (the “lawless era”), followed by the period when the Law was given, and now we live in the era of grace. The purpose of the Law was to make people recognize sin as sin and to uphold social equality and order. For example, Exodus 21, Leviticus 24, and Deuteronomy 19 mention the “eye for an eye, tooth for a tooth” form of retributive justice, designed to ensure that the exact damage done was returned so that the scales would remain balanced. “The goal of the Law is fairness and justice, leading to social peace.”

However, Jesus proclaims a new dimension that goes beyond this Law. He says, “Do not resist an evil person. If anyone slaps you on the right cheek, turn to them the other cheek also. If anyone forces you to go one mile, go with them two miles.” This is on a plane far higher than “eye for an eye” and the principle of rightful retaliation. The Lord is telling us, “You cannot enter the kingdom of God by your own righteousness. But I have brought a new world, a world dominated by love, mercy, and forbearance. That is the real destination of the Law.” Pastor David Jang calls this the “era of grace” or “the new heavens and the new earth,” explaining that whoever enters this new era must live by these entirely different principles, not by the old law of retaliation.

Here, Pastor David Jang brings up various examples from the Old Testament, particularly the story of Cain and Abel. When Cain grew angry at God’s response to his offering, God warned him, “Why are you angry? Sin is crouching at your door; it desires to have you, but you must rule over it.” In the end, Cain could not control his anger and killed Abel. This tragedy occurred before the Law, in the lawless era—an ultimate example of violence and a stark display of the depth of human sin. Nevertheless, God comes seeking Cain, just as He sought Adam and Eve when they sinned, saying, “Where are you?” Even though humankind commits sins and tries to hide them in cowardice, God still extends His hand.

Pastor David Jang addresses the theodicy question, “Why does God allow sin and Satan to exist?” by explaining, “No matter how wildly Satan may thrash about, he is powerless before Jesus. When Jesus commands him to ‘come out’ or to ‘go,’ Satan has to obey. Therefore, if we remain in Jesus and follow His Word, Satan cannot recklessly harm us.” The problem is that people themselves will not abandon their sinful nature—pride, envy, jealousy, irresponsibility. This sinful nature tries to keep us bound to a lawless or law-based mindset, but Jesus wants us to go a step further by giving us “a new law” of forgiveness and release, even if it means we suffer some loss, so that the other person can live.

Forgiveness, therefore, is never “calling evil good” but “choosing not to pay back evil by violent means, even if it costs me, letting it go and releasing that person.” Jesus specifically commands, “Forgive seventy-seven times,” and uses the parable in Matthew 18 about the servant who owed ten thousand talents. When the servant whose massive debt was forgiven refuses to forgive his fellow servant who owed him a hundred denarii and throws him in prison, the master rebukes him: “Shouldn’t you have had mercy on your fellow servant just as I had on you?” Pastor David Jang says this is the core of forgiveness. Because human beings have been forgiven a debt (sin) that we could never repay to God, we are obligated to show the same mercy to those around us.

He then mentions the parable of the workers in the vineyard in Matthew 20: “If I contracted to work from early morning for one denarius a day, and someone else who came at five in the afternoon—who barely worked—received the same wage, how would I react?” In this parable, when the early workers complain, the master replies, “Did I not promise you the wage I would give you? Why are you envious because I am generous?” This admonishes the type of “Cain-like jealousy” that resents the generosity shown to someone else. Pastor David Jang explains that God’s grace toward humankind transcends our ability to judge or calculate. We must constantly remember that we have received “incredible grace” from God. Hence, “forgiveness” is about taking that step forward to embrace even those who owe us or who have done us harm. That is what Jesus calls “the Father’s heart,” revealed as a “new righteousness.”

From the Old Testament perspective of retributive justice, this may seem unfair. Justice is normally understood to mean distinguishing the victim from the perpetrator and restoring what was lost or imposing an appropriate punishment to keep the balance. But the path Jesus shows is that “We are all like those who owe ten thousand talents. Nevertheless, God forgave us unconditionally, and we should therefore emulate Him.” This message is not just a “nice thing” but a fundamental teaching that transforms our roots and attitudes when we meditate on and recite the Lord’s Prayer every day. Whereas we used to be people who hated others and sought revenge, we are now recipients of grace, called to “love even our enemies.” And the phrase in the Lord’s Prayer—“forgive us our debts, as we forgive our debtors”—vividly depicts this calling.

Pastor David Jang concludes this portion of the sermon by saying, “It doesn’t end with asking for daily bread. Immediately following that is ‘Forgive us our debts as we also have forgiven our debtors,’ implying we must concretely practice this life of forgiveness.” In other words, if we are people who receive life through the provision of bread, we are then obliged to carry out that life-giving power toward others, releasing and forgiving them, ultimately imitating Jesus’ sacrificial forgiveness. Jesus completed the Law and opened a deeper, broader world of forbearance, commanding us to “live in that abundant world.”


3. The Absoluteness and Love of God

Lastly, Pastor David Jang expands on the spiritual and theological implications of this “new law” and “new era.” He states that while our present age has witnessed astounding technological advancements and transformations, true change starts in the human heart and value system. Sending people to Mars or launching satellites that enable global communication may be extraordinary feats, but no technology can transform the “sinful nature of man.” Although it would be wonderful if the gospel were spread everywhere, even once the gospel is heard, if people do not accept this “world of forgiveness and forbearance,” conflicts, envy, violence, and persecution will continue. However, the Lord has ordained that the gospel be preached “to the very end of the age,” and the core of that gospel is “forgiveness” and “reconciliation.”

He addresses a child’s question, “Why can’t we see God?” by talking about God’s absoluteness: since He can see above, below, left, right, before, and behind simultaneously—He sees all from every vantage point—whereas we are bound by our relative point of view, so we cannot see Him. This is evidence that God is not like us; He is absolute, and His absolute nature does not change no matter which way we move. Then, pointing to postmodernism and religious pluralism, he notes the trend of people claiming, “There are no absolute values,” but argues that humans, without any absolute truth, lose the fundamental meaning of life and drift aimlessly. For believers, that absolute standard is God, or God’s Word, and He is the One who upholds our center.

Once we truly know this “absolute God of love,” the conclusion follows naturally: “How could we not forgive others?” This is the pinnacle of why “we are to both receive and practice forgiveness,” Pastor David Jang insists. Having experienced the love and grace poured out by the heavenly Father, we too must extend the same heart to others. He points out that Adam blamed Eve, Eve blamed the serpent, and sin was passed around in cowardice; Cain murdered Abel out of envy. Those same traits—envy, anger, blame—are still in us. Yet Jesus came to restore sinners despite this nature, walking the path of the cross as “the Lamb of God who takes away the sin of the world” (John 1:29).

He further comments on doctrinal disputes such as “Calvinism vs. Arminianism,” which sometimes arise in churches. Citing Romans 14, he urges believers to “stop passing judgment on one another” and not to “treat brothers with contempt,” because we are all chosen by God’s tremendous grace and are simultaneously responsible to respond faithfully for our salvation. These theological issues fundamentally revolve around “God’s sovereign grace” and “human responsibility.” Yet what we must ultimately hold onto is the basic truth: “God unconditionally loved us and forgave our colossal debt, so we must forgive and embrace others.” Reflecting on parables like the workers in Matthew 20 or the prodigal son in Luke 15, we see how God deals with us with kindness far beyond our comprehension. Even after receiving that grace, we are apt to complain, “Why extend the same grace to that person as well?”—an attitude mirroring Cain. But that is precisely rejecting the “new world” that the Lord revealed.

Therefore, the forgiveness Jesus teaches in the Lord’s Prayer is not optional but essential for every believer. “Forgive our debts, as we also have forgiven our debtors” is not a suggestion but a directive for practical living. Rather than upholding law-based justice that imprisons the debtor to satisfy fairness, the heart of forgiveness is humility, remembering “I too was forgiven an enormous debt,” and thus showing an even greater love. Pastor David Jang calls this “the heart of God.” The Law once maintained a stage of “eye for an eye, tooth for a tooth” retribution, but Jesus invites us to go further—“Love your enemies.” If we have received this invitation, then we must treat “forgiveness” as a central theme in our daily prayers and, starting with ourselves, lay down our grievances and anger, following the sacrificial love of the Lord.

When we speak of having entered “a new era, an era of grace” through faith, it is an era characterized by forgiveness, reconciliation, and love. No longer are we content to “balance the scales” by returning to the offender the measure of harm done to us. Instead, following Jesus’ example, we go beyond what is owed—at our own expense if need be—to save the other person’s life and redeem their soul. Jesus did not condemn the woman caught in adultery; He told her simply to sin no more and personally offered a path of repentance and restoration to all sinners. We should continually recall this message in our daily lives, practicing the words of the Lord: “If someone strikes you on the left cheek, turn to them the right cheek also.”

Throughout the sermon, Pastor David Jang reiterates that although we still carry within us the cowardice and violence of Adam and Cain, we have become new creations through the blood and grace of Jesus and must completely renew our thinking and attitudes. While science and technology rapidly progress and the world seems to undergo sweeping changes, true peace is impossible if “pride, envy, anger, and hatred” remain unresolved in the human heart. Only God can transform all things into “a new heaven and a new earth,” and Pastor David Jang repeatedly proclaims that the key value of that new heaven and new earth is the law of forgiveness and love.

Ultimately, the law Jesus taught on earth can be summed up as: “Just as God first loved and forgave you, so do likewise.” We cannot accomplish this by our own strength, but the Lord, through the Holy Spirit, helps us walk that path. Romans 8—“The Spirit Himself intercedes for us through wordless groans”—demonstrates that God aids us in our weakness, and the Lord’s Prayer also serves as a foundation that enriches our prayer lives in the Spirit. If we rely on this prayer power to obtain our daily bread and live each day, then forgiveness must likewise flow out from the same source of prayer. By obeying the Lord’s teaching, our prayers will bear genuine fruit: “Hallowed be God’s name, His kingdom come, He provides our needs, and we become more reconciled to God by forgiving one another.”

Summarizing these teachings, Pastor David Jang urges us to “meditate again and again on the glory and kingdom of God, our survival, and mutual forgiveness” whenever we recite the Lord’s Prayer. He suggests that real spiritual maturity involves establishing our Christian identity and purpose while also practicing love for enemies and forbearance in everyday life. Reciting the Lord’s Prayer daily with the attitude, “Lord, thank You for giving me the daily bread I need today. Now help me pass on the love and forgiveness I have received to others,” makes us instruments of the new era Jesus opened—an era full of grace, love, and forgiveness. He reminds us that the core of the Christian faith is not just a set of religious obligations but the act of taking on God’s heart toward the world and putting it into practice.

In conclusion, forgiveness in the context of the Lord’s Prayer is a foundational task in the believer’s life. Rather than enforcing the Law’s retributive justice, we pursue the higher righteousness revealed by Jesus: “Just as the Lord forgave us, we too must forgive others.” Such an attitude aligns us with God’s character and serves as the pivotal key that completes the Lord’s Prayer’s blueprint for life: “Exalting God’s name, seeking His kingdom, receiving our daily bread, and reconciling with one another through forgiveness.” As Pastor David Jang emphasizes, this challenge is not merely for rote recitation within the faith community but must be practiced daily, lest we forget its deep meaning each time we repeat the Lord’s Prayer.