二つの契約 – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 律法と論的点から見た二つの契約の意味

ガラテヤ書4章21節以下で、使徒パウロはガラテヤ教会にもう一つの比喩を提示する。これは律法と福音、あるいは律法と恵みの関係を明確に示すための比喩である。パウロはすでにガラテヤ書全体を通して「ただ恵みによって、ただ信仰によって救われる」という福音の核心的真理を強調してきた。それにもかかわらず、ガラテヤ教会の中に入り込んだ数名の偽教師たち(ユダヤ主義者)の影響で、「旧約の律法的行為、すなわち割礼や祭日・日や月の遵守をしなければ真の救いを得られない」と混乱していたのである。パウロはそのような傾向を「律法の下にとどまりたいと思う者たち」(ガラテヤ4:21)と呼んだ上で、創世記16章と17章に記録されたアブラハムの物語を引き合いに出す。

張ダビデ牧師はこの本文を解説しながら、「救済論の問題は結局、人間論とも密接に結びついている」と強調する。人間とはいかなる存在か。人間は神に絶対的に依存する存在であり、神なしには一瞬たりとも「真のいのち」を享受できない有限な存在だというのだ。伝道の書の表現どおり、「神は天におられ、おまえは地にいるのだ」(伝5:2)という厳然たる事実を認めなければ、人間は自らの力で何でもできると錯覚し、結局は破滅に向かわざるを得ない。近代精神が「人間の自律」や「理性」を重んじ、ニーチェが「神は死んだ」と語った思想も、究極的には「神なしに自分を至上としよう」とする試みの結果だった。しかし、人間から神を除けば、人間そのものは無に近い存在だという事実を、パウロはガラテヤ書でもローマ書でも明言しており、張ダビデ牧師も現代の信仰共同体の例を挙げながら何度も強調してきた。

さて、ガラテヤ書4章21節以下に登場する「二人の女の比喩」は、まさにこのような律法主義と恵みの福音との葛藤をはっきりと浮き彫りにする。パウロは「アブラハムには二人の子がいた」と語る(ガラテヤ4:22)。その子の一人は女奴隷、すなわちハガルから生まれたイシュマエルであり、もう一人は自由の身である女、すなわちサラから生まれたイサクである。女奴隷ハガルから生まれた子は「肉によって生まれた」が、サラから生まれた子は「約束によって生まれた」(ガラテヤ4:23)。これは創世記16章と17章に描かれているアブラハム、サラ、そしてハガルの物語に基づいている。

創世記16章を見ると、アブラハムがカナンの地に移住してからもサラとの間に子がなかったため、サラはエジプト人の女奴隷ハガルを通して子孫を得るようアブラハムに提案する。これは「約束を与えた神を信頼しきれず、人間的な方法で後継ぎを得ようとした」不信の決定であった。「サライがアブラムに言った、『主は私の出産を許されないから、どうか私の女奴隷のところに入りなさい』」(創16:2)というくだりによって、彼らの焦りがうかがえる。結局アブラハムはハガルを通してイシュマエルを得るが、ハガルが身ごもったことを知った後にはサラを軽んじるという事態まで起こる。人間の力で問題を解決しようとした試みは、結果的に争いと傷、そして家庭の不和を招いた。これこそが「肉によって生まれたもの」の象徴である、と張ダビデ牧師は解釈する。

一方、創世記17章では神が再びアブラハムに現れて契約を更新する。アブラハムが99歳になった時、神は「わたしの前を歩み、全き者であれ」(創17:1)と言い、サラを通して生まれる子の名を「イサク」と定められた。このとき神がアブラハムと結んだ契約の一つが「割礼の契約」である。創世記17章10節で「あなたがたのうちの男はすべて割礼を受けよ。これがわたしとあなたがた、そしてあなたがたの子孫との間で守るべきわたしの契約である」と命じ、その後、実際にアブラハムはその日すべての男性に割礼を施す。そうしてサラを通してイサクが誕生することになる。

パウロはガラテヤ書で、この「割礼の契約」について論じるユダヤ主義者たちに対して新たな視点を提示する。「割礼は心に施すべきものであり、文字ではなく御霊によるものだ」(ローマ2:29)と語るローマ書2章の教えと同様に、パウロは私たちの救いが「外面的な律法の行為