十字架とゴルゴダ – 張ダビデ牧師


1. 十字架の道と贖罪

私たちが福音書を通して見るイエス・キリストの十字架への道は、単なる苦難や処刑の手段としてのみ理解されるものではありません。その道は、イエス様がご自身を「贖いの子羊(いけにえ)」として差し出すことによって、人類を罪と死の権勢から救おうとされる神の救済のみわざであり、すべての罪と呪いを自ら負われた愛の道なのです。張ダビデ牧師は、まさにこの点から、イエス様が十字架を負いゴルゴダまで行かれたその歩みを「私たちに対する完全な贖罪」と位置づけ、それこそが真の聖徒の道がいかにあるべきかを映し出す鏡であると強調しています。

そもそも十字架刑とは、ローマ帝国で最も苛酷な刑罰の一つでした。政治的反逆者や奴隷、または凶悪犯罪者に科される刑であり、「残酷さ」と「恥辱」の象徴でした。ところが神の御子であるイエス・キリストが、この極刑に自ら従われたという事実は、人間の理性では量り知れない神の愛の神秘を示しています。福音書によれば、主が十字架に向かわれる過程は、単に裁判に不服を唱えて無念にも処刑されたという受動的な犠牲ではありませんでした。むしろイエス様は積極的に人々の罪を背負い、律法のもとで罪に定められるすべての者に自由と解放をもたらそうとされたのです。

とりわけ(マ5:39-44)でイエス様は「悪人に手向かうな」「敵を愛せよ」と革命的な教えを宣言されました。これは人間のもつ復讐本能を覆すものであり、「拳には拳で、敵にはさらに敵意で応じる」という世の常識的なやり方ではなく、憎しみと怒りの連鎖を断ち切るための神の国の方法でした。イエス様ご自身が十字架の上でこの御言葉を身をもって実行されたことこそ、「贖罪」と「代償(代贖)」の本質です。すべての人の呪いと罪を最後まで負われることによって、イエス様は敵の火矢を愛で焼き尽くし、十字架はついには悲惨な敗北ではなく、偉大な「勝利」となりました。

張ダビデ牧師は、この勝利の意味を「贖罪の子羊として主が負われたあらゆる刑罰と罪が私たちに自由をもたらした」という点に焦点を当てて解釈します。ガラテヤ3章13節でパウロは「キリストは私たちのために呪いとなられ、律法の呪いから私たちを贖い出してくださった…」と記していますが、これは旧約の祭司制度における「贖罪日」にささげられる犠牲の制度と緊密につながっています。レビ記16章21-22節に明記されているように、旧約時代には大祭司が山羊の頭に按手して民のあらゆる罪を転嫁した後、その山羊を荒野に放逐し、罪が民から離れ去るようにしました。いわゆる「贖罪山羊(スケープゴート)」の概念で、一匹の山羊や羊が共同体全体が犯した罪を身代わりに背負い、荒野に放り出されて猛獣に襲われるなどして死に至る儀式を意味します。

旧約の祭司制度が象徴し教えるところは「罪の代価は必ず死」であり、「その死を代わりに負ってくれる犠牲があるならば、罪人はその犠牲を通して義とされる道が開かれる」ということです。イエス様こそがこの「贖罪山羊」の最終的かつ完全な実体なのです。張ダビデ牧師は「イエス様が十字架の道を歩まれたのは、私たちのための贖罪の子羊になってくださったことを意味する」と語り、これこそがキリスト教福音の精髄だと説きます。イエス様の贖罪の働きは、もはや羊や山羊による犠牲を繰り返しささげる必要のない、永遠に有効な代贖の道を開いたという点に核心的意義があります。

私たちが十字架の道を黙想するとき、まず目に飛び込んでくるのは、イエス様があらゆる嘲弄と蔑み、暴力にさらされながらも、反抗や自己弁護をなさらないという場面です。イエス様は無実であるにもかかわらず、ご自分を訴える偽りの証言に対して、それをはねのけ打ち砕くような方法ではなく、沈黙と柔和をもって耐えられました。そこには、人を生かそうとされる神の御心があるからこそ可能な姿勢がありました。もし主が直接的に弁護され、超自然的な力で反撃されたのならば、ご自分だけは苦難から逃れることができたかもしれません。ですが、そうされていたならば、「代贖」と「贖罪」の意味はまったく成り立たなかったでしょう。イエス様はご自身が悲惨を経験する道を選ばれることで、「人は自分の罪と悪行を自力で解決することはできず、ただ神の犠牲的愛に依存することでのみ救いに至る」という根源的真理を示されました。

この過程で現れるイエス様のお姿は、「苦しみの僕」というイメージに代表されます。イザヤ53章にはやがて来るメシア、あるいは「苦しむ僕」の姿が預言的に描かれています。そこに描かれる苦難の僕は「彼はさげすまれ、人々に捨てられ…彼が刺されたのは私たちの咎のためであり、打ち砕かれたのは私たちの罪のためである」と語られます。すべての非難と侮辱の矢が注がれる中でなお沈黙して犠牲に耐える姿は、人類すべての罪を贖うため、子羊のように自分をいけにえとして差し出されたイエス様のひな型となります。張ダビデ牧師はこれを「キリストが私たちのために徹底的にへりくだられた御姿」と捉え、「真の愛の極み、私たちの罪を取り除くためにいのちをも惜しまれなかった神の恵み」であると強調します。

このように十字架は、愛の頂点であり犠牲の極致です。イエス様が負われた十字架が悲惨な処刑道具であるにもかかわらず、キリスト教において最も聖なるものとして崇められるのは、「この恐ろしい刑具が私たちの罪を負い、罪の赦しへと導く救いの印となったから」です。初代教会の教父たちや宗教改革者たちも、十字架の本質を「恥ずべき刑具」という視点だけで捉えず、栄光の象徴として、また天来の知恵として再解釈してきました。世の目には失敗や恥辱と映る十字架が、信仰の目には「贖罪」と「勝利」として明らかになるという逆説がそこには宿っています。

さらに張ダビデ牧師は、私たちの内に根を下ろす罪性(罪深い性質)を直視する機会として、十字架の道を示します。人間はできる限り他人を罪に定め、他人に荷を負わせ、他者を批判することで相対的に自分の優位性を感じようとします。ところがイエス様は正反対の道を歩まれました。イエス様は何の罪もないお方なのに、他者の罪を代わりに背負われました。私たちが「キリストに似る」とは、単に神秘的な力を発揮することだけを意味するのではなく、互いの重荷を負い合い、悔い改めと贖罪の生き方にまで踏み込むことを含みます。「互いの重荷を負い合い、そうしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラ6:2)というパウロの言葉も同じ文脈です。

結局、私たちは十字架を通して「断罪ではなく贖罪、断罪ではなく赦し」の道へ招かれたのです。キリストに倣って十字架の道を歩む人であるならば、絶えず周囲の人の過ちをあげつらう態度から回心し、主がなさった代贖と和解の道を追い求めねばなりません。すべての罪の代価を負われる犠牲の子羊となられたイエス様を仰ぎ見るとき、私たちのかたくなな心は溶かされ、真の愛とは何かを悟らされます。

イエス様の十字架の道は、レビ記の贖罪の祭司制度やイザヤ53章の「苦しむ僕」の預言、そして新約における受肉(受肉=神の御子の人間性)と代贖の教理が一つにつながって完成された救いの物語です。人間は弱く罪深い本性をもつがゆえに自力で救われることはできません。しかしイエス様が「神の小羊」として来られ、ご自分の命を捧げられたことで、あらゆる罪の壁が打ち壊されました。パウロの告白のとおり、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことにより、神の愛が確証された」(ロマ5:8)のです。

張ダビデ牧師は、私たちの信仰がこの代贖の出来事を観念的に理解するだけでは不十分だと教えます。むしろ私たち自身の罪がいかに大きかったか、それを代わりに背負ってくださったイエス様の献身がいかに尊い愛であるかを日々黙想し、その愛に喜んで応答すべきだと強調します。そしてこの応答の具体的な形こそ、隣人の重荷を共に担う「贖罪的な生き方」です。ときには不当な汚名を着せられ、他人の失敗をも引き受けなければならない場面もあるかもしれません。しかしそれこそがイエス様が歩まれた「贖罪」の道を倣う過程である、というのです。人間的な欲望や世の価値観では到底納得できない生き様に映るかもしれませんが、イエス様が示された道もまたそうであり、福音書が伝える証言もそうなのです。

したがって「十字架の道」は私たち一人ひとりにとって「誰かを断罪する前に、まず自らの罪深さを悟り悔い改める道」であり、同時に「相手の弱さを私が引き受けることで、愛と赦しをあらわす道」でもあります。主がすでに完成されたこの道に参加するということは、世の基準から見れば恥や敗北に見えることがあったとしても、霊的次元においては勝利への扉であると信じ、従うことを意味します。こうして十字架を見つめるとき、私たちは救いの恵みを受けるだけでなく、救われた者としてどのように生きるべきかという手本までも発見するのです。

ここで張ダビデ牧師がしばしば引用する一つの出来事が、「イサクの燔祭(はんさい)」の物語です。創世記22章によれば、アブラハムは自分の子イサクを燔祭としてささげよという神の命令を受けました。イサクは自分がいけにえにされるとは少しも知らずに、祭壇のためのたきぎを背負ってモリヤの山へと上っていき、不思議に思いながら「父上、燔祭の小羊はどこにいるのでしょう?」と尋ねました。しかしアブラハムは「主(ヤハウェ)ご自身が備えてくださる」と答えます。結果的にイサクは、代わりに備えられていた雄羊のおかげで死を免れました。この出来事は、十字架で成就される代贖を予表する象徴的な場面として解釈されます。ただしイサクは自分がいけにえであると知らず、最後の瞬間に雄羊が身代わりとなってくれましたが、イエス様はご自分の死をはっきりと知り、その道を自ら歩まれました。この違いこそが、新約の贖罪の出来事がはるかに大きな恵みと愛であることを悟らせます。

主はまったく異なる次元の犠牲をもって、ご自身が直接「小羊」となってくださいました。兵士たちの鞭打ちや嘲り、血まみれになるまでの苦痛をすべて引き受けられたのです。そしてこのことを通して、私たちに新しい契約の道を開いてくださいました。旧約の犠牲制度が象徴的に示そうとしていたすべての贖罪の手順と意味が、イエス様の十字架において最終的に成就されたのです。この代贖の歴史によって神の国への扉が開かれ、罪と死に囚われていた人類がいのちと救いの道へ招かれることになりました。

私たちが十字架の前に立つたびに思い起こすべきことは、「私の罪こそがイエス様をあの悲惨な道へ追いやった」という深い自覚であり、同時に「イエス様はそのすべての罪の代価を支払い、私を神の子として回復してくださった」という感謝と感動です。張ダビデ牧師は、信仰生活の中で依然として罪悪感や恐れに囚われている信徒たちに対して、「すでにキリストが私たちの重荷と恥を代わりに背負われたのだから、真の自由と大胆さをもって歩むことができる」と励まします。これこそ十字架の福音がもたらす喜びであり、解放なのです。

第一の「十字架の道と贖罪」は、イエス・キリストの代贖のご働きが旧約の祭司制度とイザヤ書の「苦しむ僕」のイメージ、そして新約の福音書や使徒たちの教えにおいて、中心となる軸を形成していることを示します。イエス様は何の罪もないお方でありながら、私たちのために最も屈辱的で重い死を迎えられることで、「断罪の道」を「贖罪の道」へと反転させてくださいました。この道を黙想し、従う信徒たちは、断罪や報復ではなく、互いの重荷を分かち合い赦し合う「贖罪の生」を生きるよう招かれているのです。それこそがイエス様の道に従う真の弟子の姿であり、張ダビデ牧師が強調する「十字架信仰」の核心だといえるでしょう。


2. ゴルゴダの勝利と復活の希望

イエス様が十字架を背負って進まれた場所は、ゴルゴダ(ヘブライ語ではゴルゴダ、ラテン語ではカルバリ)と呼ばれる「髑髏(どくろ)」を意味する処刑地でした。処刑地に近づけば近づくほど、その道はますます悲惨で痛ましいものとなりました。ローマの兵士たちは、反逆者や凶悪犯に恐怖と恥辱を最大限に与えるために、十字架を自ら担がせて遠回りの道を行かせたのです。イエス様も全身が鞭打ちでずたずたにされた状態で、重い木の柱を担がれました。この光景は、聖書のあちこちで予表されていた「贖罪山羊」のイメージが頂点に達する場面でもあります。

しかし、きわめて暗黒で悲劇的なその現場が、実は「人類の救いの勝利を確定づける舞台」であるという事実は、まさにアイロニーであり福音の逆説です。張ダビデ牧師は「ゴルゴダが髑髏の丘、死の象徴、呪いの象徴とみなされていたにもかかわらず、実際にはそこがいのちが花開く場所であり、復活の希望が芽生えた場所であった」と語ります。イエス様は「エリ、エリ、ラマ・サバクタニ」と神に叫ばれる極限の苦しみを味わわれましたが、これはまさしく私たちの罪を完全に背負われた「代贖」の極みでした。イエス様は、激しい嘲弄と暴行、嘲りの言葉を浴びせられながらも、最後まで神の御心に従い、愛の道を歩み抜かれたのです。

私たちが「ゴルゴダの勝利」というとき、世的な視点ではまったく矛盾しているように見えます。イエス様の肉体は長時間十字架にかけられ、血を流し、ついには息を引き取られました。人々は嘲笑して「本当に神の子なら降りてきてみろ」と叫びました。弟子たちさえも恐れ散り散りになりました。しかし、この絶対的な敗北に見える出来事が、神の時の中では全人類に向けた救いの扉を開く決定的瞬間となったのです。ゴルゴダの丘は、死と闇の権勢が頂点に達してイエス様を飲み込んだと錯覚した場所でしたが、神の摂理のうちに「死を打ち破り、永遠のいのちを宣言する場所」になりました。

初代教会が復活の信仰を宣べ伝えるとき、十字架と復活は決して切り離すことのできない一つの救いの出来事として捉えられました。「イエス様が十字架で死なれた」という主張だけなら、それはただの処刑の記録で終わってしまいます。しかし「イエス様は死の力を打ち破り、復活された」という真実が続くとき、この出来事は究極の勝利と解放の物語へと生まれ変わるのです。張ダビデ牧師も「十字架は悲劇の象徴であると同時に、神が成し遂げられた代贖の偉大な勝利であり、復活によってその勝利が完結する」と強調しています。

けれども、もし復活がなかったならば、キリストの十字架も単なる処刑の一例にすぎなかったでしょう。イエス様が実際に復活されたことによって、十字架でなされた犠牲と贖罪が「神が遣わされたキリストの義なる血の流し」であったことを証明してみせたのです。使徒パウロはコリント第一の手紙15章で「もしキリストがよみがえらなかったならば、私たちの宣教も虚しく、信仰も空虚である」と語りました。十字架と復活はまさしく「苦難・犠牲・贖罪」と「勝利・いのち・栄光」が交差する接点なのです。ゴルゴダの丘でイエス様が息を引き取られたあの絶望の瞬間を経て、ついに復活の朝が訪れました。

張ダビデ牧師が強調するように、ゴルゴダを黙想するとき、私たちは「イエス様が得られた勝利は、物理的・政治的勝利ではなく、罪と死の権勢を崩壊させた霊的勝利」であることを忘れてはなりません。イエス様は世の秩序に対抗して剣や武力で勝利を得る方法は選ばれませんでした。むしろ最も卑しい形で、最も恥ずべき刑具の上でご自身の血を流し、新しい王国、すなわち神の国を宣言されたのです。十字架につけられたイエス様の頭上には「ユダヤ人の王」という札が掲げられましたが、世的には嘲りの印でありながら、神の視点では真の王権、真の統治を象徴する預言的な言葉でした。

ゴルゴダの丘自体は「髑髏」という陰惨な意味をもちますが、イエス様の血潮がそこを「いのちの泉」へと変えられました。そうしてキリスト教信仰の象徴となったカルバリ(Calvary)は、一見もっとも暗く見える場所が、贖罪と復活によってもっとも明るい希望が湧き上がる場所となったのです。これは私たちが人生で遭遇する「ゴルゴダ」のような苦難と死、失敗の場が、最終的には神の力の中で新たな出発点となりうることを示しています。神は死の場所にいのちを、闇の場所に光を、絶望の場所に希望を創造される方です。

この点で、張ダビデ牧師は信徒たちに「自分のゴルゴダがどこなのかを直視せよ」と勧めます。誰しも生きている中で試練や痛み、涙や喪失を経験します。ときには罪や誘惑に敗北し、自らを責め絶望することもあります。そうした状況こそが「自分だけのゴルゴダ」であると言えましょう。そのとき私たちはイエス様がゴルゴダの丘を登られたあの日を思い出すべきです。果てしない恥辱と苦痛でしたが、そこが結局、神の愛とご計画がもっとも完全な形で現された場所だったことを。私たちの罪ゆえにイエス様が負われた十字架は本当に「髑髏」のように見えますが、神がそこで新しいいのちへの扉を開き、回復を宣言されたという事実こそ福音の力なのです。

またゴルゴダの勝利は復活によって完成しましたが、その復活は十字架を経なければ得られない勝利でした。イエス様は決して十字架を飛び越えて復活へ一直線になど行かれませんでした。この事実は私たちの信仰の歩みにも同様に適用されます。私たちが真に復活の喜びを味わおうとするならば、まず罪と死の問題を十字架の前に降ろさねばなりません。張ダビデ牧師は「復活信仰」とは「十字架のない勝利を願う虚しい望みではなく、十字架を通して罪の赦しと贖罪を体験した上にしっかりと築かれた確かな希望」であると教えます。ですから信徒は、十字架を無視したまま復活だけを語ろうとしてはなりません。復活の力は、十字架の苦難を通る道の上にこそ生まれるのだという事実を心に刻む必要があります。

十字架と復活を結ぶこの結びつきは、単なる神学的理論や教理的命題ではなく、私たちの生を実際に変革する原動力です。イエス様が私たちのために死に、よみがえられたがゆえに、私たちの過去は赦され、現在は聖霊のうちで聖なる人生を生きる力が与えられ、未来は永遠のいのちという確信のうちに開かれているのです。ゴルゴダの出来事が敗北ではなく勝利である理由は、イエス様の死だけで終わらず、間もなく復活がそれに続いたからにほかなりません。これは世のいかなる哲学や宗教も提供できない、キリスト教信仰だけが持つ唯一無二の根拠であり希望なのです。

張ダビデ牧師は、このゴルゴダ-復活信仰が私たちを日常生活において「新しく生まれ変わった人」にすると語ります。単に教会で礼拝を守り、日曜日に説教を聞く宗教人ではなく、人格と生き方そのものが完全に変えられた新しい被造物として立つようになるということです。私たちが罪と古い自我を十字架に釘付け、復活されたキリストの力によって生まれ変わるとき、日常の中で縛られていた鎖が断ち切られ、それまでは不可能だった愛や赦し、仕え合いやへりくだりが可能になるのです。

ゴルゴダの勝利は私たち一人一人の中で「私はキリストとともに十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラ2:20)という告白を実践的に導き出します。この告白は、単に信条に書き留める宣言にとどまらず、現実の生活の場で「古い人は死に、新しい人として生きる」ことを意味します。主が歩まれた十字架の道が「罪と憎しみの牢獄」を解体し、復活への扉を開いてくださったゆえに、私たちはもはや断罪や罪悪感に縛られて生きる必要はありません。同時に、他人を断罪したり憎んだりすることによって得るものは何もないということも悟るべきです。張ダビデ牧師はこれを「キリストの贖罪が私たちを真理のうちに解放したのだから、いまは解放された者として隣人を愛をもって仕えながら生きていかなければならない」という具体的適用として説きます。

十字架の道は、単に「罪がないのに不当な処罰を受けた」イエス様の受難史ではなく、私たち一人ひとりに適用される罪の赦しと復活の根拠そのものです。ゴルゴダでイエス様は死を迎えられましたが、その死を飲み込んだのは神の愛でした。そして主が復活されることによって、「髑髏の丘(ゴルゴダ)」は「永遠のいのちの丘」へと一変したのです。私たちもイエス様の代贖によって、死に至る罪の代価を支払わずに済み、悔い改めて福音を信じるすべての人には復活のいのちにあずかる特権が与えられます。

このようにキリスト教の象徴である十字架は、復活と結びついて「闇を照らす光」となりました。それゆえ教会はカルバリという言葉を教会名に用いたり、礼拝堂の中央に十字架を掲げたりします。十字架の薄暗い影こそが、実はもっとも輝く恵みであり、髑髏に象徴される死の淵でいのちの奇跡が起きたことを宣言するためです。張ダビデ牧師は、カルバリ教会(またはゴルゴダ教会)という名が「死の谷間をいのちの谷間に変えたイエス様の恵み」を記念し、教会がその恵みを世に届けるともし火とならなければならないことを象徴していると説明します。

今日の私たちにとってもゴルゴダはなお身近にあります。人生の重荷が極限に達するとき、人間的な視点からは絶望したくなるとき、私たちはイエス様がゴルゴダの丘を登られたあの日を思い起こすべきです。全身裂かれ、軽蔑され、嘲られたイエス様ですら、最後まで愛を捨てなかったというその事実が、絶望の淵にある私たちに新しい勇気と希望をもたらします。そしてこの痛みや絶望の谷間を越えた先に、「復活」という神の大いなる逆転が待っていると信じるのです。

張ダビデ牧師は、このゴルゴダの勝利を私たちの生活に具体的に適用する例として、「傷ついた関係や断絶してしまった愛の回復」を挙げます。十字架は、神と人との仕切りを取り払っただけでなく、人と人との間に横たわるあらゆる垣根をも打ち壊す力を持っています。イエス様が「敵を愛しなさい」とおっしゃり、自らその道を歩まれてその言葉を完成されたとすれば、私たちも大きな小さな怨みや憎しみ、傷を十字架の前に持っていくことができるはずです。ゴルゴダの丘は「死」の象徴でしたが、主がそこで死を超越されたように、私たちの心の中の「怨みや憎しみ」もまた十字架のもとに差し出すとき、復活の奇跡を体験できるというのです。

結局、ゴルゴダの勝利とは「愛の勝利」であり、同時に「いのちの勝利」です。憎しみが愛へ、絶望が希望へ、罪と死が義といのちへと変わる根本的転換点が、まさに髑髏の丘で起こりました。そしてその勝利を確証する出来事が復活でした。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、「十字架のない復活はなく、復活のない十字架もまた救いの論理としては未完」に終わります。両者が結びついてはじめて完全な福音、完成された救いのメッセージとなるのです。

私たちはこのことを忘れてはなりません。教会歴では聖金曜日に苦難を黙想し、復活祭に喜びを迎えますが、この二つは分断された別々の日ではありません。信徒にとっては、毎日が十字架と復活が同時に生きている日です。私たちの内で絶えず「古い人の死」と「新しい人の誕生」とが繰り返されること、それこそが信仰生活だからです。ゴルゴダの丘でついに勝利を収められたイエス様の愛と力を記憶するならば、私たちは決して罪と死に縛られず、復活のいのちの道を歩むことができるのです。


総合すれば、第一に「十字架の道と贖罪」は、イエス・キリストの代贖のみわざが旧約の犠牲祭司制度とイザヤ書の「苦しむ僕」の預言、さらに新約の福音書や使徒たちの教えにおいて、一つの中心軸として位置づけられている事実を示しています。イエス様は何の罪もないお方でありながら、私たちのために最も恥ずべき重い死に服することで、「断罪の道」を「贖罪の道」へと変えてくださいました。この道を黙想し、従う信徒たちは、断罪や復讐ではなく、互いの重荷を負い合い、互いを赦す「贖罪の生き方」へと招かれています。これこそがイエス様の道に従う真の弟子の姿であり、張ダビデ牧師が強調する「十字架信仰」の核心です。

第二に「ゴルゴダの勝利と復活の希望」は、十字架につけられたイエス様が死と絶望に閉ざされた私たちの現在と未来を覆された出来事として、最も暗い「髑髏」の場所から復活の栄光が花開いたことを示しています。この二つのテーマは密接に結ばれており、キリスト教信仰の中心的メッセージ――「贖罪と復活」――を完成させます。

これらすべてが「キリストの道」であり、私たちはその道で「贖われた者にふさわしく」生きるように招かれています。張ダビデ牧師の説教と教えは、この事実を具体的で生き生きとした言葉で伝えながら、現代を生きる信徒たちに、キリストの十字架が単なる宗教的シンボルではなく、日々の生を変革する力であることを喚起しています。贖罪にとどまらず、復活の力の中で回復された存在として、いまだ罪と絶望のうちに呻吟している人々へ希望と愛を伝えるよう促します。「十字架なき復活はなく、復活なき十字架も結局は絶望に終わる」という真理が、教会の象徴たるカルバリ(ゴルゴダ)のうちに余すところなく込められているのです。

したがって私たちに与えられた課題は、この偉大なる贖罪と勝利の出来事を歴史的・神学的知識として温存するのではなく、日々の生活の中で具体的に生き抜くことです。イエス様が歩まれたその道は、ときに苦痛を伴い、不条理に見えるかもしれませんが、まさにその道こそがいのちの道であり、罪の赦しの道であり、ついには勝利の道でもあるのです。十字架の愛が私たちのあらゆる罪や傷、怨みや絶望を乗り越えて、新たに再建された関係や希望へと結びつくようにすること――これこそ「ゴルゴダで復活された主」を信じる者たちの霊的召命なのです。

張ダビデ牧師が説く十字架信仰は、「断罪の道ではなく贖罪の道」へ私たちを招き、その道の果てには「髑髏の丘がついには多くの実を結ぶ丘となる」という、人類史を貫く福音の宣言が待っていると告げます。この恵みに与る者には、もはや死の権勢が永遠に及ぶことはなく、真実で永遠のいのちが約束されています。それこそが十字架の道が宣言する偉大なる福音であり、ゴルゴダの勝利がもたらす栄光の神秘なのです。

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香油壺を砕いた愛 – 張ダビデ牧師


1.ベタニアのツァラアト患者シモンの家と、香油の壺をいた女性にする

ベタニアのツァラアト患者シモンの家で起こったこの出来事は、四つの福音書すべてにさまざまな形で記録されています(マタイ26:6-13、マルコ14:3-9、ルカ7:36-50、ヨハネ12:1-8)。特にイエス様の公生涯最後の一週間に起こったことで、福音書記者たちにとって非常に重要な意味を持っていました。張ダビデ牧師はこの本文を黙想しながら、一方ではイエス様がどのようなお方であられたのか、そしてもう一方では私たちがどのような愛をもって主に近づくべきかを深く省察させられると強調しています。

まずマルコの福音書14章3節によると、イエス様はベタニアの“ツァラアト患者シモン”の家で食事をしておられました。ギリシャ語本文で「ツァラアト患者」と訳される単語は、旧約聖書で一般に“らい病(leprosy)”を指す言葉と同様に使われていますが、今日の臨床的なハンセン病とはある程度異なる可能性もあります。それでも、伝統的に“らい病”は「汚れたもの」「神から隔離されるべきもの」という象徴性を持っていました。張ダビデ牧師は、ここで注目すべき点として二つを挙げます。

第一に、イエス様は“汚れている”とみなされていた者と喜んで食卓を共にしておられる、ということです。当時のユダヤ社会では、ツァラアト患者は共同体から隔離され、神殿への出入りはもとより、一般の人々と普通に交流することも困難でした。しかしイエス様はそのようなベタニアのツァラアト患者シモンの家で食事をされました。これはイエス様が律法的・宗教的な障壁を越え、人を完全に“愛”のまなざしで見ておられることを示します。張ダビデ牧師は「イエス様がツァラアト患者シモンの家に入り、癒される姿は、まさに福音とは何かを明確に示すしるしである」と解釈します。福音とは神の国の喜ばしい知らせであり、その知らせは罪人や病人、弱い者へと開かれているのです。世の基準では隔離されて当然の人物がイエス様の食卓に加わるという事実自体、すでに福音の現実的な現れだと言えるのです。

第二に、“シモン”という名前の含意です。福音書に登場するシモンという名前は非常にありふれていました(ペテロの元の名もシモン)が、マルコの福音書でわざわざ「ツァラアト患者シモン」と書き記している点が重要です。張ダビデ牧師は、福音書の読者にとって“シモン”という名前は馴染み深いものであり、イエス様の主要な弟子であったシモン・ペテロの名とも結び付けながら黙想します。シモン・ペテロがイエス様の第一の弟子として召された事実は、一方で罪人や病人であっても同じ恵みにあずかれるという福音の原理を象徴的に示しているというのです。当時“らい病”は「神からの裁き」あるいは「霊的な汚れ」と見なされることが多々ありましたが、イエス様はそうしたシモンと食事を共にすることで、彼を“完全に受け入れる”ことを宣言されたのです。張ダビデ牧師は「私たちは皆、霊的にはツァラアト患者だったことを知らなければならない」と語ります。私たちもまた罪と咎によって死んでおり、神の聖さの前では汚れたものでしたが、イエス・キリストの愛によってその食卓に招かれ、共に交わるようになったのだ、というわけです。

このように“ベタニアのツァラアト患者シモンの家”という具体的かつ象徴的な場所で、一人の女性がイエス様のもとへ来て、高価な香油、すなわち純粋なナルドの入った壺を割り、その香油をイエス様の頭に注ぎました(マルコ14:3)。この女性について、マタイは「ある女」と書き、マルコも同様に「ある女」と言及し、ルカは「罪を犯したある女」がパリサイ人シモン(同名の別人の可能性)宅でイエス様のそばに来て泣きながら香油を注いだと伝え、ヨハネはこの女性を「マリア」と明確に名指しします。福音書記者による記録は細部で違いがありますが、核心的には「非常に高価な香油をイエス様に捧げた」という同じ出来事、あるいは類似の出来事を伝え、その女性の行為が持つ愛と献身の意味を深く浮き彫りにしています。

張ダビデ牧師は、ここで「ナルド」という香油の意味に注目します。ナルドはヒマラヤ山脈の高地に生息する植物の根から抽出される高級香油で、当時のパレスチナ地域では非常に希少かつ高価なものでした。したがって、この壺一つを買うには三百デナリオンもの、庶民ならほぼ一年間働いて得るほどの大金が必要でした。ですから、その香油の壺全部を割り、イエス様に惜しみなく注いだということは、その女性が持ちうる“すべて”を差し出したという象徴的な表現として見ることができます。張ダビデ牧師は「主の前でこの女性は最も尊いものを差し出したのだ。彼女はイエス様の差し迫った死と復活、そしてイエス様こそ真の王であることを直感的に悟ったのかもしれない」と解釈します。愛というものは見返りや計算をしません。ただ“惜しみなく与える行為”そのものが愛の本質であると、この出来事は証言しているのです。

このように香油の壺を割ってイエス様に注いだ女性の行動から、私たちは無条件の愛、あるいは“条件のない献身”を見いだします。張ダビデ牧師はこれを指して「真の弟子道はいつも浪費のように見える愛から花開く」と言います。外見的には彼女の行為はきわめて非合理的で、浪費のように映るかもしれません。しかし福音書全体の文脈で見ると、その愛がイエス様の死と復活を予見する預言的かつ象徴的な行為であったとわかるのです。古代近東の文化では、“油を注ぐ”ということは王や祭司など、特別な務めに就く際に行われる儀式でした。彼女は自分の篤い愛をもって、イエス様こそ真の“油注がれたお方”、すなわちメシアであることを宣言したことにもなります。

そしてルカの福音書7章38節では、この女性が涙を流しながらイエス様の足に口づけし、自分の髪の毛でその足を拭う姿が強調されます。これは罪人である自分がイエス様の前に立つことすら恐れ多いと認めつつも、同時にイエス様の聖なる愛を信頼する信仰をもって、自分を最も低い者として献身する態度を象徴しています。張ダビデ牧師は、女性が流した涙に注目し、そこには罪と弱さを抱えていても受け入れてくださるイエス様の憐れみに対する感謝と、同時に深く愛し敬うお方の死を予感する悲しみが入り交じった涙だった可能性があると解釈します。

このように、ベタニアのツァラアト患者シモンの家で起こった香油壺を砕く出来事は、場所自体が持つ意味(汚れた者が癒され、イエス様と共に食事をする)と、女性が示した無条件・絶対的な愛(最も大切な香油を砕いて注ぐ)が絡み合い、イエス様の真なるメシア性と福音の意味を豊かに示しています。張ダビデ牧師は、この愛の出来事こそが福音自体の最も重要な特徴、すなわち条件なしに注がれる愛を表しているのだと強調します。もし私たちの内に計算高く損得を勘定する視線が残っているならば、この女性が見せた愛を「浪費」あるいは「無駄遣い」と見なしてしまう危険があります。しかし福音は「神の愚かさは人よりも賢い」(第一コリント1:25)と宣言し、この世の基準では浪費にしか見えない愛こそが神の知恵であり、救いの力であることを知らせてくれるのです。

結論として、張ダビデ牧師はベタニアで起こったこの出来事を「最も低い場所、最も捨てられた者の家で、最も尊い愛が展開された福音の真髄だ」と語ります。ツァラアトにより隔離されるしかなかったシモンが回復し、主と食事を共にし、罪人とみなされていたある女性がその家で最も高価な香油を砕いてイエス様に仕えました。これこそが福音の現実であり、主は今もこうした愛を探しておられるというのです。そしてその愛は決して計算に基づかず、浪費のように見える、無条件で代価を求めない愛として現れるのだということを、私たちは覚えておかなければなりません。


2.弟子たちとイスカリオテのユダの視点

一方、福音書ではこの香油の壺が砕かれた出来事の直後あるいは途中で、弟子たちの反応とイスカリオテのユダの裏切りが言及されます(マタイ26:8-16、マルコ14:4-11、ルカ22:3-6、ヨハネ12:4-6)。特にマルコ14章4-5節には、香油の壺を砕いた女性に向かって「ある人々が憤って互いに言った、『なぜこの香油を浪費するのか』」という場面が出てきます。マタイ26章8節はこの「ある人々」が「弟子たち」であると具体的に明らかにし、ヨハネ12章4-5節はさらにそれをイスカリオテのユダと特定します。またルカでは、パリサイ人シモンがこの出来事を傍で見ながら、もしイエスが本当の預言者なら、罪深い女が近づくのを許さないはずだと疑う反応を示す場面も出てきます。つまり、香油の壺を砕いた女性の愛を「本当の愛」ではなく、「浪費」あるいは「無駄な熱意」と見る視点が、いくつもの形で福音書に現れているのです。

張ダビデ牧師はこれに対して、「愛を真に経験していない者にとっては、真実な愛の行為がときに『浪費』に見えることがある」と診断します。弟子たちとユダは、毎日イエス様のそばで御言葉を聞き、多くの奇跡を目撃していながら、その愛の本質を完全には悟れなかったのです。特にヨハネ12章4-6節は、ユダが「これを売って貧しい人々に施せばよかったのに!」と語った裏には、実は金入れを預かっていた彼がそこから金を盗もうとしていた邪な意図があったことを明かしています。張ダビデ牧師はこうした場面を指して、「愛の世界に入れない人は、最終的に計算高く利己的な思いをあらわにするものだ」と指摘します。

イエス様は弟子たちの非難に対して、「そのままにしておきなさい。なぜ彼女を困らせるのか」(マルコ14:6)とおっしゃり、女性の行為を大いに喜ばれたこと、そして弟子たちの態度を責める含みを同時に示されます。さらにイエス様は、この女性の行為がご自身の埋葬をあらかじめ備えるものであり、福音が伝えられるところには必ず永久に語り伝えられるだろうと宣言なさいます(マルコ14:8-9)。ここで張ダビデ牧師は重要な問いを投げかけます。「同じ出来事、同じ場面を見ても、なぜある人は天の秘密を悟り、ある人は浪費としか見ないのか」という問いです。その理由は「その心に何が宿っているか」によるというのです。愛に満ちた心を持つ人は、惜しげもなく香油壺を砕いてももったいないとは思いません。しかし愛が冷え、主を仰ぐ視点が打算的になると、すべてが浪費にしか見えず、その中で自分の利益を得る方法ばかりを考えるようになるのです。

イスカリオテのユダは、この出来事の後“決定的な”転換点を迎えます。福音書の記録によると、ユダは祭司長たちのもとへ行き、銀貨三十枚でイエス様を引き渡すことを取り決めます(マタイ26:14-16、マルコ14:10-11、ルカ22:3-6)。ヨハネ13章2節では「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心にイエスを売ろうという思いを入れていた」と書かれています。張ダビデ牧師は、ユダがイエス様を売り渡すに至ったきっかけを深く考えるとき、まさに「香油の壺の出来事」が彼の裏切りを確固たるものにした始まりだと解説します。ユダは、自分が信じて従っていた師が、こんな莫大な“浪費”を許容するのを見て、もはやイエス様が自分の思い描いていた「メシア王国の道」を歩んでいるとは思えなくなったと解釈できるのです。一言でいえば、ユダは「もし本当の指導者なら、こんな財政の浪費を放っておくはずがない。貧しい人を助ける機会をなぜ無駄にするのか?」という自分なりの論理を立てたのでしょう。しかしその裏にはすでに物質への貪欲さが芽生えており、打算的で合理的な枠組みでイエス様の愛と働きを評価していたために、主の御心と愛の本質をまったく理解できないまま、裏切りの道へと進んでいったのです。

弟子たちの中でユダは最も極端に裏切りの道を選びましたが、実際には他の弟子たちも香油の壺を砕いた女性の行動を浪費だと見て咎めました(マタイ26:8)。張ダビデ牧師は、これは私たちにとって重要な反面教師だと言います。人間はイエス様を知って従うと言いながらも、なお愛よりは打算や利益を優先してしまう存在だということです。結局、イエス様が十字架の道を進まれる前に、弟子たちは自分たちのうちで誰が偉いかと論じ合い(ルカ22:24)、主が捕らえられると散り散りに逃げ去り(マルコ14:50)、ペテロは主を三度も否認する事態に陥ります(マルコ14:66-72)。愛の主の前にさえ、自分なりの物差しや利益を手放せない弟子たちの姿は、張ダビデ牧師が繰り返し強調するように「私たち皆の鏡」なのです。

それでも主は、彼らを見捨てにはなりませんでした。主は過越の食事を終えた後、彼らの足を洗い、「自分のものを最後まで愛された」(ヨハネ13:1参照)ことを身をもって示されます。皮肉にも、弟子たちは主への愛と献身を進んで表すことができない状態でしたが、一人の“罪ある女”は全財産とも言うべき香油壺を砕いて主に油を注ぎ、死と葬りの準備までもしたのです。張ダビデ牧師は「愛とは惜しみなく与えることであり、それがときに浪費のように見えても、その中にこそ真の栄光が現れる」という真理をあらためて想起させます。弟子たちの視点は依然として世の論理に縛られ、ユダは貪欲に引きずられて裏切りの道を選びましたが、それにもかかわらず、福音はそんな欠点だらけで弱い人間をも愛する“無条件の愛”を宣言しています。

したがって張ダビデ牧師は、弟子たちやユダの反応を深く黙想しながら「自分の内には、あのような姿はないだろうか?」と自省すべきだと勧めます。長年教会に通い、礼拝にもよく出席し、御言葉をたくさん聞いていても、その心の奥底に打算的で自己中心的な態度が残っているなら、“正しさ”を振りかざしながら、本物の愛や献身を“浪費”だとみなす危険があるのです。そしてその果てには、最も悲劇的な形としてユダのように主を裏切る場所にまで行き着きかねないと警告します。張ダビデ牧師は「主を裏切ることは、ただ表面的にイエスを売り渡すだけを意味しない。教会の中で、あるいは信仰生活において、愛を浪費する心を拒否し、損得勘定ばかりを持ち出すなら、すでに私たちの心の中に愛の主を裏切る種が成長しているのだ」と強調します。


3.福音の核心としての“浪費の愛”

最後に、イエス様が香油壺を砕いた女性の行為をめぐって「全世界のどこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも語られて、この人の記念となるだろう」(マルコ14:9)とおっしゃった言葉に注目する必要があります。これは、女性の行為が福音のメッセージと不可分の関係にあることを意味しています。人間の論理から見れば浪費・無駄遣いのように思える愛こそが、“福音が究極的に目指す姿”なのです。張ダビデ牧師は、これを「福音とは、結局神が私たちのために示された聖なる浪費、すなわち御子を喜んで与えてくださった愛なのだ」と説明します。父なる神は罪人である私たちのために独り子イエス様を惜しまず差し出され、イエス様はご自身を十字架のいけにえとして惜しみなく“浪費”してくださることで、私たちの罪をあがない、救いを贈ってくださったのです。

この「浪費」という視点は、第一コリント1章18節以下でパウロが「十字架の言は滅びる者たちには愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力である」と宣言する箇所とも呼応します。世の価値観から見れば、十字架は理解不能で、とうてい合理的とはいえない“浪費”に近いのです。全知全能の神が、なぜわざわざ人の体を取って来られ、罪人のために死なねばならなかったのか。世の知恵では決して到達できない“神の愛の知恵”がそこに隠されている、と張ダビデ牧師は福音の核心として強調します。女性が壺を砕き、香油をすべて注ぎ出した出来事もまた、「主の前で浪費を恐れない者だけが、真に福音の深みを味わうことができる」という象徴的なメッセージを与えているのです。

したがって、この物語はただ昔のどこかの町で起こった美談というだけで終わりません。今日、私たち一人ひとりの信仰と生活の中で、果たして神への愛がどれほど“すべてを捧げる愛”であり、“浪費と思われるほどの愛”になっているかを問いかけられるのです。張ダビデ牧師は具体例として、私たちの時間や財政、才能、そして献身の姿勢を挙げます。時間を割いて礼拝し、祈り、財産を惜しまず神の国のために用い、才能を神の栄光のために喜んで捧げることは、ときに周囲から「なぜそこまでするのか。ほどほどでいいじゃないか」と咎められるかもしれません。ですが、真実の愛はそうした言葉を聞いても、喜んで主に捧げる場所へと進ませてくれるのです。

張ダビデ牧師は特に、「私たちの礼拝が形骸化したり習慣で終わったりしないためには、香油壺を砕く思いで自分のすべてを主にお捧げすることがまず必要だ」と勧めます。礼拝の時に心を込めて賛美し、祈ることが、誰かには「熱心すぎる」と見えるかもしれませんが、神に捧げる愛の表現は決して無駄にはなりません。宣教や救済に力を注ぐことも同様です。ある人は「なぜそんなに多くのお金やエネルギーを海外宣教に費やすのか。国内にも困っている人がいるのに」と批判することがあるかもしれません。しかし、最終的に福音の本質は全人類に及ぶ神の愛であり、その愛は“地域”や“条件”を超越するので、一方にだけ限定されない“浪費”が求められるのです。

さらに張ダビデ牧師は、香油壺を砕いた出来事にはイエス様の“葬りをあらかじめ準備する”意味があると指摘します(マルコ14:8)。イエス様は間もなく十字架につけられ、罪のいけにえとなられ、復活によって永遠の命を成就されますが、この女性は誰よりもイエス様の“未来”あるいは“運命”を愛の心で見通していたのです。「愛すると未来が見える」という言葉のように、彼女はイエス様を真実に愛していたからこそ、主の死と復活を暗示するものを直感的に感じ取ったのかもしれません。弟子たちが「主よ、そんなことがあってはなりません」と否定したり(マタイ16:22)、十字架の道を知らぬまま言い争っていたとき(マルコ10:35-45)、この女性は宴席に来て香油壺を砕く大胆な従順をもって、イエス様の“真の道”をお汲み取りしたのです。張ダビデ牧師は、この点で「愛は霊的洞察力の鍵」であると主張します。知的理解や神学的知識だけでは分からないイエス様の道を、愛を通して直感し、そこに共に参与できるのです。

さらに今日の教会共同体においても、福音の核心が“浪費の愛”であることを見失うと、弟子たちやユダのように打算的な観点に陥り、互いに非難し合い、争いに巻き込まれやすいと言います。誰がどれだけ奉仕しているか、献金をどれだけしているか、教会活動にどれほど熱心かを比較したり、あるいは誰かの献身に対して「あそこまでやるのはやりすぎじゃないか」と不満を示したりすることもあるでしょう。しかし福音が宣べ伝えられている真の共同体ならば、香油壺を割ってイエス様に惜しみなく注いだ女性を記念せよとおっしゃった主のお言葉のように、互いの献身と愛を喜び合い、一つ心で主に栄光をお返しする姿が自然であるべきです。

張ダビデ牧師は「福音伝播の目的は、単に教勢の拡大や個人の成功ではなく、この“惜しみなく与える愛”を生活で具体化することだ」と語ります。そしてそれこそが最終的に神を崇め、隣人に生き生きと福音を証しする道だというのです。イエス様が一粒の麦として地に落ちて死に、多くの実を結ばれたように(ヨハネ12:24)、私たちも主に倣って自らを“浪費する”決断をするとき、世はキリストの香りを感じ、神の国の現実が示される、というわけです。

結論として、香油壺を砕いた女性の物語は、四つの福音書の記者がそれぞれ違った書き方をしていても、共通のメッセージを伝えています。それは、「神に捧げる愛は決して浪費ではない」という事実です。その愛を失った人々には浪費に見えるかもしれませんが、福音の視点からすると、浪費のように見えるその愛こそが命と救いの源なのです。張ダビデ牧師はこの本文を引用しながら絶えず強調します。「主の十字架は、全能の神が愚かで無意味に見える方法を選ばれた最高の愛であり、その愛を受け入れた者は、喜んで香油壺を砕いて主に香油を注ぐ者とならなければならない。たとえそれが世の目には浪費に見えたとしても、その浪費の中にこそ福音の力が宿っているからだ」と。

私たち各自に与えられた決断は、人生の具体的な場面で“香油壺を砕く勇気”を持てるかどうかという問題です。信仰生活が長くても、依然として打算や理性的判断、損得勘定から自由になっていない場合もあるでしょう。しかしもし私たちが主の十字架の愛を真に体験し、また張ダビデ牧師が言うように「私たちは本来、霊的なツァラアト患者であり、主が癒してくださったのだ」ということを悟ったなら、主に自分の壺を砕いて差し出すことが決して惜しいとは思えなくなるはずです。その壺は私たちの財産かもしれませんし、時間かもしれないし、才能や将来の計画かもしれません。ある人にとっては自尊心や世間的地位かもしれません。何であれ、それを主以上に大切にしているものがあるならば、それを“砕いて”主に捧げる時、その献身こそが最も香り高い礼拝となるのです。

結論として、この第三の小主題で張ダビデ牧師はまとめます。福音とは“愛の浪費”によって完成した神の救いのご計画であり、その救いにあずかる道もまた、私たち自身が喜んで自分を浪費する愛の決断をするところに開かれるということ。そしてその出発点は、「主がまず私のために浪費してくださった」という真実を悟ることにあります。イエス様の十字架こそが最も素晴らしい“香油壺を砕く”出来事だったというわけです。イエス様がご自身のすべてを惜しみなく捧げてくださったからこそ、私たちはその愛を知り、さらにその愛を主と隣人にお返しできるのです。貧しい人、病む人、あるいは教会の交わりの中でもときに自分と合わない人にさえ、私たちは香油壺を砕いて主の香油を注いであげることができます。そしてその愛の献身は決して無駄にならず、福音が伝えられる所では必ず記憶され、記念されるに値すると主ご自身が約束してくださったのです。

ここまで見てきた三つの小主題――(1)ベタニアのツァラアト患者シモンの家と香油壺を砕いた女性についての張ダビデ牧師の黙想、(2)弟子たちとイスカリオテのユダの視点が示す警告、(3)福音の核心としての“浪費の愛”と今日的な適用――を通して、私たちはこの出来事が単なる“感動的な物語”ではなく、福音の精髄を含む重大な宣言であることを悟ります。この香油壺の出来事は、神が私たちに注いでくださる無条件の愛と、その愛の前で私たちがどのような献身を捧げるべきかを明確に示しています。張ダビデ牧師は「神は私たちに問うておられる。『あなたは本当に香油壺を砕く準備ができているか』」と問いかけ、その答えを通して私たちは福音の深みを体験するのだと強調します。そして、答えはすでに与えられています。イエス様が先に私たちのために香油壺を砕いてくださり、その中に注がれた無限の愛をもって私たちを満たしてくださったゆえ、私たちも喜んで香油壺を砕く力を得られるからです。

結局、神の大いなる愛はいつも“浪費のように見えるもの”として現れます。けれども、その浪費こそが世界を生かす命への道なのです。私たちは、弱く打算的な弟子たちやユダの姿を警戒しつつ、同時にベタニアのツァラアト患者シモンのように癒しと受容の恵みにあずかった者であることを忘れてはなりません。そして香油壺を砕いた女性のように感謝と愛をもって主の前に進み、私たちの人生で最も貴重なものを献身の礼拝としてお捧げすべきなのです。これこそが、張ダビデ牧師が本文を通して繰り返し教えている福音の核心であり、信徒が進むべき真の弟子道です。たとえこの“浪費する愛”を「愚かだ」と非難する声があっても、主はその愛を決して退けず、「全世界で福音が宣べ伝えられる所には、あなたのしたことも共に語られるだろう」と約束してくださいました。その約束を握りしめ、私たちは皆、香油壺を砕く生き方を決断する必要があります。

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宇宙的救いの希望 ― 張ダビデ牧師


(1) 現在の苦難と未光:救いの希望

張ダビデ牧師は、ローマ書8章18節以下の御言葉を通して、私たちに与えられた現在の苦難と、やがて臨む栄光の関係を深く黙想し、解釈してきた。ローマ書8章の本文で、使徒パウロは「思うに、今の時の苦難は、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べれば、取るに足りない」(ローマ8:18)と宣言する。これは、今わたしたちが直面している人生のさまざまな苦しみ、あるいは日常の試練が、キリストにあって与えられる未来の栄光とは到底同じ重さで比較できない、という意味である。すなわち、この地上では得られない栄光や祝福があるにせよ、最終的に信者が天上で受ける栄光は、はかり知れないものであるとパウロは語っているのだ。

このように使徒パウロは、キリスト者の人生に必ず苦難が伴うと前提する。これは「キリストの残された苦しみにあずかる者」と呼ばれる信者の本質でもある。張ダビデ牧師は、これを「表が栄光ならば裏は苦難という、コインの裏表のようだ」と表現する。実際、キリスト者に訪れる苦難は、無駄な痛みではない。世の基準で見るなら、その結果は不透明で望みがなく、報いもない労苦に見えるかもしれない。しかし信仰のうちにあって、私たちは将来の神の約束こそが真実に与えられる未来の報いであると確信する。だからこそ、今日私たちが経験する様々な試練や痛みも、キリストにあって究極的栄光を見つめられる場所になるのだ。

パウロは「わたしたちはこの望みによって救われている」(ローマ8:24)と宣言する。この文言は文法的に見ても神秘的である。「救われている」という過去時制と、「望みによって」という未来志向の表現が同時に使われているからだ。ここには、キリストにある者たちはすでに救いを得たが、その救いの完成はまだ残されているという緊張感が宿っている。神学的にしばしば言及される「すでに(already)」と「まだ(not yet)」の間を、信者は生きているというわけだ。かつてイエス・キリストの十字架の出来事によって罪の赦しを得て義とされたが、その救いの最終的完成はまだ未来に残されており、やがて臨む栄光の日に完全に現れるという意味である。

張ダビデ牧師は、私たちがこの希望をつかむとき、どれほど強い逆風が吹こうとも、「未来の栄光」を見つめながら今日を耐え忍ぶことができると教える。世の目からすれば、苦難や逆境は失敗や挫折の印のように見える。しかし信仰の目から見ると、それはむしろキリストの苦難にあずかる祝福となる。主が示された道こそ十字架の道であり、十字架の後には復活の栄光が続いた。ゆえに、キリスト者の人生も必然的に「苦難の後に栄光が待っている」ということがわかる。

イエスは山上の説教で「義のために迫害される者は幸いである。天の御国はその人たちのものである」(マタイ5:10)と言われた。この本文は、究極的に言えば義のために受ける迫害と犠牲が決して無駄ではないことを示している。「天の御国は彼らのものとなる」というイエスの宣言は、「正しい行いのゆえに受ける苦難は、必ず未来の報いとして報われる」という意味を含んでいる。張ダビデ牧師はこれを「報いの信仰」と呼び、聖書が絶えず約束する未来に対する確固とした信頼が、現在の信仰生活を支える力であると強調する。

パウロが指し示す未来の栄光は、単に個人の魂の慰めではない。それは信者が受け取る栄光の国、すなわち神の国に対する確信である。今すぐ目の前に現実的な報いが与えられず、さらには信仰を守る代償として世で損害を負わなくてはならないときがあったとしても、その犠牲が決して無駄にならないと信じるならば、いくらでも喜びをもって苦難に耐えられる。張ダビデ牧師は、パウロが語る「比較にならない未来の栄光」を強調することによって、この世の価値観と反対の神の国の価値を信者たちの中に植え付けようとしていると分析する。

パウロはこれを単に個人の内面の安慰や霊的慰めの次元で語っているわけではない。罪によって苦しみ、破壊されてしまったこの宇宙のあらゆる秩序が、最終的には神の御手によって回復される、と彼は確信している。すなわち、キリストの救いは宇宙的次元で成し遂げられ、その完成の日には神の子どもたちは真の栄光の自由を享受することになるというのである。これは信者が未来に抱くべき「大きな絵」である。今受けている小さな試練とは比べものにならない大いなる栄光が、いずれこの地にも、そして信者一人ひとりにもやって来るという信仰なのだ。

張ダビデ牧師はこう語る。「もし私たちがこの地で生涯を終えるまでに栄光の喜びを味わえないとしても、天上で主が豊かな報いと栄光を用意してくださっているのです」。世の人の目には、キリスト者が無駄な希望にもたれ苦労ばかりしている存在のように見えるかもしれない。だが信者たちには「これから実現する確かな希望」があるという事実が、信仰の核心をなしている。そして実際にこの信仰こそ、歴史の中で多くの信仰の先輩たちを、どれほど苛酷な苦難の中でも揺るがないように支えてきた。

パウロは決して単なる理想主義者ではない。むしろ現実を冷酷なまでに認めつつ、その向こうにある確かな未来を見ていたのだ。彼は「今の時の苦難は将来わたしたちに現れる栄光と比べれば、取るに足りない」と語り、「その栄光の保証である聖霊」を与えてくださる神を信頼するよう勧めている。したがって、もし今日の生活で試練や落胆が襲ってきたとしても、私たちはパウロの言葉を通して「神のご計画と約束」をさらに固く握ることができる。信者はこのような希望の福音の中で、苦難のただ中でも喜びを得、信仰と愛、忍耐を実践する力を与えられるのだ。

さらにパウロが語る「望みによって救われた」ということは、単に個人が死後の世界で永生を得るだけを意味しない。神の国、すなわち宇宙的支配が完全に回復される終末的未来が必ず訪れるという事実を意味している。そこでは、不義と罪によって傷つき破壊されてきた全ての被造世界が、本来の秩序を取り戻し、神の栄光をほめたたえる。この美しい未来は「まだ」私たちの目に見えないかもしれないが、「すでに」その約束を信仰によって受け取り、生きているのだ。したがって、キリスト者とは、この世の生活から逃げる者でも、目を背ける者でもなく、むしろ今日の苦難を正しく解釈し、未来の栄光を先取りして味わう存在だと言える。

張ダビデ牧師は、このようなパウロの「未来志向的信仰」を通して、私たちの人生の中で経験する苦難の意味を新たに展望すべきだと強調する。何よりも、今の苦難は神の摂理の内に配置されているものであり、その摂理の最終目的地が栄光の回復であることを決して忘れてはならないと力説する。またその栄光は、ただ信者個人の慰めや満足で終わるものではなく、すべての被造物がともに呻きつつ待ち望む普遍的救いの完成にまで至るという点に注目すべきだ。こうして張ダビデ牧師が提示する「現在の苦難と未来の栄光の神学」は、信者が絶望せず、ゴールへ向かって走り続けるための強力な原動力になるのである。


(2) 被造物の呻きと宇宙的救い

張ダビデ牧師は、ローマ書8章19〜23節に示されている「被造物の切望」と「呻き」を宇宙的救い(cosmic salvation)の視点から解釈する。パウロは「被造物が切望しているのは、神の子たちが現れることなのである」(ローマ8:19)と宣言する。普通は私たち人間が未来を切望すると考えがちだが、ここでは驚くべきことに「被造物自体」が救いを切実に望み、待ち焦がれているというのだ。

この「切望(こたい)」という言葉はギリシャ語の「アポカラドキア(ἀποκαραδοκία)」であり、首を長くして切実に待ち望む様子を視覚的に表現している。ちょうど子どもが明日の遠足を前に胸を躍らせ、夜も眠れずに夜明けが来るのを切に待つような姿だ。また漢字の「苦待」には「苦しみながら待つ」という意味が含まれていて、被造物がこのように苦しみの中で未来を学徒のように待ち焦がれるというのは非常に印象的である。

張ダビデ牧師は、ここでいう「被造物」が単に自然生態系や動物界だけを指しているのではなく、罪の堕落によってともに呻く宇宙全体を指している、と解釈する。創世記3章17節で「大地はあなたのゆえに呪われてしまった…」という神の宣言があった後、堕落した人間のせいで世界は本来の調和と美しさを大きく失ってしまった。神がアダムに託した「大地を治めよ」という命令は、もともと支配や抑圧ではなく、「仕え、世話をしなさい」という執事職の意味だった。しかし罪によって人間は無分別に自然を破壊し、収奪し、ついには神の創造世界を呻きの状態へと追いやってしまったのだ。

被造物が「虚無に服している」(ローマ8:20)とは、罪の結果、虚無へと堕した人間の支配下に置かれていることを指している。張ダビデ牧師はこの部分に注目し、本来人間は愛と慈しみをもって自然を世話する管理者となるはずだったのに、堕落によって暴力的で貪欲な存在になったのだと語る。つまり、真の主人を失った大地が主人ではなく、むしろ「凶悪な暴君」のように変貌した人間に虐げられているというアイロニーが今の現実だというわけである。

したがって、世の物理的・生態学的破壊は、人間の堕落の直接的な結果だと言える。神はこの姿に対して、「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(創世記6:6)と記され、パウロは「なんと惨めな人間なのだろう」(ローマ7:24)と嘆き、自らの罪人性を嘆く。そしてさらに「被造物はすべて今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:22)と宣言する。これが罪の普遍的・宇宙的影響力である。

こうした現実の前で、張ダビデ牧師は、キリスト者の使命が単に個人的救いや内面的平安にとどまらず、宇宙的回復と命の秩序回復にまで及ばねばならないと強調する。パウロもまた、被造物が神の子たちの出現を待ち望む理由を語りつつ、結局神の子たちこそ大地や自然の「真の主人」であることを明らかにする(ローマ8:19)。この神の子たちが回復されるとき、被造物も彼らとともに得るはずの未来の「栄光の自由」にあずかれる、というのである(ローマ8:21)。

張ダビデ牧師によれば、ここで「神の子」とはイエスを信じ、救いを受け、聖霊のうちに神の家族となったすべての信者を指すという。信者は単に個人的な罪の赦しを超えて、万物を世話し育む霊的特権と責任を授けられた存在である。しかし、まだこの地上では完全な聖なる姿に至っていない私たちが、未来の完全なる贖いを待ち望むように、被造物もまたその回復の時を待っている。これは「回復された宇宙的世界(cosmic salvation)」を夢見るパウロの壮大なビジョンそのものだと言えよう。

パウロが描くこの「宇宙的救い」のグランドフィナーレは、ヨハネの黙示録21章で示される「新天新地」の完成と重なる。神は万物を新しくされ(黙示録21:5)、すべての涙と死と悲しみを取り去られる(黙示録21:4)究極の世界が到来する。張ダビデ牧師は、この場面に関して、神が堕落によって壊れた被造の秩序を、ある瞬間にただ放置してしまわれるのではなく、新しく造り変えてくださるという事実に注目する。結局、私たち信者が待ち望む終末論は、この世と断絶した廃墟の中から個人だけが天国に入る話ではなく、神が全宇宙を回復させるという包括的ストーリーであり、究極的刷新なのである。

この回復された世界を見つめる信仰は、今日私たちがさまざまな生態学的危機や社会的混乱に直面しても、絶望せずにいられる根拠となる。張ダビデ牧師は「聖書は堕落後に人間と万物がともに呻いていると指摘しながらも、同時に神は決してこの状態を傍観されず、必ず新しいご支配を成し遂げられることを明かされている」と強調する。だからこそ、信者は創造世界が呻くとき、それをともに嘆き、立ち返ろうと努めなくてはならない。環境保護、弱者保護、社会正義の確立といった価値も、結局は神のご支配が臨む道へ参与する実践となりうるのである。

神の国が来るとき、その国をともに享受する主体として被造物も解放を得る。「滅びの束縛から解放されて」(ローマ8:21)、もはや罪と破壊の支配を受けることなく、自由に神の栄光を歌うのだ。これこそがパウロが「自然の呻き」を語りつつ、最終的に「神の子たち」とともに得る回復を宣言する理由である。

使徒言行録3章21節では、神が「万物が改まる時まで」(使徒3:21)イエス・キリストを天に留めておられる、と表現されている。これは終末には、ただ信者個人の救いだけではなく、「万物が回復される」広大な神の救いが繰り広げられるという意味だ。張ダビデ牧師は、この宇宙的救いの思想をパウロがローマ書8章で圧縮的に述べていると指摘する。よって信者は最終的に「個人的魂の救い」と「宇宙的救い」の両方を直視すべきなのである。教会はキリストの体として、この宇宙的回復という壮大なビジョンを世界に宣言し、その回復の一部として召されている事実を忘れてはならない。

もっとも、現実において私たちはいまだ罪と限界に囚われ、自然環境破壊は深刻化し、構造的な不正が蔓延している姿を目にする。それでも張ダビデ牧師は、パウロの言葉通り「長い夜を明かし、夜明けを待ち焦がれる」そんな切実な姿勢で、被造物の呻きをともに感じ、祈りながら創造世界を守る働きをやめてはならない、と促す。結局、未来に対する神の約束が揺るぎないがゆえに、信者は今日の労苦と献身が決して無駄にならないと知り、喜びをもってそれを担うことができるのだ。

宇宙的救いは、人間の力で全面的に成就させるものではなく、究極的には神の主権と恵みによって完成されるものである。しかしその完成へと向かう過程の中で、「神の子たちの現れを首を長くして待っている」被造物の前で、教会は決して傍観者であってはならない。こうして張ダビデ牧師が強調する、被造物の呻きと宇宙的救いに対するビジョンは、信者にキリストのうちで「天と地を共に包み込む」大いなる使命を与える。神はすでにイエス・キリストを通して新しい創造の根を下ろされ、聖霊を通してその実体を現し続けておられる。だから私たちは「すでに」と「まだ」の間で、信仰をもってこの道を歩み続けるのである。


(3) の助けと祈りの秘密

ローマ書8章26〜27節で、パウロは「このように、御霊も弱いわたしたちを助けてくださるのです…」という驚くべき言葉を伝える。パウロは人間がどれほど弱く、欠けを抱えた存在かをよく知っている。私たちは時に何を求めるべきかさえもわからず、またどのように願いをささげるのが正しいか戸惑うことがある。張ダビデ牧師は、この言葉を取り上げながら、信者が本当に頼るべきお方は「取り成してくださる御霊」その方であることを強調する。

パウロは「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、御霊自らが、言葉に表せないうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるのです」(ローマ8:26)と言う。これは、私たちの無知と限界を超えて、神の御旨に完全にかなう祈りを御霊が代わりに捧げてくださるという意味である。また聖霊の「うめき」は、単なる落胆や悲しみではなく、私たちのために熱く訴える取り成しの姿として言えるだろう。

聖書は、神と人の間の唯一の仲保者としてイエス・キリストを示している(Ⅰテモテ2:5)。ヘブライ書7章25節も、イエスが「いつも生きていて彼らのためにとりなしている」と明かす。しかし、私たちがこの地上で祈るたびに、イエスが十字架で流された御血によって大胆に神の御前に近づくことを許されるだけでなく、聖霊ご自身も私たちの内に住まわれ、私たちの祈りを補正し、導いてくださる点において、信者は祈りにおいて計り知れない特権を与えられている。

張ダビデ牧師は、この真理を説明しながら、信者が「神を父と呼んで祈るということは非常に大いなる恵みであり、決して当然の権利ではない」と力説する。本来、罪人である人類はとうてい神に近づけるはずがなかった。しかしイエスが仲保者となられて垂れ幕を裂いてくださり(ヘブライ10:19〜20参照)、いまやその道の上に、聖霊が私たちの内面深く共におられ、祈りさえも補助してくださるというのである。

パウロは「人間の心を探られる方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます」(ローマ8:27)と語る。「心を探られる方」とは神なる御父である。私たちはしばしば見当はずれの祈りをし、神の御旨にかなわない願いを捧げることも多いが、聖霊はそのすべての不足を超えて神の御旨に沿ったとりなしをしてくださる。結局、私たちから出る祈りが未熟で不完全であっても、聖霊の内的な呻きと取り成しが、その祈りをふさわしいものへと「翻訳」してくださる、ということなのだ。

これは、信者が祈るときに経験する大きな自由と慰めでもある。祈りは、私が完璧に準備された言葉や意図をもって神に近づかなければ保証されないものではなく、むしろ自分の弱さや無知を神の前に正直に下ろし、聖霊の取り成しに委ねる過程だという意味である。張ダビデ牧師は、祈りを「神の御心とつながる通路」と呼び、もし聖霊の助けがなければ、その通路は簡単に塞がれたり歪められたりすると指摘する。

信者がこれを認識するなら、祈りはもはや「形式的義務」でも「自己肯定を示す手段」でもなく、全的に聖霊の恵みにすがる時間となる。それは御言葉の前に自分を開き、高ぶりを捨て、ひたすら神の善なる御旨を求める姿勢となって現れる。神は私たちの内面をご存じであり、私たちが短い知恵では発見できない道も備えておられる。このように、ローマ書8章にまとめられた「聖霊の取り成しの祈り」教理は、信者にとって計り知れない安堵感をもたらすのである。

また、この祈りは個人的次元にとどまらず、教会を一つに結ぶ霊的原動力となる。パウロは教会を「キリストの体」(Ⅰコリント12章、エフェソ4章)と何度も教える。各肢が互いにつながるように、祈りもまた互いの肢を支え合い、築き上げる。聖霊がある肢の弱さを見て嘆かれるなら、ほかの肢の祈りのうちにも同じ思いが注がれることがある。その結果、教会が一つとなって共に泣き、共に喜び、互いを見守る聖霊の共同体となる。張ダビデ牧師は「聖霊がわたしたち一人ひとりを取り成しつつ、同時に教会を一つの体へ導かれるという事実は、真の一致の奥義を悟らせる」と語る。

パウロは「もしわたしたちが、まだ見ていないものを望むのなら、忍耐をもって待ち望むのです」(ローマ8:25)とも言う。祈りと聖霊の助けに関する教訓は、この「忍耐の神学」と結びついている。神は確かに壮大な計画を持っておられ、宇宙的救いを成就していかれるが、すぐにその完全さが目に見えてくるわけではない。依然として世界には罪と不正が蔓延し、キリスト者たちも肉体の弱さから完全には脱せず、教会もまた理想と現実の間で様々な混乱を経験する。だからこそ聖霊の祈りの助けを受けつつ、ときに出産の苦しみを通るように忍耐して立ち向かわなければならない、とパウロは勧める。

張ダビデ牧師もまた、私たちの霊的成長と神の国の拡張は「パン種が粉のかたまり全体を膨らませる過程」に似ていると語り、そのときに必ず必要なのが「忍耐」だと説明する。小さな種が芽を出し、実を結ぶには時間と忍耐の労苦が伴うように、教会もまた聖霊の助けのうちに祈りながら粘り強く神の御旨を求めなければならない。この忍耐の過程を通して聖霊は様々な道で私たちを導き、私たちが自分自身では気づかなかった方法で神の御業を現してくださる。

パウロは8章後半で、こうした祈りの力と聖霊の働きをさらに拡大して、「神を愛する人々、すなわち御旨に従って召された人々には、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)とまで宣言する。聖霊は私たちの弱さやあらゆる状況の中でも、究極的には私たちを善と救いの道へ導く方であることを確信しているのだ。だからたとえ一寸先が見えない人間の視点からは理解し難い出来事が起こるとしても、信者は聖霊が呻きながら取り成してくださっていることを信じ、神の善なる摂理を祈り求めなければならない。

結局、パウロが語る「聖霊の助けと祈りの秘密」は、キリスト者が日常の中で神の力を体験し、教会共同体が互いを築き上げ、さらに宇宙的救いのビジョンに参加するための核心的原動力である。張ダビデ牧師はこれを「聖霊は限りなく人格的でありながら宇宙的でもあり、同時にわたしたちの心の内に住まわれる方だ」と要約する。これは、偉大で広大な神の救いのご計画も聖霊を通して実現され、小さな個人のささやかな祈りであっても、聖霊のうちに神に捧げられ、ふさわしい応答を受けるということを意味する。

まとめれば、ローマ書8章全体でパウロは、信者が現在経験する苦難、宇宙的救い、そして聖霊の助けについて確固たる証しをしている。「今の時の苦難は、将来の栄光に比べれば取るに足りない」という信仰が、私たちに未来への大胆な希望を与え、「被造物が切望しているのは神の子たちが現れること」というビジョンが、この信仰を個人の救いを越えて、あらゆる創造の秩序の回復へと拡張する。そして「聖霊が言葉に表せないうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださる」という宣言は、その全過程において聖霊の能動的な仲介があることを知らせ、私たちを安心させるのだ。

張ダビデ牧師は、こうしたパウロの教えを現代の教会と信徒の生活に再適用することによって、三つの重要なメッセージを伝えてきた。第一に、信仰の道には必ず苦難が伴うが、それは決して無意味なものではないという点。第二に、罪のゆえに崩れた宇宙的秩序が、最終的には神の御手によって回復されるという大局観。第三に、この救いのすべての過程で聖霊が私たちの祈りを助け、神の善なる御旨を成し遂げるように私たちを導いてくださるという事実である。

これら三つのメッセージは、信者がどのような状況でも絶望することなく、「見えないものを望みつつ、忍耐をもって待ち続ける」(ローマ8:25)ことを可能にする神学的土台となる。さらに教会は、まさにこの希望の上に互いに仕え合い、世の痛みと呻きを共に担いつつ、未来の栄光に対する確信をもって今日を生き抜くことになる。その過程で失敗や挫折を経験することがあっても、聖霊の助けを受ける祈りの中で、私たちはキリストの姿に似せられる敬虔の訓練を続けていくのだ。

結局、ローマ書8章はパウロの救済論が頂点を迎える章であり、張ダビデ牧師が力説してきた「宇宙的救い」と「聖霊の力動性」という神学的テーマを統合的に示す核心的通路でもある。苦しみに対する答えを見いだせず迷う人々に、未来の栄光と宇宙的回復のビジョンは慰めと力となる。また祈りが詰まり、神の御心を知ることができずに息苦しさを覚えるときにも、聖霊の言葉に表せない呻きが、信者の弱さを取り扱う力であることがはっきりと示される。

張ダビデ牧師は、ローマ書8章のメッセージを指して、「信仰の人は、すでに『闇を突き破り明けつつある夜明け』を先取りして見る人だ」と評する。そして、その夜明けの光こそが、現在の苦難に十分立ち向かわせ、共に苦しむ被造世界の声に耳を傾け、何をどう祈るべきかを悟らせる聖霊の照らしである。この聖霊の照らしの下で、信者は今日の茨の道の中でも明日咲く花を期待しながら前進することができるのだ。

何よりも、ローマ書8章に凝縮されたパウロの教えは、現代の教会が世の中で具体的に取るべき態度への指針を与える。世の流れが混沌と絶望に向かっているように見えても、キリスト者はすでに心のうちに「比較にならない未来の栄光」を宿している。環境破壊や生命軽視の風潮が蔓延していても、私たちは「被造物の呻き」を聞きつつ、宇宙的救いに向かって協力できる。あらゆる経済的・社会的危機に押し流されて祈りをやめたくなる瞬間が来ても、聖霊の「言葉に表せない呻き」を信じ、再びひざまずくのだ。

こうして張ダビデ牧師が解釈するローマ書8章は、教会と信者が進むべき三つの道を示す。第一に、いかなる苦難であっても、未来の栄光と比較して落胆しないこと。第二に、自分とは関係なさそうに見える自然や社会の苦悩の前でも、普遍的救いのビジョンをもって実践に踏み出すこと。第三に、自分の祈りと人生を聖霊の助けに明け渡し、日々神の御旨を問い求め従うこと。これらが「神がわたしたちを召された使命」であり、ついには神の国がこの地に実現する通路になるのだ。

張ダビデ牧師は、「神の国」という主題がイエス・キリストの教えの核心であり、使徒言行録の結論でもあり(使徒28:31)、ローマ書8章が指し示す最終目的地であると語る。だからキリスト者はいつでも「まず神の国とその義とを求めなさい」(マタイ6:33)という主の御言葉を思い起こす必要がある。私たちの目がこの世の不確実さだけにとどまってしまえば、たやすく挫折してしまう。しかし神の主権と歴史の究極的収束点を見つめる信仰は、決して揺るがないのだ。

結局、ローマ書8章18〜27節に含まれる内容は、パウロの福音神学の核心的主題をなす。そして張ダビデ牧師の解説によれば、この本文が語る「現在の苦難と未来の栄光」、「被造物の呻きと宇宙的救い」、「聖霊の助けと祈りの秘密」は、切り離して見ることができない有機的なつながりを持っている。今日の苦難が空虚に終わらないのは、宇宙的救いへの希望があるからであり、この信仰が現実化されるには聖霊の取り成しと祈りが不可欠だという論理的流れが明白だからだ。

パウロはローマ書全体で、まず人間の罪と義、律法と福音の問題を深く論じた上で、8章に至って救いの驚くべき結末と聖霊の力を賛美している。これは旧約の結論がイエス・キリストであるように、新約の結論が「神の国」であることを示す流れと一致する。張ダビデ牧師は、この完全なる救いに対するビジョンを回復しなければ、教会が世に対して正しい福音を宣言することもできず、信者たちも世俗的価値に揺さぶられずに信仰で勝利することは難しいと助言する。

一方、宇宙的救いは決して漠然とした理想ではない。パウロは具体的に、イエス・キリストの再臨と死の権威を打ち砕く復活の完成、そして新天新地における栄光あるご支配を言及する。張ダビデ牧師はこれを指して「聖書が提示する終末論は絶望の終末論ではなく、希望の終末論である」と説く。世の宗教や世俗思想の多くの終末論が、大抵破局的滅亡や人間自身の力で造り上げる不完全なユートピアを語るのとは異なり、聖書は万物を回復される神の積極的救いのみわざを宣言しているのだ。

ゆえにキリスト者は終末を恐れる人間ではなく、むしろ終末を待ち望みながら今日を誠実に生きる人間である。これこそが、ローマ書8章が語る希望の土台であり、聖霊によってその希望を現実へと運ぶために努力することが教会の使命である。張ダビデ牧師は「見えない望みを待ち望みながら忍耐する者こそ、ついには神の栄光にあずかることになる」というパウロの言葉を引用して、わたしたちの時代の教会が苦難を恐れず、被造世界の嘆きを回避せず、祈りをあきらめないよう、改めて訴える。

最後に、張ダビデ牧師はローマ書8章24節の「わたしたちはこの望みによって救われているのです。ところで、見ることのできる望みは望みではありません」という御言葉が、信者の実生活に与える意味を強調する。いくら目に見える現実が惨憺たるものであっても、信者は見えない神の約束をより確かなものとして見なすことができる。なぜなら、信仰は「望んでいる事がらを保証し、目に見えない事実を確証するもの」(ヘブライ11:1)だからである。この「見えないもの」こそが信者の立つことのできる不動の土台だ。

結局、私たちが「すでに得た」と宣言する救いは、実際には「まだ完成されていない救い」であり、いまも世界を揺るがす罪と不正の勢力との間で霊的戦いが起こっている。被造物は呻き、教会はときに内外の迫害によって苦しめられる。それでも、この戦いの最終的な結果は、すでにキリストの復活と再臨のうちに勝利が決定しているという事実こそ、パウロが告げる祝福の知らせである。

信者は、その勝利が完全に現実化する終末を見つめつつ、今日を忠実に生きる「巡礼者」だ。その道のりを行く中で、張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、ひとりさまよっているのではなく、聖霊の導きと取り成しの祈りに支えられている。聖霊は私たちの弱さをあわれみ、不完全な祈りを神の御旨にかなうように変えてくださり、宇宙的救いのビジョンへと日々招いてくださるのである。

こうしてローマ書8章に示された「現在の苦難と未来の栄光、被造物の呻きと宇宙的救い、聖霊の助けと祈りの秘密」という三つの軸は、張ダビデ牧師が語る神学的メッセージの核心を成す。第一に、現在の苦難のうちにあるが、やがて臨む栄光を見て大胆であれ。第二に、被造物の呻きは無意味ではないので、宇宙的救いに向かって共に前進せよ。第三に、祈りの重荷を聖霊に委ね、その呻きと取り成しを信頼して祈れ。

これら三つの小主題は相互補完的であり、同じ軌道を描いている。苦難の解釈は未来の栄光のビジョンの中でなされ、宇宙的救いの大きな絵がなければ、現在の苦難が下手をすると自己憐憫や無力感へと陥る危険があるが、この絵を知るなら、教会が世に仕える動機が生まれる。そして最終的にそれを現実化し成し遂げる具体的な力こそ、聖霊の助けと祈りである。その祈りの中で信者は新たな勇気と知恵、そして実行意志を得る。

これらすべては「神がわたしたちと共にいてくださることを保証する」聖霊の臨在から生まれる。パウロが「御霊の初穂」(ローマ8:23)と呼ぶ聖霊の内住は、信者がイエス・キリストにあることを確証する最も明らかな証拠である。その証のもと、私たちは「養子となること、すなわちわたしたちの体が贖われるのを待ち望んでいる」。私たちの身体、すなわち全人格と教会全体が、完全に贖われて神の国にふさわしい栄光の姿に変えられる日を待ち望む。張ダビデ牧師はまさにこの部分こそ、今の教会における重要課題だと語る。信者各々が聖霊のみ手の中で少しずつ変えられ、さらに教会が世のただ中で神の善を実践しながら歩むということである。

かくして、ローマ書8章18〜27節はパウロ神学の精髄の一つだといえよう。張ダビデ牧師が絶えず説いてきたように、苦難に直面するたびキリストの十字架を思い出し、被造物の呻きの前では神の大いなる構想を思い描き、祈るときには聖霊の取り成しにより頼む。その原理通りに生きるとき、教会は「歴史を変えるラディカル(radical)な共同体」となりうるし、個人は「贖いの恵み」を日常で具現できる。

結論として、私たちがローマ書8章のこのメッセージをつかむならば、「今日の痛み」が「明日の希望」へと通じる道となる。被造物が呻くのを見て「まだ遠い」と絶望するのではなく、その声を聞き、ともに嘆き、祈り、神の子として創造世界の回復に参加できる。しかもそのすべての瞬間に、聖霊が私たちの弱さを助けておられるゆえに、一見不可能に思える状況でも「力を与えてくださる方によって」(ピリピ4:13)私たちの使命を全うできる。

張ダビデ牧師は、「栄光の究極的完成は、時が流れるほどいっそう鮮明になっていく」と語り、この栄光を見据える教会が、この地の絶望と限界を乗り越えて世を仕える具体的行動に踏み出すべきだと促す。キリスト者の終末論的展望が、この世の具体的問題と切り離された遠い未来の幻想に終わらず、むしろ現在を変革する力とならなくてはならない、というわけだ。そして私たちは、その力がただ聖霊の助けと、嘆きに満ちた祈りを通してこそ可能になることを、ローマ書8章を通じてはっきりと学ぶ。

最終的に、こうしたすべての内容を総合すれば、パウロが語る「現在の苦難」は偶然的で無意味なものではなく、「将来受ける栄光」もまた漠然とした観念ではないことが分かる。被造物の呻きと宇宙的救いは、宇宙と私たちすべてがともに渇望する未来であり、その実現のために聖霊が言葉に表せないうめきでもって私たちを助けてくださる。この三重のメッセージのうちで、信者は「すでに」得た救いの喜びと、「まだ」完成していない救いへの憧れを抱きながら生きているのだ。

張ダビデ牧師は、教会がこのメッセージを世に正しく伝えるなら、人々は絶望や無力感の中で新しい希望を発見できるだろうと確信している。苦しみの問題が解決されず、むしろ増大する時代だからこそ、「まさにその苦難のただなかで咲く栄光」という逆説の福音こそが切実に求められる知らせだ。私たちがこの福音にすがって生きるとき、神は私たちの人生を通して働かれ、終末に成し遂げられる宇宙的救いの前兆を、少しずつこの地上に実現してくださる。

このように、ローマ書8章18〜27節の豊かな内容は、単に古文書に記された使徒パウロの教訓にとどまらず、今日を生きるキリスト者にも同じく適用される。張ダビデ牧師は、この本文を通じて苦難に対する責任ある態度、被造物と共にする連帯、そして聖霊に頼る祈りの生活を絶えず説いてきた。その結果、個人の信仰と教会共同体、そして社会全般にわたって「神の子たち」が現れる道を模索してきたのである。

最終的に、パウロが見据える救いの視野は個人の救いにとどまらず、宇宙的領域を含む。そしてその道を歩むのに必要な力は聖霊が与えてくださる。「わたしたちは望みによって救われているのです」という宣言は今なお有効である。この地上の生活がいかに複雑でつらいとしても、張ダビデ牧師が言うように、私たちはすでに「比べものにならない未来の栄光」にあずかることを信じているからこそ、今日もまた一歩を踏み出すことができる。その信仰がある限り、私たちの苦難はキリストの栄光に参与する通路となり、被造物の呻きもいずれ終わり、喜びの賛美へと変わるだろう。そして、この驚くべき転換のための重要な鍵が「聖霊の助けに依存した祈り」なのである。

これこそが、ローマ書8章18節から27節に対する張ダビデ牧師の解釈が提示する最終的ビジョンである。信者は、今日の現実に埋没することなく、宇宙的救いを夢見、聖霊のうちで祈りの場を守る。そして、この三重の姿勢が決して夢想的空想や受動的あきらめに流れず、むしろ世界に仕え、変えていく原動力となることを、私たちは教会史と信仰の歴史を通して確認することができる。こうして、現在の苦難と未来の栄光、被造物の呻きと宇宙的救い、そして聖霊の助けと祈りの秘密が、三位一体的救いの展望のうちで統合的

二つの契約 – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 律法と論的点から見た二つの契約の意味

ガラテヤ書4章21節以下で、使徒パウロはガラテヤ教会にもう一つの比喩を提示する。これは律法と福音、あるいは律法と恵みの関係を明確に示すための比喩である。パウロはすでにガラテヤ書全体を通して「ただ恵みによって、ただ信仰によって救われる」という福音の核心的真理を強調してきた。それにもかかわらず、ガラテヤ教会の中に入り込んだ数名の偽教師たち(ユダヤ主義者)の影響で、「旧約の律法的行為、すなわち割礼や祭日・日や月の遵守をしなければ真の救いを得られない」と混乱していたのである。パウロはそのような傾向を「律法の下にとどまりたいと思う者たち」(ガラテヤ4:21)と呼んだ上で、創世記16章と17章に記録されたアブラハムの物語を引き合いに出す。

張ダビデ牧師はこの本文を解説しながら、「救済論の問題は結局、人間論とも密接に結びついている」と強調する。人間とはいかなる存在か。人間は神に絶対的に依存する存在であり、神なしには一瞬たりとも「真のいのち」を享受できない有限な存在だというのだ。伝道の書の表現どおり、「神は天におられ、おまえは地にいるのだ」(伝5:2)という厳然たる事実を認めなければ、人間は自らの力で何でもできると錯覚し、結局は破滅に向かわざるを得ない。近代精神が「人間の自律」や「理性」を重んじ、ニーチェが「神は死んだ」と語った思想も、究極的には「神なしに自分を至上としよう」とする試みの結果だった。しかし、人間から神を除けば、人間そのものは無に近い存在だという事実を、パウロはガラテヤ書でもローマ書でも明言しており、張ダビデ牧師も現代の信仰共同体の例を挙げながら何度も強調してきた。

さて、ガラテヤ書4章21節以下に登場する「二人の女の比喩」は、まさにこのような律法主義と恵みの福音との葛藤をはっきりと浮き彫りにする。パウロは「アブラハムには二人の子がいた」と語る(ガラテヤ4:22)。その子の一人は女奴隷、すなわちハガルから生まれたイシュマエルであり、もう一人は自由の身である女、すなわちサラから生まれたイサクである。女奴隷ハガルから生まれた子は「肉によって生まれた」が、サラから生まれた子は「約束によって生まれた」(ガラテヤ4:23)。これは創世記16章と17章に描かれているアブラハム、サラ、そしてハガルの物語に基づいている。

創世記16章を見ると、アブラハムがカナンの地に移住してからもサラとの間に子がなかったため、サラはエジプト人の女奴隷ハガルを通して子孫を得るようアブラハムに提案する。これは「約束を与えた神を信頼しきれず、人間的な方法で後継ぎを得ようとした」不信の決定であった。「サライがアブラムに言った、『主は私の出産を許されないから、どうか私の女奴隷のところに入りなさい』」(創16:2)というくだりによって、彼らの焦りがうかがえる。結局アブラハムはハガルを通してイシュマエルを得るが、ハガルが身ごもったことを知った後にはサラを軽んじるという事態まで起こる。人間の力で問題を解決しようとした試みは、結果的に争いと傷、そして家庭の不和を招いた。これこそが「肉によって生まれたもの」の象徴である、と張ダビデ牧師は解釈する。

一方、創世記17章では神が再びアブラハムに現れて契約を更新する。アブラハムが99歳になった時、神は「わたしの前を歩み、全き者であれ」(創17:1)と言い、サラを通して生まれる子の名を「イサク」と定められた。このとき神がアブラハムと結んだ契約の一つが「割礼の契約」である。創世記17章10節で「あなたがたのうちの男はすべて割礼を受けよ。これがわたしとあなたがた、そしてあなたがたの子孫との間で守るべきわたしの契約である」と命じ、その後、実際にアブラハムはその日すべての男性に割礼を施す。そうしてサラを通してイサクが誕生することになる。

パウロはガラテヤ書で、この「割礼の契約」について論じるユダヤ主義者たちに対して新たな視点を提示する。「割礼は心に施すべきものであり、文字ではなく御霊によるものだ」(ローマ2:29)と語るローマ書2章の教えと同様に、パウロは私たちの救いが「外面的な律法の行為(割礼)」によってではなく、ただ信仰、ただ恵みに根ざさなければならないと改めて強調する。そうした上でガラテヤ書4章24節で「これらのことは比喩である。これらの女たちは二つの契約を表す。一つはシナイ山から出てきて奴隷を生むもので、これはハガルである」と述べる。シナイ山はモーセが律法を受けた場所であり、「今あるエルサレム」(ガラテヤ4:25)は律法(特に割礼)を頑なに守ろうとするユダヤ主義教師たちの拠点である。パウロはこれを「奴隷」の状態と呼んでいる。律法によって神に近づこうとするとき、神は恐るべき主人であり、人間は奴隷に成り下がってしまう。これは教会が神との深い愛の関係を結ばず、宗教的義務としてのみ律法を守ろうとする姿を風刺しているともいえる。

しかし、「上にあるエルサレムは自由の者であり、私たちの母である」(ガラテヤ4:26)と宣言し、天から下ってくる恵みと自由を謳う。黙示録21章に登場する「天から下ってくる聖なる都エルサレム」が、「小羊の花嫁」、つまりキリストの花嫁として描かれているが、これは人間の力で到達する地上のエルサレムとは異なり、神の恵みによって与えられる「上のエルサレム」を象徴しているのだ。パウロは「あなたがたはイサクのように約束の子である」(ガラテヤ4:28)と宣言する。私たちがイエス・キリストを信じて聖霊を受け、神の子どもとされたときに、キリストの自由にあずかるようになるという意味だ。もはや律法の下にある奴隷の子ではなく、約束によって与えられた真の自由の子であることを忘れてはならない。張ダビデ牧師はここで、教会が「恵みの教会」と「律法の教会」に分かれる可能性がある点に注目すべきだと語る。恵みではなく律法や形式に縛られ、互いを突き刺し合い、互いを裁き合って争いが絶えない教会の姿は、結局「女奴隷の子ども」が支配する教会に相当するからだ。

ゆえにパウロは一歩進んで「聖書は何と言っているか。『女奴隷とその子を追い出せ』」(ガラテヤ4:30)と述べる。これは創世記21章で実際にアブラハムがハガルとイシュマエルを追い出した出来事を引用しており、教会の中で律法主義が幅を利かせないように、明確な決断と区別が必要だと強調するのだ。このような決断がなければ福音の純粋性は回復できない。当時のガラテヤ教会は、律法主義者たちの影響で互いに非難し合い争い、ついには使徒パウロの権威までも揺るがす深刻な事態に陥っていた。しかしパウロはその状況を解決するために、律法主義をはっきり追い出し、「自由を得させるためにキリストは私たちを自由にしてくださった」(ガラテヤ5:1)という福音へと戻るよう促す。行いや努力、律法の遵守によってではなく、ただ信仰によって救われることを明確にしておかないと、教会はすぐに別の宗教的束縛へと戻ってしまうからである。

このように、ガラテヤ書4章の核心は「二つの契約」の対比にある。地のエルサレム、シナイ山からもたらされた律法的契約と、上にあるエルサレム、すなわち恵みと約束の契約が対照的に並べられている。女奴隷ハガルと自由の女サラが対照的であるのと同様だ。パウロは律法そのものが悪いと言っているのではない。律法は罪を悟らせ、罪の下にいた人間がキリストへと向かうよう導く「養育係」(ガラテヤ3:24)の役割を果たす。しかし、律法を「救いの絶対必要条件」として据えてしまった瞬間に、私たちはキリストの十字架と恵みを軽視し、救いがすべて神の愛から発しているという福音の真理を損なうことになる。張ダビデ牧師が幾度も強調してきたように、教会が最も力を尽くして守るべきなのは「律法」ではなく、「律法を完成されたイエス・キリストの愛と恵み」である。


Ⅱ. 約束の子が享受する自由と救いの本質

第二の小見出しに移ると、ガラテヤ書5章でパウロは前述した「奴隷と自由人、律法と恵み」の対比をさらに実際的な勧めへと導く。「キリストは自由を得させるために私たちを自由にしてくださったのだから、しっかり立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」(ガラテヤ5:1)という宣言がそれを要約している。パウロは割礼をはじめとするあらゆる律法を守らなければ救いを得られないと主張する者たちに向けて、「もしあなたがたが割礼を受けるならば、キリストはあなたがたにとってなんの益もない」(ガラテヤ5:2)と断固として語る。これは「外面的な儀式(割礼)」が救いの必須条件にはなり得ないことを意味する。むしろ「肉体の割礼」にとらわれるなら、「律法全体を行う義務を負う者」となってしまい、律法を守れなかった時には罪の重荷から逃れられない結果をもたらすと考えているのだ。

パウロは「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのである」(ガラテヤ5:4)と語り、救いの本質がどこにあるのかを明確に宣言する。救いはただ神の恵みによって、イエス・キリストの十字架によって、そして聖霊が私たちの心を悔い改めへと導くことによって成し遂げられる。人間のいかなる善行や功績でもなく、神が差し伸べた救いの道に「信仰」で応答すること、それがすべてなのである。パウロはこれを「私たちは御霊によって、信仰により義とされる望みを待ち望んでいる」(ガラテヤ5:5)と表現する。義とされる(称義)はすでに一度で与えられたが、同時に聖霊の助けに従って聖なる道を歩む中で完成へと至る二重の側面(称義と聖化)を示している。

このように、救いを「恵みと信仰」で説明するパウロの教えは、「自由」を教会の重要な特徴として際立たせる。張ダビデ牧師は、福音的な教会であれば、この「自由」の正体を必ず強調しなければならないと語る。人間は本来、罪の下で自由を失っており、律法の下ではその罪がますます鮮明になる。罪の報酬は死である以上、罪人である人間にとって神は怒りの対象でしかなかった。しかし、イエス・キリストの代償的死と復活によって私たちには新しい道が開かれた。誰でもイエス・キリストを信じるなら、私たちの内に住まわれる聖霊によって「アバ、父よ」(ガラテヤ4:6)と呼ぶことができるようになったのである。これこそが回復された「関係」であり、救われた信徒が得る真の自由である。

ではなぜ、ある教会や信徒たちは、このような自由が与えられているにもかかわらず、再び律法や宗教的形式に縛られようとするのか。ガラテヤ書当時も今日も、人は自らの行いを誇示したいという本能がある。「こんなによい行いをした」「熱心に宗教的義務を果たした」「善行を積んだ」などを通して、自分を義と認めてもらいたいという心理がはたらく。また、恐れも一因となる。「もしこれらの義務をすべて果たさなければ、救いを失ってしまうのではないか」という不安感に駆られた人々は、外面的規則を守り通すことで安心したいと願うのである。だがパウロは、それこそが福音の本質を隠す偽教師たちの惑わしだと警告する。もし救いが人間の行いにかかっているとするなら、結局は誰も完全には救われず、真の自由も得られないことになる。

パウロが提示する自由は決して放縦でも自己中心的な欲望の実現を容認するものではない。むしろ彼は「ただし、その自由を肉の機会とせず、愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)と語る。本物の福音は自由を与えるが、その自由はやがて愛の実践へと結実する。パウロは「あなたがたは自由に召されたのだが、その自由を肉の機会としないように」と述べ、隣人愛こそが律法の成就であり、キリストの法を全うする道であると教える。奴隷のように生きてきた者たちに「再び奴隷のくびきを負わされないように」と言うほど自由を強調したが、それでも同時に「兄弟を仕える」「互いの重荷を担い合う」という愛の実践(ガラテヤ6:2)を通して、初めて真に律法を完成できると考えているのだ。

張ダビデ牧師はこの言葉を現代の教会に適用しながら、信徒同士が互いを批判し合い、裁き合い、相手の欠点を責めたてて共同体に混乱をもたらす姿は、ガラテヤ教会と本質的に変わらない場合があると警告する。教会が律法的思考に支配されれば、結局は「互いに噛み合い、食い合えば、互いに滅ぼし合うことにならないよう注意しなさい」(ガラテヤ5:15)というパウロの警告が現実化してしまう。それゆえ、真に福音の自由を享受する教会であれば、信徒同士が互いに憐れみを抱き、顧み合いながら愛の律法を実践するはずである。これこそが、救われた者たちが得る自由の真の実りなのだ。

この自由の源はイエス・キリストの十字架と復活にある。神が人間を救われた方法は、その全能を強引に行使したものではなく、むしろご自身を空しくしてへりくだり、しもべの姿を取って(ピリピ2:6-7)、ついには私たちの罪を担い十字架で死なれたことであった(イザヤ53:5)。イエスの十字架は涙と苦しみの象徴である一方で、同時に罪人である私たちのための愛の頂点でもある。その愛は私たちのすべての罪を赦し、「今や私たちは『アバ、父よ』と叫ぶことができるようになった」とパウロは語る。信仰によって恵みを受けた私たちが、聖霊の導きによってこの自由と喜びを享受しながら生きることこそ、福音の力であり、教会の本質なのだ。張ダビデ牧師も繰り返しこの点を力説し、教会がいかなる宗教的義務や功績主義、律法主義的態度ではなく、「十字架の恵み」にのみ全面的に立脚すべきだと説いてきた。


Ⅲ. きと教会の愛葛藤を越えたの共同体へ

ガラテヤ書5章後半に入ると、パウロは「御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲望を満たすことはありません」(ガラテヤ5:16)と勧める。これは前述した「自由」が「聖霊のうちにとどまる自由」であることを改めて確認させる箇所だ。聖霊とは私たちから遠く離れた神秘的な霊ではなく、イエス・キリストを信じる者の内に住まわれる神の御霊である。聖霊は私たちの心に神の愛を注ぎ(ローマ5:5)、私たちに真理を悟らせ(ヨハネ16:13)、キリストに倣うよう日々導かれる。

パウロはガラテヤ書5章19節から21節で「肉の行い」を列挙し、22節から23節では「御霊の実」を提示する。肉の行いとは、不品行・汚れ・好色・偶像礼拝・争い・ねたみ・分裂・異端など、最終的には人間の罪性や自己中心的欲望が現れるものである。一方、御霊の実は愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・誠実・柔和・自制など、一言でいえばキリストの品性に近づく姿である。張ダビデ牧師は、教会が律法主義に陥るならば、必然的に裁きや争い、分裂など「肉の行い」が表れやすいと指摘する。逆に教会が聖霊の中で恵みの福音に立つならば、そこから自然に愛と喜び、平和と忍耐、思いやりと誠実が生まれ、健全な共同体に成長すると説く。

パウロは「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊によって歩もうではありませんか」(ガラテヤ5:25)と勧める。救われた信徒はすでに聖霊によって生まれ変わっているという前提に立つなら、日々の生活でも「聖霊の導き」に従順になるべきだという意味である。特にガラテヤ書6章2節で「互いの重荷を負い合い、そうしてキリストの律法を全うしなさい」と勧告する。これはイエスが示された仕えとへりくだり、さらには十字架の愛の精神を教会共同体の中で再現せよということだ。イエスが十字架によって私たちの重い罪の荷を代わりに背負ってくださったように、私たちも互いの弱さを担い合い、互いに世話し合う教会となるべきなのである。律法的な教会は「誰がより律法をよく守れるか」「誰がより正しいのか」を問題にして裁きが横行するが、福音的な教会はむしろ「誰がより愛をもって仕えられるか」「誰がよりへりくだって兄弟の重荷を一緒に担えるか」を重んじる。

パウロにとってガラテヤ教会は、第1回伝道旅行中に彼自身が開拓した、いわば「初恋の実り」ともいえる教会だった。パウロが病気に苦しんでいた頃、ガラテヤ教会は彼を心から看病し、「もしできることなら、あなたがたは自分の目さえもえぐり出して私にくれたことでしょう」(ガラテヤ4:15)と表現されるほど大きな愛を示した。しかし、ほどなくして彼らは偽教師たちの影響を受けてパウロを排斥するようになり、律法的教義にとらわれてしまった。さらにはパウロの使徒職さえも揺さぶるところにまで至った。このような深刻な内紛のただ中で、パウロは手紙を書き、福音の純粋性を守り教会を回復させようと試みたのである。

ガラテヤ書が示す葛藤の様相は、今日においてもよく起こりうる。教会の中で多様な思想や教えが行き交い、世俗的価値観や人本主義的思考が入り込んで福音の本質を揺るがすとき、教会は分裂と混乱を経験する。張ダビデ牧師は、このような危機に直面したときに教会が正しく立ち上がるためには、ガラテヤ書の教え、すなわち「ただ恵み、ただ信仰」に忠実でなければならないと説く。律法的基準や功績主義が頭をもたげる余地を与えず、罪人である私たちのために十字架でいのちを投げ出されたイエス・キリストの愛を思い起こすべきだ。そうするとき、再び教会の内に「御霊の実」が実り、愛と喜び、平和と和解、忍耐と善意が回復される。

このように、律法に縛られた信仰ではなく、十字架を中心とする福音から流れ出る自由と愛を求めることが、ガラテヤ書5章全体の目指すところである。「少しのパン種でも粉の塊全体を膨らませる」(ガラテヤ5:9)という言葉のように、わずかな律法主義的思考が教会全体を歪めてしまう可能性を警戒しなければならない。パウロは当時の偽教師に対して非常に厳しく「いっそ自ら身を切ってしまえばよい」(ガラテヤ5:12)とまで表現する。これは福音の純粋性と自由をいかに尊んでいたかを端的に示すものである。もしここでパウロが妥協していたなら、ガラテヤ教会はエルサレムのユダヤ主義者たちのように、外面的律法行為に縛られて福音の本質を見失っていただろう。

結局パウロは、ガラテヤの信徒たちを叱責しつつも、同時に彼らを信頼している。「あなたがたは他の考えを決して抱かないと、私は主にあって確信している」(ガラテヤ5:10)と告白する。教会に分裂が生じ、その一部が偽教師に流されたからといって、彼らを完全に見捨てたり裁きの姿勢に終始したりはしない。むしろ真理を教え、彼らが再び信仰のうちに回復することを望んでいる。ここにこそ、真の福音が持つ「回復の力」がある。そしてこの姿勢は、張ダビデ牧師が牧会現場でしばしば強調している「許し、回復、再び信頼する」という精神とも通じる。

まとめると、ガラテヤ書5章が語る「自由」とは、単に束縛や拘束のない状態を意味するのではなく、キリストにあって罪と律法の裁きから解放されて真のいのちを得た者の姿を指している。そしてこの自由は決して放縦に流れることなく、愛の実践へと帰結する点が重要だ。パウロ自身は「私はすべての人に対して自由でありながら、すべての人の奴隷となった」(第一コリント9:19)と述べているが、これはまさに愛の仕えを示す尊い例である。教会も同じく、聖霊が与える自由を享受しつつも、兄弟姉妹に仕え合い、互いの重荷を担い合う「奴隷」の心を抱くとき、真の共同体としての喜びと豊かさを体験できるのだ。

張ダビデ牧師はこれらの聖句を説教しながら、現代の教会に本当に必要なのは、制度的・形式的な改革よりも「十字架の福音が改めて教会の中心に据えられる刷新」であると力説した。仕えがなく、愛がなく、聖霊の実を結ばない教会は、世俗的な影響力や規模がどれほど大きくとも、結局は律法的で形式的な「奴隷の教会」へと転落しやすい。ゆえに教会は絶えず自己点検を行い、福音の本質に即して歩んでいるか、互いの弱さを受けとめてともに泣き、ともに喜んでいるか、とりわけイエス・キリストの十字架がすべての説教と働きの焦点となっているかを確かめる必要がある。

要するに、ガラテヤ書が語る二つの契約、すなわち律法的方式(ハガル)と約束の恵み(サラ)は、今なお教会の内で対立を引き起こしうる。律法的思考は行いや資格を優先させる一方、福音的思考はただ信仰、ただ恵みによって救われることを語る。そしてこの律法的宗教は簡単に人々の間に比較や競争、裁き、分裂をもたらす。しかし福音的な教会は、愛と自由、そして聖霊の実によって一致する。最終的にパウロが言いたかった結論は明確だ。「私たちは自由の女の子どもであり、イサクのように約束の子として生きよう。イエス・キリストの恵みなしには私たちは何者でもないことを認め、この十字架の贖いから始まる自由を互いに分かち合おう」ということである。

張ダビデ牧師はこの御言葉を土台に、現代の教会がより一層「恵み中心の福音」によって新生しなければならないと強く説いている。彼が多様な説教や著書で指摘してきたように、教会の中に入り込んだ世俗主義、功績主義、律法主義、祈福主義などは、ガラテヤ教会当時すでに根を下ろしていた問題の現代版でもある。「宗教的熱心」はあるかもしれないが「愛が冷えてしまった」教会であれば、外見上は立派に見えても真の福音の共同体とは呼び難い。一方、愛をもって互いに仕え合い、十字架の恵みを賛美し、聖霊の実を結んでいく教会こそ、ガラテヤ書が強調する「約束の子どもたち」が集まる教会といえる。そのような教会こそ、自由と解放、慰めと希望を叫ぶ福音の声を世に伝えられる真の共同体である。

結局、私たちにとって最も重要な問いはこれである。「私は女奴隷の子なのか、それとも自由の女サラの子なのか」。律法的思考に囚われ、宗教的義務感で信仰生活をしているのか、それとも恵みによって新たに生まれた自由を享受し、聖霊のうちに愛を実践しているのか。張ダビデ牧師はこれを各信徒に問い続け、教会がどの道を選ぶのかを決断しなければならないと語ってきた。ガラテヤ書のメッセージは2000年前のガラテヤ地方に限られたものではない。そのメッセージは時代を超えて、「救いがどこから来るのか(神の恵み)」「人間がどんな存在であるのか(神に絶対依存する被造物)」「そして教会共同体がどうあるべきか(聖霊のうちに自由と愛を実践する共同体)」という本質的問題を改めて想起させる。

張ダビデ牧師が一貫して強調してきたように、教会は神の家族であり、キリストのからだである以上、決してある肢体が苦しむときに目を背けたり、不十分な肢体を裁いて追い出したりするようなあり方であってはならない。「互いの重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ6:2)というガラテヤ書の教えは、イエスが弟子たちの足を洗われた出来事(ヨハネ13章)と共に、仕えと愛の教会がどのような姿であるべきかを生々しく示している。これこそ「聖霊に導かれる教会」の歩む道であり、パウロと張ダビデ牧師が後世の教会に伝えたかった福音の核心的価値なのである。

最後に、ガラテヤ書の流れを要約すると、教会がパウロの教えに従うとき、「互いの重荷を負い合いなさい。そうしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラテヤ6:2)という実践的側面を身につけることができる。教会はこの神の愛と恵みに感化され、争いや派閥の対立、裁きや非難ではなく、互いを生かし合い仕え合う共同体へと生まれ変わる。そして聖霊のうちに成長しつつ、肉の行いを捨て、聖霊の実を結ぶようになる。この一連の過程を通して教会は福音によって真の自由といのちを味わい、主が再び来られる日まで信仰のうちに立ち続けるのである。パウロが語る「義の望みを待ち望んでいる」(ガラテヤ5:5)という表現は、現在と未来を貫く動的な救いの概念をよく示している。すでに救われていながら、いまだ完成していない過程の中を、私たちは聖霊とともに聖なる道を目指して巡礼の旅を続けているのだ。

結局ガラテヤ書が伝えるメッセージははっきりしている。「再び奴隷のくびきを負わされないようにせよ」。すでに救われた自由人として召されたのに、その自由をみだりに肉のために用いず、愛を実践しながら互いに仕えよ、ということだ。律法主義によって人々を裁き、分裂を引き起こすのは福音の本質ではなく、人間的な欲望や恐れの産物にすぎない。教会はむしろ「天にあるエルサレム」、すなわち上から与えられる約束のうちに真の自由を謳歌しながら「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになったことを、常に覚えていなければならない。張ダビデ牧師はこの福音の自由とキリストの愛を、教会現場に具体的に適用するよう訴え続けてきた。律法と恵み、人間の功績と信仰、形式と真実性の間で揺れ動く多くの人々が、ガラテヤ書のメッセージと共に再び「十字架中心の福音」へと立ち帰ることを切望しているのである。

このように、ガラテヤ書4章と5章は過去のガラテヤ教会だけに向けられた使徒的訓戒で終わるのではなく、今日でも依然として私たちに貴重な洞察を与える。教会の危機や分裂の大半は、人間の欲、自己義に対する過度な確信、そして恵みを忘れ去ることから起因する。しかし教会が聖霊のうちに神の恵みと愛を改めてつかむなら、そこから新たな回復とリバイバルが始まる。教会が「自由を得させるために自由をくださったキリスト」を中心にお迎えし、「互いの重荷を担い合う」愛を実践するなら、どのような葛藤や世俗的誘惑も打ち勝つ力を得られるのである。

結論として、ガラテヤ書に現れる「律法と恵み」「奴隷と自由」という二つの道は、単に過去の歴史的葛藤を描いたものにとどまらない。いまこの瞬間も教会の中で、イエス・キリストという福音の核心と聖霊の働きが生き生きと進んでいるか、それとも相変わらず人間の功績や律法的行いで自分を正当化したいのか、その岐路に私たちは立たされている。私たちは皆「約束の子ども」(ガラテヤ4:28)とされ、恵みによってもはや奴隷ではなく、息子・娘の身分を与えられた(ガラテヤ4:7)。ゆえに私たちの生活や教会生活全般で、この事実を忘れずに、徹底的に福音に基づき歩んでいくなら、ガラテヤ書の語る真の自由と聖霊の実を豊かに結ぶことができるだろう。張ダビデ牧師が強調し続けてきたように、「教会とは、人間的制度や形式によるのではなく、神の無条件の愛とイエス・キリストの十字架の恵みの上に建てられた共同体」であることを心に刻もう。そうすることで私たちは真に福音的な教会、聖霊の教会、自由の教会として、新たに立ち上がることができるのである。

La Trinité – Pasteur David Jang

Introduction

La seconde épître aux Corinthiens, de la fin du chapitre 12 (12.11 et suivants) jusqu’au dernier verset du chapitre 13 (13.13), constitue la conclusion particulièrement marquante de la lettre de l’apôtre Paul à l’Église de Corinthe. Dans ce passage, Paul ne se contente pas de donner de simples enseignements. Il dévoile la situation grave à laquelle il est confronté, réaffirme son autorité et la sincérité de sa vocation apostolique, et en appelle à la pureté de l’Évangile ainsi qu’à la maturité de la communauté. Ce texte est à la fois le fruit de la longue relation qu’il a entretenue avec l’Église de Corinthe, et l’ultime avertissement solennel qu’il lance.

En commentant et en prêchant ce texte, le pasteur David Jang souligne combien les problèmes de l’Église de Corinthe restent d’actualité, deux mille ans plus tard, dans l’Église contemporaine. La nature humaine et les travers de la communauté chrétienne n’ont guère changé : immaturité spirituelle, questions financières, malentendus autour de l’autorité, faux enseignements, etc. Ainsi, la seconde épître aux Corinthiens, souvent appelée la « lettre écrite dans les larmes » (tearful letter), ne se réduit pas à un document historique ; elle demeure un avertissement vivant et un message d’espérance pour toutes les Églises et tous les croyants de tous les temps.

À travers les dernières exhortations et remontrances de Paul aux chrétiens de Corinthe, le pasteur David Jang met en lumière la manière dont l’Église d’aujourd’hui peut rester solidement enracinée dans l’Évangile, tendre à la maturité communautaire, gérer correctement l’autorité des responsables et l’obéissance des membres, tout en veillant, dans le Saint-Esprit, à un examen constant de la foi et à la pratique de l’amour. Il indique également, de façon concrète, comment l’Église peut surmonter spirituellement des problèmes complexes tels que la gestion financière, les faux docteurs, les conflits personnels ou la négligence du péché.

Dans les pages qui suivent, nous proposons une relecture en cinq thèmes essentiels.

  1. 1. La réprimande ferme de Paul et la compréhension du contexte historique de Corinthe
  2. 2. L’autorité apostolique et le paradoxe de l’humilité
  3. 3. L’argent, les faux docteurs et la défense de la pureté de l’Évangile
  4. 4. L’édification de la communauté par l’équilibre entre amour, patience et discipline
  5. 5. La bénédiction trinitaire et la croissance intégrale de l’Église

Ces cinq axes, s’appuyant sur la perspicacité pastorale et le regard théologique du pasteur David Jang, visent à aider l’Église d’aujourd’hui à mieux comprendre et appliquer l’enseignement de 2 Corinthiens 12–13.

Thème 1 : La réprimande ferme de Paul et la situation de l’Église de Corinthe

  1. 1. Contexte historique et détresse de Paul
    Au cours de son deuxième voyage missionnaire, Paul séjourna à Corinthe (environ un an et demi) et y fonda l’Église, y établissant les bases de l’Évangile. Par la suite, il poursuivit son œuvre missionnaire ailleurs. Pendant son absence, de faux docteurs s’infiltrèrent dans la communauté, semant la confusion et mettant en doute l’autorité apostolique de Paul. En propageant un autre évangile, ils troublèrent la foi des fidèles. Pour endiguer cette crise, Paul écrivit plusieurs lettres et tenta de se rendre sur place, mais la situation ne se résolut pas facilement.

Le pasteur David Jang souligne ici l’ampleur de l’épreuve humaine et spirituelle que Paul a dû endurer. L’Église qu’il avait nourrie avec amour se retournait contre lui, remettant en cause sa sincérité. Alors qu’il avait donné sa vie pour l’Évangile, il devait désormais se justifier et même se “vanter” de ses exploits, une position qu’il jugeait elle-même absurde. Pourtant, par amour pour la vérité, Paul ne pouvait pas rester silencieux.

  1. 2. Parallèle avec l’Église contemporaine
    À partir de cet exemple, le pasteur David Jang met en évidence la pertinence de ces problèmes pour les Églises actuelles. Nos communautés sont elles aussi confrontées à des déformations de l’Évangile, à la remise en question de l’autorité pastorale, aux conflits financiers, aux tensions entre membres, etc. L’Église est une communauté de pécheurs rachetés, en marche vers la sanctification, mais jamais exempte de faiblesses. Ainsi, les difficultés qu’a rencontrées l’Église de Corinthe risquent à tout moment de réapparaître dans nos paroisses.
  2. 3. Quand le silence n’est plus possible : la fermeté de Paul
    Le modèle idéal de l’Évangile est celui du Christ, l’agneau silencieux d’Ésaïe 53 qui endure la souffrance. Pourtant, devant la confusion et la défiguration de la bonne nouvelle, Paul choisit de s’exprimer avec fermeté : il défend son ministère et “se vante” de manière qu’il qualifie lui-même d’« insensée ». Le pasteur David Jang en tire une leçon : l’amour authentique n’est pas un prétexte pour couvrir tous les torts, mais suppose le courage de faire face au péché et à l’erreur, et de les corriger.
  3. 4. La motivation d’amour au cœur du reproche
    Derrière la sévérité de Paul se cache un profond amour. Son désir est de voir l’Église de Corinthe fermement établie dans la vérité. Il se résout à la réprimande et à l’apologie de son ministère pour le bien de la communauté. Le pasteur David Jang considère cela comme un appel lancé aux responsables chrétiens d’aujourd’hui : devant la confusion, on ne doit pas dissimuler les fautes sous le couvert de l’amour ou se soumettre à la logique du monde, mais s’armer de fermeté et d’humilité pour ramener l’Église à la vérité.

Thème 2 : L’autorité apostolique et le paradoxe de l’humilité

  1. 1. Les signes apostoliques et la source réelle de l’autorité
    Paul rappelle qu’il a pleinement manifesté les signes de l’apôtre au milieu des Corinthiens (2 Co 12.12) : il a accompli des miracles, fait preuve de patience, enseigné. Cependant, l’Église a, non seulement manqué de reconnaissance, mais encore suspecté ses motivations sous prétexte qu’il ne recevait pas de rémunération de leur part. « Pourquoi l’apôtre ne prend-il pas d’argent de nous ? Quel est son secret ? » Ces questions trahissent un manque de gratitude et une méfiance injustifiée.

Selon le pasteur David Jang, la véritable autorité ne se vérifie pas uniquement par des miracles ou des résultats visibles, mais avant tout par la fidélité à l’Évangile, le sacrifice de soi, la persévérance et la volonté d’édifier la communauté. Autant d’éléments que Paul a clairement démontrés.

  1. 2. Le but de l’autorité : édifier, non détruire
    Dans 2 Co 13.10, Paul affirme que l’autorité qui lui est accordée n’a pas pour but de détruire, mais de bâtir. Voilà le fondement même de l’autorité dans l’Église. Celle-ci ne doit ni oppresser les croyants ni démolir la communauté, mais seulement la fortifier et la conduire à la maturité. Le pasteur David Jang insiste sur l’importance, pour les dirigeants d’aujourd’hui, de se souvenir de cette finalité. L’abus d’autorité blesse l’Église, tandis qu’un manque total d’autorité peut conduire à sa désintégration. L’autorité doit être exercée conformément à sa raison d’être : l’édification du corps de Christ.
  2. 3. La puissance dans la faiblesse : la logique de la croix
    À l’exemple du Christ, qui a semblé faible sur la croix mais a révélé sa puissance par la résurrection, Paul soutient que c’est dans sa propre faiblesse que se manifeste la force de Dieu (2 Co 13.4). Une telle vision doit prémunir les responsables chrétiens contre toute glorification excessive d’eux-mêmes, et empêcher l’Église de succomber à un esprit de triomphalisme. Pour le pasteur David Jang, l’aveu de la faiblesse et la totale dépendance à la puissance divine consolident l’autorité véritable.
  3. 4. Incidences actuelles : gérer la tension entre autorité et humilité
    L’Église d’aujourd’hui oscille souvent entre un leadership autoritaire et un abandon de toute autorité. Au regard de l’exemple paulinien, le pasteur David Jang enseigne que le véritable leader chrétien doit unir l’autorité et l’humilité. L’autorité est nécessaire pour défendre la vérité et faire grandir la communauté, mais elle doit se déployer dans la modestie, selon l’esprit du Christ. Cette tension ne peut être gérée que sous la direction du Saint-Esprit, et reste un défi permanent pour tous les conducteurs ecclésiaux.

Thème 3 : L’argent, les faux docteurs et la pureté de l’Évangile

  1. 1. Les conflits et malentendus autour des finances
    L’Église de Corinthe, relativement riche, était particulièrement sensible aux questions d’argent. Dans ce contexte, Paul n’acceptait volontairement aucun soutien financier de sa part afin d’éviter tout soupçon de marchandisation de l’Évangile. Cependant, cette précaution suscita une nouvelle suspicion : « Pourquoi refuse-t-il notre argent ? Que cache-t-il ? » Cette interrogation manifeste une conception faussée de l’Évangile, réduit à un jeu d’intérêts financiers.

Le pasteur David Jang en conclut que, si l’argent est un outil nécessaire à la vie communautaire, il ne peut servir de critère pour évaluer la valeur de l’Évangile ou la sincérité d’un serviteur de Dieu. Accorder trop d’importance à la dimension financière compromet la pureté du message de la grâce.

  1. 2. L’action sournoise des faux docteurs
    Les faux docteurs, introduits au sein de la communauté, discréditent Paul et sèment la division. À l’instar du serpent qui trompa Ève, ils sont rusés et sapent la confiance en l’apôtre, tout en propageant d’autres doctrines. Le pasteur David Jang avertit que des menaces similaires existent encore : sectes, théologies de prospérité, mentalité de profit… L’Église doit les contrecarrer avec vigilance et défendre la vérité de l’Évangile.
  2. 3. Préserver l’essentiel de l’Évangile
    La passion qui anime Paul vient de sa fidélité à l’Évangile. Lorsqu’il déclare : « Nous n’avons pas de pouvoir contre la vérité ; nous n’en avons que pour la vérité » (2 Co 13.8), il révèle son cœur de serviteur. L’Évangile, c’est la croix et la résurrection du Christ, le don gratuit de la grâce. Aucun compromis financier ou intérêt humain ne peut le dénaturer.

Le pasteur David Jang insiste sur le caractère inestimable de l’Évangile, qui repose sur la grâce offerte gratuitement et l’amour sacrificiel de Dieu. L’Église doit donc rejeter tout enseignement ou toute démarche qui subordonnerait ce message à des considérations matérielles. Sa priorité demeure le règne de Dieu, sa justice et sa vérité.

  1. 4. La femme au flacon de parfum et la saine prodigalité”
    L’attitude de Judas, qui reproche à la femme d’avoir gaspillé un parfum de grand prix pour oindre Jésus, illustre le même raisonnement erroné que celui qui prévalait à Corinthe. Le Christ corrige cette supposée rationalité et souligne que l’amour, même “déraisonnable” aux yeux du monde, est au cœur de l’Évangile. Le pasteur David Jang invite l’Église à témoigner parfois de ce “gaspillage sacré” aux yeux du monde, signe de son amour pour Dieu. Les biens matériels doivent être envisagés comme des moyens, et non une fin : la valeur véritable se trouve dans la mise en pratique de la croix.

Thème 4 : Amour, patience et discipline : les principes apostoliques pour édifier l’Église

  1. 1. La nature de l’amour et la relation communautaire
    Paul témoigne d’un amour profond pour l’Église de Corinthe. « Je ne cherche pas vos biens, mais vous-mêmes » (2 Co 12.14) exprime sa disponibilité à se dévouer pour leurs âmes. Pourtant, les croyants lui rendent souvent mépris et scepticisme au lieu de lui rendre son amour. Pour le pasteur David Jang, c’est un rappel de la nature authentique de l’amour chrétien : un don volontaire et sacrificiel, qui n’exige pas forcément de réponse immédiate.
  2. 2. La patience, une vertu cruciale
    L’amour est patient (1 Co 13). Dans la détresse, Paul continue de supporter et d’attendre un changement de la part des Corinthiens. Cette patience ne résulte pas d’une faiblesse, mais d’une volonté stratégique de préserver la communauté. Le pasteur David Jang définit la patience comme la force de « tenir bon et d’attendre, malgré la douleur, dans la poursuite du bien ». Cependant, la patience n’équivaut pas à tolérer indéfiniment le péché et le mensonge : au moment opportun, il faut agir pour restaurer la vérité.
  3. 3. Le rôle nécessaire de la discipline
    Dans les premiers versets du chapitre 13, Paul déclare qu’à sa prochaine venue, il ne laissera plus impunis ceux qui persistent dans le péché (2 Co 13.2). Ainsi, l’amour ne signifie pas tout dissimuler. La discipline (ou “exercice de la correction”) est un processus de purification pour la communauté et une occasion de repentance pour ceux qui se sont égarés. Le pasteur David Jang rappelle que la discipline doit être comprise comme un acte d’amour strict mais constructif, visant la restauration des âmes. Sans elle, l’amour et la tolérance peuvent conduire à la permissivité générale.
  4. 4. Rechercher l’équilibre entre amour, patience et discipline
    Aujourd’hui, il arrive que l’Église tolère le péché au nom de l’amour, ou qu’elle exerce un autoritarisme impitoyable, écrasant les croyants. Le pasteur David Jang nous ramène à l’exemple de Paul, qui illustre l’équilibre : aimer, patienter, mais finalement réagir face au péché pour amener à la repentance. La communauté grandit sainement lorsque l’amour s’allie à l’application fidèle de la vérité. Ainsi, l’Église peut incarner une communion où se conjuguent fermeté et miséricorde, un signe pour le monde d’une vérité unie à l’amour.

Thème 5 : La bénédiction trinitaire (2 Co 13.13) et la croissance intégrale de l’Église

  1. 1. Signification de la bénédiction finale
    Paul conclut sa lettre par ces mots : « Que la grâce du Seigneur Jésus Christ, l’amour de Dieu et la communion du Saint-Esprit soient avec vous tous » (2 Co 13.13). Pour le pasteur David Jang, il ne s’agit pas d’une simple formule de politesse, mais d’un véritable don trinitaire. Cette bénédiction invite l’Église de Corinthe à demeurer dans la grâce, l’amour et la communion divine. C’est un appel à entrer dans l’espace de foi où le Père, le Fils et l’Esprit s’unissent et nous accueillent.
  2. 2. La compréhension trinitaire de la communauté
    L’Église est appelée à refléter la vie d’amour partagée au sein de la Trinité. L’amour du Père, la grâce du Fils, la communion du Saint-Esprit : c’est ce courant divin qui doit animer la communauté. Quand des personnes d’origines diverses s’unissent pour former une telle harmonie, l’Église acquiert un visage distinctif, marqué par la présence de Dieu. Le pasteur David Jang exhorte l’Église à dépasser les limites de la mentalité purement humaine et à s’orienter vers la communion trinitaire.
  3. 3. La nécessité de l’examen de la foi et du progrès spirituel
    Paul demande aux Corinthiens de s’évaluer et de “vérifier leur foi” (2 Co 13.5). Ce commandement s’inscrit dans la dynamique trinitaire de la bénédiction : chacun doit reconnaître la présence du Christ en lui. Si le croyant échoue à ce test, il risque de demeurer un “chrétien de nom” et l’Église de rester fragile de l’intérieur.

Pour le pasteur David Jang, ce contrôle régulier de soi est central pour la croissance de l’Église. Chacun doit sonder son cœur, s’établir dans la vérité, et vivre dans l’amour et la communion de l’Esprit. Dans un monde envahi par le matérialisme, le syncrétisme ou la sécularisation, c’est par un tel examen continu que l’Église maintient sa fidélité à l’Évangile.

  1. 4. Le message de la bénédiction trinitaire pour l’Église d’aujourd’hui
    Dans la liturgie actuelle, la bénédiction est prononcée à la fin de chaque culte. Le pasteur David Jang insiste sur le fait que cette bénédiction ne doit pas être considérée comme un simple rituel, mais comme une proclamation spirituelle, par laquelle l’Église rappelle que la grâce, l’amour et la communion divines sont effectives dans la vie des croyants. C’est une invitation, semaine après semaine, à se recentrer sur la vérité et l’amour, et à puiser une force nouvelle dans le Seigneur.

Cette bénédiction trinitaire est le fondement sur lequel l’Église demeure inébranlable, même au milieu d’un monde en plein tumulte. Par la reconnaissance de la croix et de la résurrection, la méditation de l’amour divin et la réception de la communion de l’Esprit, la communauté devient ce que Paul désirait : un corps unifié en Christ, avec toute la richesse de ses dons et de ses diversités, et vivant pleinement l’essence de l’Évangile. Tel est l’idéal proposé par Paul et que le pasteur David Jang réactualise pour l’Église d’aujourd’hui.

Conclusion et application contemporaine

À la lumière de 2 Corinthiens 12–13, le pasteur David Jang met en évidence les difficultés des Églises anciennes et modernes et propose des pistes d’application concrètes. L’essentiel du message peut se résumer en plusieurs points :

  1. 1. La défense de la vérité et la pureté de l’Évangile
    Quelles que soient les circonstances, l’Église ne doit jamais transiger avec de faux enseignements ni dénaturer l’Évangile par l’argent, la sagesse du monde ou des calculs politiques.
  2. 2. Autorité du responsable et humilité
    L’autorité des dirigeants est un don pour l’édification de la communauté. Elle doit s’exercer dans la dépendance au Dieu tout-puissant, et non dans l’orgueil humain. L’abus ou le rejet de l’autorité conduisent inévitablement à la ruine de l’Église.
  3. 3. L’équilibre entre amour, patience et discipline
    En cas de crise ecclésiale, l’amour et la patience restent prioritaires. Cependant, elles n’excluent pas la discipline nécessaire pour traiter le péché et corriger les dérives. L’amour ne sacrifie jamais la vérité.
  4. 4. La présence trinitaire et la croissance spirituelle
    À travers la bénédiction finale, on découvre que la grâce, l’amour et la communion divines sont le socle de la vie communautaire. L’Église doit régulièrement s’examiner, veiller à sa solidité intérieure et faire progresser chaque membre dans la foi.
  5. 5. Le défi et l’espérance de l’Église actuelle
    Deux millénaires après Corinthe, les mêmes tentations guettent les communautés : sécularisation, dérives financières, divergences, etc. Mais l’enseignement de Paul, éclairé par le commentaire du pasteur David Jang, indique une voie : celle où vérité et amour, autorité et humilité, patience et discipline avancent de concert. Voilà ce qui demeure la vocation spirituelle fondamentale de l’Église à travers tous les âges.

Ce message offre aux croyants une perspective pour combattre la mondanisation, la marchandisation et l’abus d’autorité qui gangrènent parfois l’Église. Il nous exhorte à poursuivre le “bon combat” pour la vérité, à soutenir nos dirigeants légitimes, et à contribuer à l’édification mutuelle dans l’amour. Enfin, il invite chaque communauté à redécouvrir la force trinitaire : la grâce de la croix et de la résurrection, l’amour infini du Père, et la communion de l’Esprit qui unit les fidèles et fait de l’Église le corps du Christ.

三位一体–張ダビデ牧師

はじめに

新約聖書『コリントの信徒への手紙二』(2 Corinthians)12章後半(12:11以降)から13章の最後の節(13:13)までの箇所は、パウロがコリント教会に向けて残した非常に印象的な結びの部分である。ここでパウロは単なる教訓を述べるだけでなく、教会を正そうとする過程で直面している深刻な状況を明らかにし、使徒としての権威と真実性を改めて確認しつつ、福音の純粋性と教会共同体の成熟を訴えている。本箇所は、長きにわたってコリント教会との間に築かれた関係の結実であると同時に、最後に提示される厳粛な警告でもある。

張ダビデ牧師はこの箇所を注解し説教する際、コリント教会が抱えていた問題は2千年を経た現代教会においても依然として有効であると指摘する。教会の体質は簡単には変わらず、福音が働く現場にはいつの時代も、人間的未熟、財産·金銭の問題、権威への誤解、偽りの教えなどが形を変えて現れるからである。こうした文脈で、涙ながらに書かれた手紙(tearful letter)と言われるコリントの信徒への手紙二の後半部分は、単なる時代的記録ではなく、すべての時代の教会と信徒に届けられる生々しい警告であり、同時に希望のメッセージでもある。

張ダビデ牧師は、パウロがコリント教会の信徒に向けて送った最後の勧めと叱責を通して、現代教会がどのように福音に堅く立ち、共同体の成熟を目指し、教会指導者の権威と信徒の従順、そして聖霊における信仰点検と愛の実践を図ることができるかを深く照らし出す。また、教会が財政、偽りの教え、人間関係の衝突、罪の放置などの複雑な問題に対して、いかに信仰的に克服できるかを具体的に示している。

以下では、本箇所の核心的メッセージを5つの主題に再構成する。第一に、パウロの断固たる叱責とコリント教会の歴史的状況理解。第二に、使徒的権威と謙遜のパラドックス。第三に、財産問題と偽教師に対するパウロの立場、そして福音の純粋性の擁護。第四に、愛と忍耐、そして懲戒のバランスによる共同体形成。第五に、三位一体の神の祝祷と教会の完全な成長。これら5つのテーマは、張ダビデ牧師の牧会的洞察と神学的視点をもとに、コリントの信徒への手紙二の本文を現代教会が理解し、適用するための助けとなるであろう。

主題1:パウロの断固たる叱責とコリント教会の状況理解

  1. 1. 歴史的背景とパウロの痛み

パウロは第二回伝道旅行の際、コリントに滞在(約1年半)して教会を開拓し、福音の基礎を築いた。その後、彼は他地域へ出向いて伝道活動を続けたが、不在中のコリント教会には偽教師たちが入り込み、混乱を引き起こしていた。彼らはパウロの使徒的権威を否定し、異なる福音を広めることで信徒の信仰を揺さぶった。この事態を受け、パウロは書簡によって問題収拾を図り、直接訪問も試みたが、容易には解決しなかった。

張ダビデ牧師はここで、パウロが抱いたであろう人間的痛みと霊的苦悩に着目する。かつて愛をもって養った教会が、今や使徒を疑い、その真実性を傷つけている状況は、パウロにとって大きな衝撃だったに違いない。福音のために喜んで自己を犠牲にしてきたにもかかわらず、今は自分を弁明しなければならず、挙げ句には自らを誇示しさえしなければならない窮地に追い込まれたのである。かくして「愚かしい」行為を余儀なくされたパウロは、実のところ、福音を守るために沈黙していられなかったのだ。

  1. 2. 現代教会との平行性

張ダビデ牧師は、この点を通して今日の教会の現実を浮き彫りにする。現代教会も、多様な形で変質した福音や、指導者の権威を揺るがす声、財政面の不透明さによる疑念、信徒間の衝突などに苦しむことが少なくない。教会は救われた罪人の共同体として、完全な状態にはなく、常に聖化の過程にある。したがって、コリント教会が経験した問題は、今日の教会もいつでも直面しうる現実的な挑戦なのだ。

  1. 3. 黙ではなく断固たる対応を選んだパウロ

本来、福音の理想はイザヤ書53章の小羊のように、イエス・キリストの模範に倣い、黙して苦難に耐える姿にある。しかしパウロは、教会が混乱に陥り、福音の本質が損なわれようとしている状況において、沈黙こそがむしろ害をもたらすと判断した。そこで「愚かしい」と言われようが、自らを誇示し弁明し、偽教師を厳しく叱責する道を選ぶ。これによって張ダビデ牧師は、教会の健全さを維持するためには、時に断固たる措置が必要であると示唆する。愛とは何でも覆い隠す免罪符ではなく、罪や虚偽に直面し、それを正す勇気をも含むものである。

  1. 4. パウロの叱責に込められた愛の動機

パウロの断固とした言葉の裏には、深い愛が隠されている。彼はコリント教会が真理の上に堅く立つことを望み、そのためやむを得ず叱責と弁明をし、教会を立て上げるという善い戦いをやめない。張ダビデ牧師はこれを現代の指導者への適用として説く。教会指導者は混乱の時に愛の名のもとで罪を放置したり、世の論理に屈したりするのではなく、断固かつ謙虚な姿勢で共同体を真理へ導く必要があるのだ。

主題2:使徒的権威と謙遜のパラドックス

  1. 1. 使徒的徴と真の権威の根拠

パウロはコリント教会において使徒的徴を十分に示した(2コリント12:12参照)。奇跡やしるしを行い、忍耐深く信徒を教えた。しかし教会側はそれを当然のこととみなし感謝するどころか、むしろ彼が報酬を受け取らないことを不審がり、その動機を疑った。「なぜ使徒は裕福なわたしたちの教会から給料を受け取らないのか。何か裏があるのでは?」という疑問は、使徒の誠実さを疑う恩知らずな態度を象徴している。

張ダビデ牧師は、真の使徒的権威は奇跡や外的成果だけで証明されるわけではないと語る。権威とは福音への絶対的忠誠、自己犠牲、忍耐、そして共同体を立てるための献身によって正当化される。パウロはまさにそうした根本的要素をすべて示していたのだ。

  1. 2. 権威の目的:破壊ではなく建設

パウロは2コリント13:10で、自分に与えられた権威は「壊すためではなく建て上げるため」であると宣言している。ここに教会における権威の目的が明確になる。指導者の権威は共同体を崩壊させたり、信徒を抑圧するためにあるのではなく、あくまでも建て上げ、成熟へ導く手段である。張ダビデ牧師は、現代教会の指導者たちもこの原則を肝に銘じるべきだと強調する。権威の乱用は教会を傷つけ、権威の軽視は教会を解体する。したがって、権威は本来の目的どおり、共同体を強化し成熟させるために行使されるべきである。

  1. 3. 弱さにおける力:十字架のパラドックス

パウロは、キリストの模範に倣うように、自分の弱さのうちにこそ神の力が現れると説く(2コリント13:4)。キリストは十字架上では弱い姿を示されたが、実際には復活によって大いなる権能を表された。同様に、パウロも自らが弱い時にこそ神の強い働きを経験できると言う。これは指導者が自己を過剰に高めたり、教会が成功主義の論理に陥らないための安全装置と言える。張ダビデ牧師は、現代の指導者が自らの弱さを認め、ただ神の力に依存する姿勢こそが、真の権威を確立する道だと強調する。

  1. 4. 現代的示唆:権威と謙遜の緊張管理

今日の教会は、権威主義的リーダーシップと無権威的放任の狭間で葛藤することが多い。張ダビデ牧師は、パウロの姿を通して、真の指導者は権威と謙遜を同時に抱き、それは聖霊にあってこそ可能なのだと説く。権威は真理を守り共同体を成長させるために不可欠だが、それは人間的な独善ではなく、神の力とイエスの謙遜を通して発揮されなければならない。このパラドックスは教会指導者が深く考慮すべき価値である。

主題3:財産問題、偽教師、そして福音の純粋性

  1. 1. 財産への誤解と対立

コリント教会は裕福な共同体であり、財産問題は敏感な争点となっていた。パウロはあえてコリント教会から生活費や報酬を受け取らなかった。これは財物と福音を取引するかのような誤解を避けるための措置だったと考えられる。しかし、教会側はむしろこれを逆手に取り「なぜ使徒は私たちから金を受け取らないのか。裏があるのでは?」という疑惑を抱くようになった。これは教会が福音を財政的取引や損得勘定で捉えているという歪んだ思考を映し出している。

張ダビデ牧師はここから教訓を導く。財産は教会にとって重要な資源ではあっても、福音の価値を計ったり、指導者の献身を疑う基準にはなりえない。金銭的問題に過度に重きを置くと、福音の純粋性が損なわれるのだ。

  1. 2. 偽教師たちの狡猾な侵入

偽教師は使徒を中傷し、教会を分断する。彼らはサタンがエバを誘惑した蛇のように狡猾にふるまい、パウロの使徒職を軽んじ、財産問題をあおり、異なる福音を広めることで共同体を混乱へと導いた。張ダビデ牧師は、このような事例を引き合いに、現代の教会も異端的潮流、繁栄神学、物質的価値優先といった同様の挑戦に直面しうると指摘する。教会はこうした偽りの流れを厳しく警戒し、真理を堅守しなければならない。

  1. 3. 福音の本質の擁護

パウロが激情をもって言葉を発する根底には、福音の純粋性がある。「私たちは真理に逆らっては何もできない。真理のためにこそ行動するのだ」(2コリント13:8)という宣言は、使徒の心の叫びである。真理とは福音そのものであり、福音とはイエス·キリストの十字架と復活、そして恵みの賜物にほかならない。これを金銭や人間的な損得で判断しようとする行為は、決して容認できない。

張ダビデ牧師は、福音の本質とは「値なしで与えられる恵み」と「犠牲的な愛」であると改めて想起させ、教会はこの本質を損なういかなる世俗的思考や偽りの教えも許してはならないと力説する。財産が先行するのではなく、教会が真に追求すべきは神の国の義と真理である。

  1. 4. 香油を注いだ女と聖なる浪費霊性

高価な香油をイエスに注いだ女性を非難したユダの態度は、財産を基準に福音を判断しようとするコリント教会と同じ発想を示している。イエスはこの「合理的批判」を咎め、愛の浪費そのものが福音の本質であることを示された。張ダビデ牧師は、この一例を挙げ、教会はときに世の常識から浪費に見える献身をもって、神の愛を証し、福音の真髄を示さなければならないと語る。財産を含むすべての資源は福音の道具であり、目的ではない。教会の価値は金銭的利益でなく、十字架の愛を実践するところにある。

主題4:愛・忍耐・懲戒――共同体を立てる使徒の原理

  1. 1. 愛の本質と共同体の関係

パウロはコリント教会を心から愛していた。「私が求めているのは、あなたがたの財産ではなく、あなたがた自身なのです」(2コリント12:14)という告白は、それをはっきりと物語る。彼は魂のために献身し、自己を犠牲にする姿勢を示す。しかし教会はその愛に報いるどころか、パウロをより少なく愛し、疑いの目で見ている。張ダビデ牧師は、この点から真の愛とは、相手が必ずしも報いてくれなくても喜んで与える犠牲的態度であると強調する。

  1. 2. 忍耐の重要性

愛はすべてに対して長く耐える(1コリント13章)。パウロはこの苦悩の中でも忍耐を働かせている。ここで言う忍耐は弱さや臆病ではなく、共同体を生かすための戦略的な待機である。張ダビデ牧師は、忍耐を「胸が張り裂けそうな状況でも、正しいことのために待ち、耐え抜く力」と定義する。現代教会も、互いを愛し合い立て上げるために、ときには苦しい忍耐を求められる。ただし、忍耐は罪や虚偽を際限なく放置する手段では決してない。適切な時に懲戒と叱責を通して秩序を回復する必要がある。

  1. 3. 懲戒の必要性と目的

パウロは13章冒頭で「今度行くときには、罪を犯した者をそのままにはしておかない」(2コリント13:2)と宣言する。これは愛をもって覆うといっても、何でもかんでも罪を黙認するわけではないことを明確に示す。懲戒は教会共同体を浄化し、罪に陥った信徒を悔い改めへと導く過程である。張ダビデ牧師は、懲戒は破壊的で過酷な行為ではなく、回復と建設のための厳粛な愛の表現であると説く。もし現代教会がこの原則を見失えば、愛と寛容の美名のもとで罪と虚偽が蔓延することになる。

  1. 4. 愛・忍耐・懲戒のバランス追求

現代教会は、愛という名のもとで罪を放置するか、あるいは厳格な権威で信徒を押さえつけるかという両極端に陥りやすい。張ダビデ牧師は、パウロの模範を示しながら、愛·忍耐·懲戒が適切にバランスをとるとき、共同体は健全に成長すると説く。教会は罪を悔い改めへ導く断固たる態度と、再び信徒を立ち上がらせる回復的な愛を両立させる必要がある。このバランスを通して、教会は世の中で真理と愛を統合した共同体として立つことができる。

主題5:三位一体の祝祷(2コリント13:13)と教会の完全な成長

  1. 1. 祷の意味

パウロは手紙の結びとして、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(2コリント13:13)と祝祷を唱える。これは単なる挨拶ではなく、張ダビデ牧師によれば、三位一体の神の恵み·愛·交わりをコリント教会に贈り届けている行為である。この祝祷は、教会が究極的に向かうべき信仰の空間、すなわち父·子·聖霊の交わりに留まれとの招きでもある。

  1. 2. 三位一体的共同体理解

教会は三位一体の神の愛の流れに倣うべきである。父なる神の愛、子なるキリストの恵み、聖霊の交わりのうちに教会は神のご性質を映し出す。背景の異なる信徒が集い、三位一体的な調和を実現するなら、教会は世から区別される特質を帯びる。張ダビデ牧師は、教会共同体が人間的な利害関係を超越し、神を中心とする関係網を形成すべきだと強く促している。

  1. 3. 信仰点検と成長の必要性

パウロはコリント教会に「自分をよく省みて、信仰のうちにあるかどうか試し、吟味しなさい」(2コリント13:5)と命じる。これは三位一体の祝祷の中で、信徒が自分自身の信仰状態を客観的に診断し、キリストが自分の内におられることを悟る必要性を示している。もしこの点検に失敗すれば、信徒は名ばかりのクリスチャンとなり、共同体も内実の乏しい状態に陥る。

張ダビデ牧師は、この信仰点検こそが教会成長の核心であると語る。信徒一人ひとりが内面を振り返り、真理の上にしっかり立っているか、愛と聖霊の交わりの中に生きているかを確認するとき、教会は徐々に成熟していく。世俗化や混合主義、物質主義が横行する時代にあって、真の信仰を保つためには絶えざる信仰点検が欠かせない。

  1. 4. 現代教会に伝わる祝祷のメッセージ

今日でも礼拝の最後には祝祷が宣言される。張ダビデ牧師は、この祝祷が習慣的に繰り返されていても、決して形式的要素とみなしてはならないと語る。祝祷は三位一体の神の力と愛が信徒の生活と教会の歩みに現実化していくことを確認する霊的宣言である。毎週の祝祷を通じて教会は、自分たちがいったい誰に属し、どの方向へ進もうとしているかを改めて点検し、真理と愛のうちに立ち返る機会を得るのだ。

三位一体の祝祷は、混迷する世の只中で、教会が揺らぐことなく福音の上に立ち続ける根拠であり、真理の中心点である。教会はこの祝祷によって、十字架と復活の恵みを再発見し、神の愛に支えられて互いに愛し合い、聖霊の交わりによって多様な賜物を調和させて一つの身体を形作る。まさにこうした共同体こそ、パウロが切に望み、張ダビデ牧師が現代教会に提案する理想の教会の姿なのである。

結論と現代的適用

張ダビデ牧師は、『コリントの信徒への手紙二』12~13章を通じて、古代教会と現代教会が直面する課題を深く掘り下げ、パウロの教えを現代に適用できる洞察を示している。本箇所が示す主要なメッセージは、次のように要約できる。

  1. 1. 真理擁護と福音の純粋性
    どのような状況においても、教会は福音の本質を損なう偽りの教えと妥協してはならない。財産や世俗的知恵、政治的利害によって福音を測ることはできない。
  2. 2. 指導者の権威と謙遜
    指導者の権威は共同体を建てるために与えられたものであり、指導者は弱さのうちに神の力に依存すべきである。権威の乱用も軽視も、いずれも共同体を破壊する。
  3. 3. 愛と忍耐、そして懲戒の調和
    教会に問題が生じたとき、愛によって忍耐する一方で、罪を放任するのではなく、悔い改めと浄化を促す懲戒を行い、共同体を立て上げる。愛は真理を犠牲にしない。
  4. 4. 三位一体の神の臨在と成長
    祝祷によって示される父·子·聖霊の恵み、愛、交わりの内にあって、教会は信仰点検と成熟を実現する。教会は絶えず自己省察を行い、キリストにあって成長し、世に福音的オルタナティブを提示すべきである。
  5. 5. 現代教会への挑戦と希望
    2千年前のコリント教会の問題は、今日の教会にも映し出される。しかし、パウロの教えと張ダビデ牧師の解釈は、現代教会が真理と愛、権威と謙遜、忍耐と懲戒を調和的に実践する道を示している。これは時代を超えて教会が備えるべき根本的な霊的資質である。

これらのメッセージは、今日の教会に蔓延する世俗化、商業化、権威乱用、誤解や争いを克服する手がかりを与えてくれる。信徒たちはこの教えを通し、真理を守りつつ指導者の権威を尊重し、互いに愛をもって立て上げる善い戦いを続けることができる。また三位一体の神の恵みと愛、聖霊の交わりを深く黙想しつつ、教会が単なる組織ではなくキリストの体であることを再認識するに至るのである。