香油壺を砕いた愛 – 張ダビデ牧師


1.ベタニアのツァラアト患者シモンの家と、香油の壺をいた女性にする

ベタニアのツァラアト患者シモンの家で起こったこの出来事は、四つの福音書すべてにさまざまな形で記録されています(マタイ26:6-13、マルコ14:3-9、ルカ7:36-50、ヨハネ12:1-8)。特にイエス様の公生涯最後の一週間に起こったことで、福音書記者たちにとって非常に重要な意味を持っていました。張ダビデ牧師はこの本文を黙想しながら、一方ではイエス様がどのようなお方であられたのか、そしてもう一方では私たちがどのような愛をもって主に近づくべきかを深く省察させられると強調しています。

まずマルコの福音書14章3節によると、イエス様はベタニアの“ツァラアト患者シモン”の家で食事をしておられました。ギリシャ語本文で「ツァラアト患者」と訳される単語は、旧約聖書で一般に“らい病(leprosy)”を指す言葉と同様に使われていますが、今日の臨床的なハンセン病とはある程度異なる可能性もあります。それでも、伝統的に“らい病”は「汚れたもの」「神から隔離されるべきもの」という象徴性を持っていました。張ダビデ牧師は、ここで注目すべき点として二つを挙げます。

第一に、イエス様は“汚れている”とみなされていた者と喜んで食卓を共にしておられる、ということです。当時のユダヤ社会では、ツァラアト患者は共同体から隔離され、神殿への出入りはもとより、一般の人々と普通に交流することも困難でした。しかしイエス様はそのようなベタニアのツァラアト患者シモンの家で食事をされました。これはイエス様が律法的・宗教的な障壁を越え、人を完全に“愛”のまなざしで見ておられることを示します。張ダビデ牧師は「イエス様がツァラアト患者シモンの家に入り、癒される姿は、まさに福音とは何かを明確に示すしるしである」と解釈します。福音とは神の国の喜ばしい知らせであり、その知らせは罪人や病人、弱い者へと開かれているのです。世の基準では隔離されて当然の人物がイエス様の食卓に加わるという事実自体、すでに福音の現実的な現れだと言えるのです。

第二に、“シモン”という名前の含意です。福音書に登場するシモンという名前は非常にありふれていました(ペテロの元の名もシモン)が、マルコの福音書でわざわざ「ツァラアト患者シモン」と書き記している点が重要です。張ダビデ牧師は、福音書の読者にとって“シモン”という名前は馴染み深いものであり、イエス様の主要な弟子であったシモン・ペテロの名とも結び付けながら黙想します。シモン・ペテロがイエス様の第一の弟子として召された事実は、一方で罪人や病人であっても同じ恵みにあずかれるという福音の原理を象徴的に示しているというのです。当時“らい病”は「神からの裁き」あるいは「霊的な汚れ」と見なされることが多々ありましたが、イエス様はそうしたシモンと食事を共にすることで、彼を“完全に受け入れる”ことを宣言されたのです。張ダビデ牧師は「私たちは皆、霊的にはツァラアト患者だったことを知らなければならない」と語ります。私たちもまた罪と咎によって死んでおり、神の聖さの前では汚れたものでしたが、イエス・キリストの愛によってその食卓に招かれ、共に交わるようになったのだ、というわけです。

このように“ベタニアのツァラアト患者シモンの家”という具体的かつ象徴的な場所で、一人の女性がイエス様のもとへ来て、高価な香油、すなわち純粋なナルドの入った壺を割り、その香油をイエス様の頭に注ぎました(マルコ14:3)。この女性について、マタイは「ある女」と書き、マルコも同様に「ある女」と言及し、ルカは「罪を犯したある女」がパリサイ人シモン(同名の別人の可能性)宅でイエス様のそばに来て泣きながら香油を注いだと伝え、ヨハネはこの女性を「マリア」と明確に名指しします。福音書記者による記録は細部で違いがありますが、核心的には「非常に高価な香油をイエス様に捧げた」という同じ出来事、あるいは類似の出来事を伝え、その女性の行為が持つ愛と献身の意味を深く浮き彫りにしています。

張ダビデ牧師は、ここで「ナルド」という香油の意味に注目します。ナルドはヒマラヤ山脈の高地に生息する植物の根から抽出される高級香油で、当時のパレスチナ地域では非常に希少かつ高価なものでした。したがって、この壺一つを買うには三百デナリオンもの、庶民ならほぼ一年間働いて得るほどの大金が必要でした。ですから、その香油の壺全部を割り、イエス様に惜しみなく注いだということは、その女性が持ちうる“すべて”を差し出したという象徴的な表現として見ることができます。張ダビデ牧師は「主の前でこの女性は最も尊いものを差し出したのだ。彼女はイエス様の差し迫った死と復活、そしてイエス様こそ真の王であることを直感的に悟ったのかもしれない」と解釈します。愛というものは見返りや計算をしません。ただ“惜しみなく与える行為”そのものが愛の本質であると、この出来事は証言しているのです。

このように香油の壺を割ってイエス様に注いだ女性の行動から、私たちは無条件の愛、あるいは“条件のない献身”を見いだします。張ダビデ牧師はこれを指して「真の弟子道はいつも浪費のように見える愛から花開く」と言います。外見的には彼女の行為はきわめて非合理的で、浪費のように映るかもしれません。しかし福音書全体の文脈で見ると、その愛がイエス様の死と復活を予見する預言的かつ象徴的な行為であったとわかるのです。古代近東の文化では、“油を注ぐ”ということは王や祭司など、特別な務めに就く際に行われる儀式でした。彼女は自分の篤い愛をもって、イエス様こそ真の“油注がれたお方”、すなわちメシアであることを宣言したことにもなります。

そしてルカの福音書7章38節では、この女性が涙を流しながらイエス様の足に口づけし、自分の髪の毛でその足を拭う姿が強調されます。これは罪人である自分がイエス様の前に立つことすら恐れ多いと認めつつも、同時にイエス様の聖なる愛を信頼する信仰をもって、自分を最も低い者として献身する態度を象徴しています。張ダビデ牧師は、女性が流した涙に注目し、そこには罪と弱さを抱えていても受け入れてくださるイエス様の憐れみに対する感謝と、同時に深く愛し敬うお方の死を予感する悲しみが入り交じった涙だった可能性があると解釈します。

このように、ベタニアのツァラアト患者シモンの家で起こった香油壺を砕く出来事は、場所自体が持つ意味(汚れた者が癒され、イエス様と共に食事をする)と、女性が示した無条件・絶対的な愛(最も大切な香油を砕いて注ぐ)が絡み合い、イエス様の真なるメシア性と福音の意味を豊かに示しています。張ダビデ牧師は、この愛の出来事こそが福音自体の最も重要な特徴、すなわち条件なしに注がれる愛を表しているのだと強調します。もし私たちの内に計算高く損得を勘定する視線が残っているならば、この女性が見せた愛を「浪費」あるいは「無駄遣い」と見なしてしまう危険があります。しかし福音は「神の愚かさは人よりも賢い」(第一コリント1:25)と宣言し、この世の基準では浪費にしか見えない愛こそが神の知恵であり、救いの力であることを知らせてくれるのです。

結論として、張ダビデ牧師はベタニアで起こったこの出来事を「最も低い場所、最も捨てられた者の家で、最も尊い愛が展開された福音の真髄だ」と語ります。ツァラアトにより隔離されるしかなかったシモンが回復し、主と食事を共にし、罪人とみなされていたある女性がその家で最も高価な香油を砕いてイエス様に仕えました。これこそが福音の現実であり、主は今もこうした愛を探しておられるというのです。そしてその愛は決して計算に基づかず、浪費のように見える、無条件で代価を求めない愛として現れるのだということを、私たちは覚えておかなければなりません。


2.弟子たちとイスカリオテのユダの視点

一方、福音書ではこの香油の壺が砕かれた出来事の直後あるいは途中で、弟子たちの反応とイスカリオテのユダの裏切りが言及されます(マタイ26:8-16、マルコ14:4-11、ルカ22:3-6、ヨハネ12:4-6)。特にマルコ14章4-5節には、香油の壺を砕いた女性に向かって「ある人々が憤って互いに言った、『なぜこの香油を浪費するのか』」という場面が出てきます。マタイ26章8節はこの「ある人々」が「弟子たち」であると具体的に明らかにし、ヨハネ12章4-5節はさらにそれをイスカリオテのユダと特定します。またルカでは、パリサイ人シモンがこの出来事を傍で見ながら、もしイエスが本当の預言者なら、罪深い女が近づくのを許さないはずだと疑う反応を示す場面も出てきます。つまり、香油の壺を砕いた女性の愛を「本当の愛」ではなく、「浪費」あるいは「無駄な熱意」と見る視点が、いくつもの形で福音書に現れているのです。

張ダビデ牧師はこれに対して、「愛を真に経験していない者にとっては、真実な愛の行為がときに『浪費』に見えることがある」と診断します。弟子たちとユダは、毎日イエス様のそばで御言葉を聞き、多くの奇跡を目撃していながら、その愛の本質を完全には悟れなかったのです。特にヨハネ12章4-6節は、ユダが「これを売って貧しい人々に施せばよかったのに!」と語った裏には、実は金入れを預かっていた彼がそこから金を盗もうとしていた邪な意図があったことを明かしています。張ダビデ牧師はこうした場面を指して、「愛の世界に入れない人は、最終的に計算高く利己的な思いをあらわにするものだ」と指摘します。

イエス様は弟子たちの非難に対して、「そのままにしておきなさい。なぜ彼女を困らせるのか」(マルコ14:6)とおっしゃり、女性の行為を大いに喜ばれたこと、そして弟子たちの態度を責める含みを同時に示されます。さらにイエス様は、この女性の行為がご自身の埋葬をあらかじめ備えるものであり、福音が伝えられるところには必ず永久に語り伝えられるだろうと宣言なさいます(マルコ14:8-9)。ここで張ダビデ牧師は重要な問いを投げかけます。「同じ出来事、同じ場面を見ても、なぜある人は天の秘密を悟り、ある人は浪費としか見ないのか」という問いです。その理由は「その心に何が宿っているか」によるというのです。愛に満ちた心を持つ人は、惜しげもなく香油壺を砕いてももったいないとは思いません。しかし愛が冷え、主を仰ぐ視点が打算的になると、すべてが浪費にしか見えず、その中で自分の利益を得る方法ばかりを考えるようになるのです。

イスカリオテのユダは、この出来事の後“決定的な”転換点を迎えます。福音書の記録によると、ユダは祭司長たちのもとへ行き、銀貨三十枚でイエス様を引き渡すことを取り決めます(マタイ26:14-16、マルコ14:10-11、ルカ22:3-6)。ヨハネ13章2節では「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心にイエスを売ろうという思いを入れていた」と書かれています。張ダビデ牧師は、ユダがイエス様を売り渡すに至ったきっかけを深く考えるとき、まさに「香油の壺の出来事」が彼の裏切りを確固たるものにした始まりだと解説します。ユダは、自分が信じて従っていた師が、こんな莫大な“浪費”を許容するのを見て、もはやイエス様が自分の思い描いていた「メシア王国の道」を歩んでいるとは思えなくなったと解釈できるのです。一言でいえば、ユダは「もし本当の指導者なら、こんな財政の浪費を放っておくはずがない。貧しい人を助ける機会をなぜ無駄にするのか?」という自分なりの論理を立てたのでしょう。しかしその裏にはすでに物質への貪欲さが芽生えており、打算的で合理的な枠組みでイエス様の愛と働きを評価していたために、主の御心と愛の本質をまったく理解できないまま、裏切りの道へと進んでいったのです。

弟子たちの中でユダは最も極端に裏切りの道を選びましたが、実際には他の弟子たちも香油の壺を砕いた女性の行動を浪費だと見て咎めました(マタイ26:8)。張ダビデ牧師は、これは私たちにとって重要な反面教師だと言います。人間はイエス様を知って従うと言いながらも、なお愛よりは打算や利益を優先してしまう存在だということです。結局、イエス様が十字架の道を進まれる前に、弟子たちは自分たちのうちで誰が偉いかと論じ合い(ルカ22:24)、主が捕らえられると散り散りに逃げ去り(マルコ14:50)、ペテロは主を三度も否認する事態に陥ります(マルコ14:66-72)。愛の主の前にさえ、自分なりの物差しや利益を手放せない弟子たちの姿は、張ダビデ牧師が繰り返し強調するように「私たち皆の鏡」なのです。

それでも主は、彼らを見捨てにはなりませんでした。主は過越の食事を終えた後、彼らの足を洗い、「自分のものを最後まで愛された」(ヨハネ13:1参照)ことを身をもって示されます。皮肉にも、弟子たちは主への愛と献身を進んで表すことができない状態でしたが、一人の“罪ある女”は全財産とも言うべき香油壺を砕いて主に油を注ぎ、死と葬りの準備までもしたのです。張ダビデ牧師は「愛とは惜しみなく与えることであり、それがときに浪費のように見えても、その中にこそ真の栄光が現れる」という真理をあらためて想起させます。弟子たちの視点は依然として世の論理に縛られ、ユダは貪欲に引きずられて裏切りの道を選びましたが、それにもかかわらず、福音はそんな欠点だらけで弱い人間をも愛する“無条件の愛”を宣言しています。

したがって張ダビデ牧師は、弟子たちやユダの反応を深く黙想しながら「自分の内には、あのような姿はないだろうか?」と自省すべきだと勧めます。長年教会に通い、礼拝にもよく出席し、御言葉をたくさん聞いていても、その心の奥底に打算的で自己中心的な態度が残っているなら、“正しさ”を振りかざしながら、本物の愛や献身を“浪費”だとみなす危険があるのです。そしてその果てには、最も悲劇的な形としてユダのように主を裏切る場所にまで行き着きかねないと警告します。張ダビデ牧師は「主を裏切ることは、ただ表面的にイエスを売り渡すだけを意味しない。教会の中で、あるいは信仰生活において、愛を浪費する心を拒否し、損得勘定ばかりを持ち出すなら、すでに私たちの心の中に愛の主を裏切る種が成長しているのだ」と強調します。


3.福音の核心としての“浪費の愛”

最後に、イエス様が香油壺を砕いた女性の行為をめぐって「全世界のどこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも語られて、この人の記念となるだろう」(マルコ14:9)とおっしゃった言葉に注目する必要があります。これは、女性の行為が福音のメッセージと不可分の関係にあることを意味しています。人間の論理から見れば浪費・無駄遣いのように思える愛こそが、“福音が究極的に目指す姿”なのです。張ダビデ牧師は、これを「福音とは、結局神が私たちのために示された聖なる浪費、すなわち御子を喜んで与えてくださった愛なのだ」と説明します。父なる神は罪人である私たちのために独り子イエス様を惜しまず差し出され、イエス様はご自身を十字架のいけにえとして惜しみなく“浪費”してくださることで、私たちの罪をあがない、救いを贈ってくださったのです。

この「浪費」という視点は、第一コリント1章18節以下でパウロが「十字架の言は滅びる者たちには愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力である」と宣言する箇所とも呼応します。世の価値観から見れば、十字架は理解不能で、とうてい合理的とはいえない“浪費”に近いのです。全知全能の神が、なぜわざわざ人の体を取って来られ、罪人のために死なねばならなかったのか。世の知恵では決して到達できない“神の愛の知恵”がそこに隠されている、と張ダビデ牧師は福音の核心として強調します。女性が壺を砕き、香油をすべて注ぎ出した出来事もまた、「主の前で浪費を恐れない者だけが、真に福音の深みを味わうことができる」という象徴的なメッセージを与えているのです。

したがって、この物語はただ昔のどこかの町で起こった美談というだけで終わりません。今日、私たち一人ひとりの信仰と生活の中で、果たして神への愛がどれほど“すべてを捧げる愛”であり、“浪費と思われるほどの愛”になっているかを問いかけられるのです。張ダビデ牧師は具体例として、私たちの時間や財政、才能、そして献身の姿勢を挙げます。時間を割いて礼拝し、祈り、財産を惜しまず神の国のために用い、才能を神の栄光のために喜んで捧げることは、ときに周囲から「なぜそこまでするのか。ほどほどでいいじゃないか」と咎められるかもしれません。ですが、真実の愛はそうした言葉を聞いても、喜んで主に捧げる場所へと進ませてくれるのです。

張ダビデ牧師は特に、「私たちの礼拝が形骸化したり習慣で終わったりしないためには、香油壺を砕く思いで自分のすべてを主にお捧げすることがまず必要だ」と勧めます。礼拝の時に心を込めて賛美し、祈ることが、誰かには「熱心すぎる」と見えるかもしれませんが、神に捧げる愛の表現は決して無駄にはなりません。宣教や救済に力を注ぐことも同様です。ある人は「なぜそんなに多くのお金やエネルギーを海外宣教に費やすのか。国内にも困っている人がいるのに」と批判することがあるかもしれません。しかし、最終的に福音の本質は全人類に及ぶ神の愛であり、その愛は“地域”や“条件”を超越するので、一方にだけ限定されない“浪費”が求められるのです。

さらに張ダビデ牧師は、香油壺を砕いた出来事にはイエス様の“葬りをあらかじめ準備する”意味があると指摘します(マルコ14:8)。イエス様は間もなく十字架につけられ、罪のいけにえとなられ、復活によって永遠の命を成就されますが、この女性は誰よりもイエス様の“未来”あるいは“運命”を愛の心で見通していたのです。「愛すると未来が見える」という言葉のように、彼女はイエス様を真実に愛していたからこそ、主の死と復活を暗示するものを直感的に感じ取ったのかもしれません。弟子たちが「主よ、そんなことがあってはなりません」と否定したり(マタイ16:22)、十字架の道を知らぬまま言い争っていたとき(マルコ10:35-45)、この女性は宴席に来て香油壺を砕く大胆な従順をもって、イエス様の“真の道”をお汲み取りしたのです。張ダビデ牧師は、この点で「愛は霊的洞察力の鍵」であると主張します。知的理解や神学的知識だけでは分からないイエス様の道を、愛を通して直感し、そこに共に参与できるのです。

さらに今日の教会共同体においても、福音の核心が“浪費の愛”であることを見失うと、弟子たちやユダのように打算的な観点に陥り、互いに非難し合い、争いに巻き込まれやすいと言います。誰がどれだけ奉仕しているか、献金をどれだけしているか、教会活動にどれほど熱心かを比較したり、あるいは誰かの献身に対して「あそこまでやるのはやりすぎじゃないか」と不満を示したりすることもあるでしょう。しかし福音が宣べ伝えられている真の共同体ならば、香油壺を割ってイエス様に惜しみなく注いだ女性を記念せよとおっしゃった主のお言葉のように、互いの献身と愛を喜び合い、一つ心で主に栄光をお返しする姿が自然であるべきです。

張ダビデ牧師は「福音伝播の目的は、単に教勢の拡大や個人の成功ではなく、この“惜しみなく与える愛”を生活で具体化することだ」と語ります。そしてそれこそが最終的に神を崇め、隣人に生き生きと福音を証しする道だというのです。イエス様が一粒の麦として地に落ちて死に、多くの実を結ばれたように(ヨハネ12:24)、私たちも主に倣って自らを“浪費する”決断をするとき、世はキリストの香りを感じ、神の国の現実が示される、というわけです。

結論として、香油壺を砕いた女性の物語は、四つの福音書の記者がそれぞれ違った書き方をしていても、共通のメッセージを伝えています。それは、「神に捧げる愛は決して浪費ではない」という事実です。その愛を失った人々には浪費に見えるかもしれませんが、福音の視点からすると、浪費のように見えるその愛こそが命と救いの源なのです。張ダビデ牧師はこの本文を引用しながら絶えず強調します。「主の十字架は、全能の神が愚かで無意味に見える方法を選ばれた最高の愛であり、その愛を受け入れた者は、喜んで香油壺を砕いて主に香油を注ぐ者とならなければならない。たとえそれが世の目には浪費に見えたとしても、その浪費の中にこそ福音の力が宿っているからだ」と。

私たち各自に与えられた決断は、人生の具体的な場面で“香油壺を砕く勇気”を持てるかどうかという問題です。信仰生活が長くても、依然として打算や理性的判断、損得勘定から自由になっていない場合もあるでしょう。しかしもし私たちが主の十字架の愛を真に体験し、また張ダビデ牧師が言うように「私たちは本来、霊的なツァラアト患者であり、主が癒してくださったのだ」ということを悟ったなら、主に自分の壺を砕いて差し出すことが決して惜しいとは思えなくなるはずです。その壺は私たちの財産かもしれませんし、時間かもしれないし、才能や将来の計画かもしれません。ある人にとっては自尊心や世間的地位かもしれません。何であれ、それを主以上に大切にしているものがあるならば、それを“砕いて”主に捧げる時、その献身こそが最も香り高い礼拝となるのです。

結論として、この第三の小主題で張ダビデ牧師はまとめます。福音とは“愛の浪費”によって完成した神の救いのご計画であり、その救いにあずかる道もまた、私たち自身が喜んで自分を浪費する愛の決断をするところに開かれるということ。そしてその出発点は、「主がまず私のために浪費してくださった」という真実を悟ることにあります。イエス様の十字架こそが最も素晴らしい“香油壺を砕く”出来事だったというわけです。イエス様がご自身のすべてを惜しみなく捧げてくださったからこそ、私たちはその愛を知り、さらにその愛を主と隣人にお返しできるのです。貧しい人、病む人、あるいは教会の交わりの中でもときに自分と合わない人にさえ、私たちは香油壺を砕いて主の香油を注いであげることができます。そしてその愛の献身は決して無駄にならず、福音が伝えられる所では必ず記憶され、記念されるに値すると主ご自身が約束してくださったのです。

ここまで見てきた三つの小主題――(1)ベタニアのツァラアト患者シモンの家と香油壺を砕いた女性についての張ダビデ牧師の黙想、(2)弟子たちとイスカリオテのユダの視点が示す警告、(3)福音の核心としての“浪費の愛”と今日的な適用――を通して、私たちはこの出来事が単なる“感動的な物語”ではなく、福音の精髄を含む重大な宣言であることを悟ります。この香油壺の出来事は、神が私たちに注いでくださる無条件の愛と、その愛の前で私たちがどのような献身を捧げるべきかを明確に示しています。張ダビデ牧師は「神は私たちに問うておられる。『あなたは本当に香油壺を砕く準備ができているか』」と問いかけ、その答えを通して私たちは福音の深みを体験するのだと強調します。そして、答えはすでに与えられています。イエス様が先に私たちのために香油壺を砕いてくださり、その中に注がれた無限の愛をもって私たちを満たしてくださったゆえ、私たちも喜んで香油壺を砕く力を得られるからです。

結局、神の大いなる愛はいつも“浪費のように見えるもの”として現れます。けれども、その浪費こそが世界を生かす命への道なのです。私たちは、弱く打算的な弟子たちやユダの姿を警戒しつつ、同時にベタニアのツァラアト患者シモンのように癒しと受容の恵みにあずかった者であることを忘れてはなりません。そして香油壺を砕いた女性のように感謝と愛をもって主の前に進み、私たちの人生で最も貴重なものを献身の礼拝としてお捧げすべきなのです。これこそが、張ダビデ牧師が本文を通して繰り返し教えている福音の核心であり、信徒が進むべき真の弟子道です。たとえこの“浪費する愛”を「愚かだ」と非難する声があっても、主はその愛を決して退けず、「全世界で福音が宣べ伝えられる所には、あなたのしたことも共に語られるだろう」と約束してくださいました。その約束を握りしめ、私たちは皆、香油壺を砕く生き方を決断する必要があります。

www.davidjang.org