
(1) 現在の苦難と未来の栄光:救いの希望
張ダビデ牧師は、ローマ書8章18節以下の御言葉を通して、私たちに与えられた現在の苦難と、やがて臨む栄光の関係を深く黙想し、解釈してきた。ローマ書8章の本文で、使徒パウロは「思うに、今の時の苦難は、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べれば、取るに足りない」(ローマ8:18)と宣言する。これは、今わたしたちが直面している人生のさまざまな苦しみ、あるいは日常の試練が、キリストにあって与えられる未来の栄光とは到底同じ重さで比較できない、という意味である。すなわち、この地上では得られない栄光や祝福があるにせよ、最終的に信者が天上で受ける栄光は、はかり知れないものであるとパウロは語っているのだ。
このように使徒パウロは、キリスト者の人生に必ず苦難が伴うと前提する。これは「キリストの残された苦しみにあずかる者」と呼ばれる信者の本質でもある。張ダビデ牧師は、これを「表が栄光ならば裏は苦難という、コインの裏表のようだ」と表現する。実際、キリスト者に訪れる苦難は、無駄な痛みではない。世の基準で見るなら、その結果は不透明で望みがなく、報いもない労苦に見えるかもしれない。しかし信仰のうちにあって、私たちは将来の神の約束こそが真実に与えられる未来の報いであると確信する。だからこそ、今日私たちが経験する様々な試練や痛みも、キリストにあって究極的栄光を見つめられる場所になるのだ。
パウロは「わたしたちはこの望みによって救われている」(ローマ8:24)と宣言する。この文言は文法的に見ても神秘的である。「救われている」という過去時制と、「望みによって」という未来志向の表現が同時に使われているからだ。ここには、キリストにある者たちはすでに救いを得たが、その救いの完成はまだ残されているという緊張感が宿っている。神学的にしばしば言及される「すでに(already)」と「まだ(not yet)」の間を、信者は生きているというわけだ。かつてイエス・キリストの十字架の出来事によって罪の赦しを得て義とされたが、その救いの最終的完成はまだ未来に残されており、やがて臨む栄光の日に完全に現れるという意味である。
張ダビデ牧師は、私たちがこの希望をつかむとき、どれほど強い逆風が吹こうとも、「未来の栄光」を見つめながら今日を耐え忍ぶことができると教える。世の目からすれば、苦難や逆境は失敗や挫折の印のように見える。しかし信仰の目から見ると、それはむしろキリストの苦難にあずかる祝福となる。主が示された道こそ十字架の道であり、十字架の後には復活の栄光が続いた。ゆえに、キリスト者の人生も必然的に「苦難の後に栄光が待っている」ということがわかる。
イエスは山上の説教で「義のために迫害される者は幸いである。天の御国はその人たちのものである」(マタイ5:10)と言われた。この本文は、究極的に言えば義のために受ける迫害と犠牲が決して無駄ではないことを示している。「天の御国は彼らのものとなる」というイエスの宣言は、「正しい行いのゆえに受ける苦難は、必ず未来の報いとして報われる」という意味を含んでいる。張ダビデ牧師はこれを「報いの信仰」と呼び、聖書が絶えず約束する未来に対する確固とした信頼が、現在の信仰生活を支える力であると強調する。
パウロが指し示す未来の栄光は、単に個人の魂の慰めではない。それは信者が受け取る栄光の国、すなわち神の国に対する確信である。今すぐ目の前に現実的な報いが与えられず、さらには信仰を守る代償として世で損害を負わなくてはならないときがあったとしても、その犠牲が決して無駄にならないと信じるならば、いくらでも喜びをもって苦難に耐えられる。張ダビデ牧師は、パウロが語る「比較にならない未来の栄光」を強調することによって、この世の価値観と反対の神の国の価値を信者たちの中に植え付けようとしていると分析する。
パウロはこれを単に個人の内面の安慰や霊的慰めの次元で語っているわけではない。罪によって苦しみ、破壊されてしまったこの宇宙のあらゆる秩序が、最終的には神の御手によって回復される、と彼は確信している。すなわち、キリストの救いは宇宙的次元で成し遂げられ、その完成の日には神の子どもたちは真の栄光の自由を享受することになるというのである。これは信者が未来に抱くべき「大きな絵」である。今受けている小さな試練とは比べものにならない大いなる栄光が、いずれこの地にも、そして信者一人ひとりにもやって来るという信仰なのだ。
張ダビデ牧師はこう語る。「もし私たちがこの地で生涯を終えるまでに栄光の喜びを味わえないとしても、天上で主が豊かな報いと栄光を用意してくださっているのです」。世の人の目には、キリスト者が無駄な希望にもたれ苦労ばかりしている存在のように見えるかもしれない。だが信者たちには「これから実現する確かな希望」があるという事実が、信仰の核心をなしている。そして実際にこの信仰こそ、歴史の中で多くの信仰の先輩たちを、どれほど苛酷な苦難の中でも揺るがないように支えてきた。
パウロは決して単なる理想主義者ではない。むしろ現実を冷酷なまでに認めつつ、その向こうにある確かな未来を見ていたのだ。彼は「今の時の苦難は将来わたしたちに現れる栄光と比べれば、取るに足りない」と語り、「その栄光の保証である聖霊」を与えてくださる神を信頼するよう勧めている。したがって、もし今日の生活で試練や落胆が襲ってきたとしても、私たちはパウロの言葉を通して「神のご計画と約束」をさらに固く握ることができる。信者はこのような希望の福音の中で、苦難のただ中でも喜びを得、信仰と愛、忍耐を実践する力を与えられるのだ。
さらにパウロが語る「望みによって救われた」ということは、単に個人が死後の世界で永生を得るだけを意味しない。神の国、すなわち宇宙的支配が完全に回復される終末的未来が必ず訪れるという事実を意味している。そこでは、不義と罪によって傷つき破壊されてきた全ての被造世界が、本来の秩序を取り戻し、神の栄光をほめたたえる。この美しい未来は「まだ」私たちの目に見えないかもしれないが、「すでに」その約束を信仰によって受け取り、生きているのだ。したがって、キリスト者とは、この世の生活から逃げる者でも、目を背ける者でもなく、むしろ今日の苦難を正しく解釈し、未来の栄光を先取りして味わう存在だと言える。
張ダビデ牧師は、このようなパウロの「未来志向的信仰」を通して、私たちの人生の中で経験する苦難の意味を新たに展望すべきだと強調する。何よりも、今の苦難は神の摂理の内に配置されているものであり、その摂理の最終目的地が栄光の回復であることを決して忘れてはならないと力説する。またその栄光は、ただ信者個人の慰めや満足で終わるものではなく、すべての被造物がともに呻きつつ待ち望む普遍的救いの完成にまで至るという点に注目すべきだ。こうして張ダビデ牧師が提示する「現在の苦難と未来の栄光の神学」は、信者が絶望せず、ゴールへ向かって走り続けるための強力な原動力になるのである。
(2) 被造物の呻きと宇宙的救い
張ダビデ牧師は、ローマ書8章19〜23節に示されている「被造物の切望」と「呻き」を宇宙的救い(cosmic salvation)の視点から解釈する。パウロは「被造物が切望しているのは、神の子たちが現れることなのである」(ローマ8:19)と宣言する。普通は私たち人間が未来を切望すると考えがちだが、ここでは驚くべきことに「被造物自体」が救いを切実に望み、待ち焦がれているというのだ。
この「切望(こたい)」という言葉はギリシャ語の「アポカラドキア(ἀποκαραδοκία)」であり、首を長くして切実に待ち望む様子を視覚的に表現している。ちょうど子どもが明日の遠足を前に胸を躍らせ、夜も眠れずに夜明けが来るのを切に待つような姿だ。また漢字の「苦待」には「苦しみながら待つ」という意味が含まれていて、被造物がこのように苦しみの中で未来を学徒のように待ち焦がれるというのは非常に印象的である。
張ダビデ牧師は、ここでいう「被造物」が単に自然生態系や動物界だけを指しているのではなく、罪の堕落によってともに呻く宇宙全体を指している、と解釈する。創世記3章17節で「大地はあなたのゆえに呪われてしまった…」という神の宣言があった後、堕落した人間のせいで世界は本来の調和と美しさを大きく失ってしまった。神がアダムに託した「大地を治めよ」という命令は、もともと支配や抑圧ではなく、「仕え、世話をしなさい」という執事職の意味だった。しかし罪によって人間は無分別に自然を破壊し、収奪し、ついには神の創造世界を呻きの状態へと追いやってしまったのだ。
被造物が「虚無に服している」(ローマ8:20)とは、罪の結果、虚無へと堕した人間の支配下に置かれていることを指している。張ダビデ牧師はこの部分に注目し、本来人間は愛と慈しみをもって自然を世話する管理者となるはずだったのに、堕落によって暴力的で貪欲な存在になったのだと語る。つまり、真の主人を失った大地が主人ではなく、むしろ「凶悪な暴君」のように変貌した人間に虐げられているというアイロニーが今の現実だというわけである。
したがって、世の物理的・生態学的破壊は、人間の堕落の直接的な結果だと言える。神はこの姿に対して、「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(創世記6:6)と記され、パウロは「なんと惨めな人間なのだろう」(ローマ7:24)と嘆き、自らの罪人性を嘆く。そしてさらに「被造物はすべて今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:22)と宣言する。これが罪の普遍的・宇宙的影響力である。
こうした現実の前で、張ダビデ牧師は、キリスト者の使命が単に個人的救いや内面的平安にとどまらず、宇宙的回復と命の秩序回復にまで及ばねばならないと強調する。パウロもまた、被造物が神の子たちの出現を待ち望む理由を語りつつ、結局神の子たちこそ大地や自然の「真の主人」であることを明らかにする(ローマ8:19)。この神の子たちが回復されるとき、被造物も彼らとともに得るはずの未来の「栄光の自由」にあずかれる、というのである(ローマ8:21)。
張ダビデ牧師によれば、ここで「神の子」とはイエスを信じ、救いを受け、聖霊のうちに神の家族となったすべての信者を指すという。信者は単に個人的な罪の赦しを超えて、万物を世話し育む霊的特権と責任を授けられた存在である。しかし、まだこの地上では完全な聖なる姿に至っていない私たちが、未来の完全なる贖いを待ち望むように、被造物もまたその回復の時を待っている。これは「回復された宇宙的世界(cosmic salvation)」を夢見るパウロの壮大なビジョンそのものだと言えよう。
パウロが描くこの「宇宙的救い」のグランドフィナーレは、ヨハネの黙示録21章で示される「新天新地」の完成と重なる。神は万物を新しくされ(黙示録21:5)、すべての涙と死と悲しみを取り去られる(黙示録21:4)究極の世界が到来する。張ダビデ牧師は、この場面に関して、神が堕落によって壊れた被造の秩序を、ある瞬間にただ放置してしまわれるのではなく、新しく造り変えてくださるという事実に注目する。結局、私たち信者が待ち望む終末論は、この世と断絶した廃墟の中から個人だけが天国に入る話ではなく、神が全宇宙を回復させるという包括的ストーリーであり、究極的刷新なのである。
この回復された世界を見つめる信仰は、今日私たちがさまざまな生態学的危機や社会的混乱に直面しても、絶望せずにいられる根拠となる。張ダビデ牧師は「聖書は堕落後に人間と万物がともに呻いていると指摘しながらも、同時に神は決してこの状態を傍観されず、必ず新しいご支配を成し遂げられることを明かされている」と強調する。だからこそ、信者は創造世界が呻くとき、それをともに嘆き、立ち返ろうと努めなくてはならない。環境保護、弱者保護、社会正義の確立といった価値も、結局は神のご支配が臨む道へ参与する実践となりうるのである。
神の国が来るとき、その国をともに享受する主体として被造物も解放を得る。「滅びの束縛から解放されて」(ローマ8:21)、もはや罪と破壊の支配を受けることなく、自由に神の栄光を歌うのだ。これこそがパウロが「自然の呻き」を語りつつ、最終的に「神の子たち」とともに得る回復を宣言する理由である。
使徒言行録3章21節では、神が「万物が改まる時まで」(使徒3:21)イエス・キリストを天に留めておられる、と表現されている。これは終末には、ただ信者個人の救いだけではなく、「万物が回復される」広大な神の救いが繰り広げられるという意味だ。張ダビデ牧師は、この宇宙的救いの思想をパウロがローマ書8章で圧縮的に述べていると指摘する。よって信者は最終的に「個人的魂の救い」と「宇宙的救い」の両方を直視すべきなのである。教会はキリストの体として、この宇宙的回復という壮大なビジョンを世界に宣言し、その回復の一部として召されている事実を忘れてはならない。
もっとも、現実において私たちはいまだ罪と限界に囚われ、自然環境破壊は深刻化し、構造的な不正が蔓延している姿を目にする。それでも張ダビデ牧師は、パウロの言葉通り「長い夜を明かし、夜明けを待ち焦がれる」そんな切実な姿勢で、被造物の呻きをともに感じ、祈りながら創造世界を守る働きをやめてはならない、と促す。結局、未来に対する神の約束が揺るぎないがゆえに、信者は今日の労苦と献身が決して無駄にならないと知り、喜びをもってそれを担うことができるのだ。
宇宙的救いは、人間の力で全面的に成就させるものではなく、究極的には神の主権と恵みによって完成されるものである。しかしその完成へと向かう過程の中で、「神の子たちの現れを首を長くして待っている」被造物の前で、教会は決して傍観者であってはならない。こうして張ダビデ牧師が強調する、被造物の呻きと宇宙的救いに対するビジョンは、信者にキリストのうちで「天と地を共に包み込む」大いなる使命を与える。神はすでにイエス・キリストを通して新しい創造の根を下ろされ、聖霊を通してその実体を現し続けておられる。だから私たちは「すでに」と「まだ」の間で、信仰をもってこの道を歩み続けるのである。
(3) 聖霊の助けと祈りの秘密
ローマ書8章26〜27節で、パウロは「このように、御霊も弱いわたしたちを助けてくださるのです…」という驚くべき言葉を伝える。パウロは人間がどれほど弱く、欠けを抱えた存在かをよく知っている。私たちは時に何を求めるべきかさえもわからず、またどのように願いをささげるのが正しいか戸惑うことがある。張ダビデ牧師は、この言葉を取り上げながら、信者が本当に頼るべきお方は「取り成してくださる御霊」その方であることを強調する。
パウロは「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、御霊自らが、言葉に表せないうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるのです」(ローマ8:26)と言う。これは、私たちの無知と限界を超えて、神の御旨に完全にかなう祈りを御霊が代わりに捧げてくださるという意味である。また聖霊の「うめき」は、単なる落胆や悲しみではなく、私たちのために熱く訴える取り成しの姿として言えるだろう。
聖書は、神と人の間の唯一の仲保者としてイエス・キリストを示している(Ⅰテモテ2:5)。ヘブライ書7章25節も、イエスが「いつも生きていて彼らのためにとりなしている」と明かす。しかし、私たちがこの地上で祈るたびに、イエスが十字架で流された御血によって大胆に神の御前に近づくことを許されるだけでなく、聖霊ご自身も私たちの内に住まわれ、私たちの祈りを補正し、導いてくださる点において、信者は祈りにおいて計り知れない特権を与えられている。
張ダビデ牧師は、この真理を説明しながら、信者が「神を父と呼んで祈るということは非常に大いなる恵みであり、決して当然の権利ではない」と力説する。本来、罪人である人類はとうてい神に近づけるはずがなかった。しかしイエスが仲保者となられて垂れ幕を裂いてくださり(ヘブライ10:19〜20参照)、いまやその道の上に、聖霊が私たちの内面深く共におられ、祈りさえも補助してくださるというのである。
パウロは「人間の心を探られる方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます」(ローマ8:27)と語る。「心を探られる方」とは神なる御父である。私たちはしばしば見当はずれの祈りをし、神の御旨にかなわない願いを捧げることも多いが、聖霊はそのすべての不足を超えて神の御旨に沿ったとりなしをしてくださる。結局、私たちから出る祈りが未熟で不完全であっても、聖霊の内的な呻きと取り成しが、その祈りをふさわしいものへと「翻訳」してくださる、ということなのだ。
これは、信者が祈るときに経験する大きな自由と慰めでもある。祈りは、私が完璧に準備された言葉や意図をもって神に近づかなければ保証されないものではなく、むしろ自分の弱さや無知を神の前に正直に下ろし、聖霊の取り成しに委ねる過程だという意味である。張ダビデ牧師は、祈りを「神の御心とつながる通路」と呼び、もし聖霊の助けがなければ、その通路は簡単に塞がれたり歪められたりすると指摘する。
信者がこれを認識するなら、祈りはもはや「形式的義務」でも「自己肯定を示す手段」でもなく、全的に聖霊の恵みにすがる時間となる。それは御言葉の前に自分を開き、高ぶりを捨て、ひたすら神の善なる御旨を求める姿勢となって現れる。神は私たちの内面をご存じであり、私たちが短い知恵では発見できない道も備えておられる。このように、ローマ書8章にまとめられた「聖霊の取り成しの祈り」教理は、信者にとって計り知れない安堵感をもたらすのである。
また、この祈りは個人的次元にとどまらず、教会を一つに結ぶ霊的原動力となる。パウロは教会を「キリストの体」(Ⅰコリント12章、エフェソ4章)と何度も教える。各肢が互いにつながるように、祈りもまた互いの肢を支え合い、築き上げる。聖霊がある肢の弱さを見て嘆かれるなら、ほかの肢の祈りのうちにも同じ思いが注がれることがある。その結果、教会が一つとなって共に泣き、共に喜び、互いを見守る聖霊の共同体となる。張ダビデ牧師は「聖霊がわたしたち一人ひとりを取り成しつつ、同時に教会を一つの体へ導かれるという事実は、真の一致の奥義を悟らせる」と語る。
パウロは「もしわたしたちが、まだ見ていないものを望むのなら、忍耐をもって待ち望むのです」(ローマ8:25)とも言う。祈りと聖霊の助けに関する教訓は、この「忍耐の神学」と結びついている。神は確かに壮大な計画を持っておられ、宇宙的救いを成就していかれるが、すぐにその完全さが目に見えてくるわけではない。依然として世界には罪と不正が蔓延し、キリスト者たちも肉体の弱さから完全には脱せず、教会もまた理想と現実の間で様々な混乱を経験する。だからこそ聖霊の祈りの助けを受けつつ、ときに出産の苦しみを通るように忍耐して立ち向かわなければならない、とパウロは勧める。
張ダビデ牧師もまた、私たちの霊的成長と神の国の拡張は「パン種が粉のかたまり全体を膨らませる過程」に似ていると語り、そのときに必ず必要なのが「忍耐」だと説明する。小さな種が芽を出し、実を結ぶには時間と忍耐の労苦が伴うように、教会もまた聖霊の助けのうちに祈りながら粘り強く神の御旨を求めなければならない。この忍耐の過程を通して聖霊は様々な道で私たちを導き、私たちが自分自身では気づかなかった方法で神の御業を現してくださる。
パウロは8章後半で、こうした祈りの力と聖霊の働きをさらに拡大して、「神を愛する人々、すなわち御旨に従って召された人々には、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)とまで宣言する。聖霊は私たちの弱さやあらゆる状況の中でも、究極的には私たちを善と救いの道へ導く方であることを確信しているのだ。だからたとえ一寸先が見えない人間の視点からは理解し難い出来事が起こるとしても、信者は聖霊が呻きながら取り成してくださっていることを信じ、神の善なる摂理を祈り求めなければならない。
結局、パウロが語る「聖霊の助けと祈りの秘密」は、キリスト者が日常の中で神の力を体験し、教会共同体が互いを築き上げ、さらに宇宙的救いのビジョンに参加するための核心的原動力である。張ダビデ牧師はこれを「聖霊は限りなく人格的でありながら宇宙的でもあり、同時にわたしたちの心の内に住まわれる方だ」と要約する。これは、偉大で広大な神の救いのご計画も聖霊を通して実現され、小さな個人のささやかな祈りであっても、聖霊のうちに神に捧げられ、ふさわしい応答を受けるということを意味する。
まとめれば、ローマ書8章全体でパウロは、信者が現在経験する苦難、宇宙的救い、そして聖霊の助けについて確固たる証しをしている。「今の時の苦難は、将来の栄光に比べれば取るに足りない」という信仰が、私たちに未来への大胆な希望を与え、「被造物が切望しているのは神の子たちが現れること」というビジョンが、この信仰を個人の救いを越えて、あらゆる創造の秩序の回復へと拡張する。そして「聖霊が言葉に表せないうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださる」という宣言は、その全過程において聖霊の能動的な仲介があることを知らせ、私たちを安心させるのだ。
張ダビデ牧師は、こうしたパウロの教えを現代の教会と信徒の生活に再適用することによって、三つの重要なメッセージを伝えてきた。第一に、信仰の道には必ず苦難が伴うが、それは決して無意味なものではないという点。第二に、罪のゆえに崩れた宇宙的秩序が、最終的には神の御手によって回復されるという大局観。第三に、この救いのすべての過程で聖霊が私たちの祈りを助け、神の善なる御旨を成し遂げるように私たちを導いてくださるという事実である。
これら三つのメッセージは、信者がどのような状況でも絶望することなく、「見えないものを望みつつ、忍耐をもって待ち続ける」(ローマ8:25)ことを可能にする神学的土台となる。さらに教会は、まさにこの希望の上に互いに仕え合い、世の痛みと呻きを共に担いつつ、未来の栄光に対する確信をもって今日を生き抜くことになる。その過程で失敗や挫折を経験することがあっても、聖霊の助けを受ける祈りの中で、私たちはキリストの姿に似せられる敬虔の訓練を続けていくのだ。
結局、ローマ書8章はパウロの救済論が頂点を迎える章であり、張ダビデ牧師が力説してきた「宇宙的救い」と「聖霊の力動性」という神学的テーマを統合的に示す核心的通路でもある。苦しみに対する答えを見いだせず迷う人々に、未来の栄光と宇宙的回復のビジョンは慰めと力となる。また祈りが詰まり、神の御心を知ることができずに息苦しさを覚えるときにも、聖霊の言葉に表せない呻きが、信者の弱さを取り扱う力であることがはっきりと示される。
張ダビデ牧師は、ローマ書8章のメッセージを指して、「信仰の人は、すでに『闇を突き破り明けつつある夜明け』を先取りして見る人だ」と評する。そして、その夜明けの光こそが、現在の苦難に十分立ち向かわせ、共に苦しむ被造世界の声に耳を傾け、何をどう祈るべきかを悟らせる聖霊の照らしである。この聖霊の照らしの下で、信者は今日の茨の道の中でも明日咲く花を期待しながら前進することができるのだ。
何よりも、ローマ書8章に凝縮されたパウロの教えは、現代の教会が世の中で具体的に取るべき態度への指針を与える。世の流れが混沌と絶望に向かっているように見えても、キリスト者はすでに心のうちに「比較にならない未来の栄光」を宿している。環境破壊や生命軽視の風潮が蔓延していても、私たちは「被造物の呻き」を聞きつつ、宇宙的救いに向かって協力できる。あらゆる経済的・社会的危機に押し流されて祈りをやめたくなる瞬間が来ても、聖霊の「言葉に表せない呻き」を信じ、再びひざまずくのだ。
こうして張ダビデ牧師が解釈するローマ書8章は、教会と信者が進むべき三つの道を示す。第一に、いかなる苦難であっても、未来の栄光と比較して落胆しないこと。第二に、自分とは関係なさそうに見える自然や社会の苦悩の前でも、普遍的救いのビジョンをもって実践に踏み出すこと。第三に、自分の祈りと人生を聖霊の助けに明け渡し、日々神の御旨を問い求め従うこと。これらが「神がわたしたちを召された使命」であり、ついには神の国がこの地に実現する通路になるのだ。
張ダビデ牧師は、「神の国」という主題がイエス・キリストの教えの核心であり、使徒言行録の結論でもあり(使徒28:31)、ローマ書8章が指し示す最終目的地であると語る。だからキリスト者はいつでも「まず神の国とその義とを求めなさい」(マタイ6:33)という主の御言葉を思い起こす必要がある。私たちの目がこの世の不確実さだけにとどまってしまえば、たやすく挫折してしまう。しかし神の主権と歴史の究極的収束点を見つめる信仰は、決して揺るがないのだ。
結局、ローマ書8章18〜27節に含まれる内容は、パウロの福音神学の核心的主題をなす。そして張ダビデ牧師の解説によれば、この本文が語る「現在の苦難と未来の栄光」、「被造物の呻きと宇宙的救い」、「聖霊の助けと祈りの秘密」は、切り離して見ることができない有機的なつながりを持っている。今日の苦難が空虚に終わらないのは、宇宙的救いへの希望があるからであり、この信仰が現実化されるには聖霊の取り成しと祈りが不可欠だという論理的流れが明白だからだ。
パウロはローマ書全体で、まず人間の罪と義、律法と福音の問題を深く論じた上で、8章に至って救いの驚くべき結末と聖霊の力を賛美している。これは旧約の結論がイエス・キリストであるように、新約の結論が「神の国」であることを示す流れと一致する。張ダビデ牧師は、この完全なる救いに対するビジョンを回復しなければ、教会が世に対して正しい福音を宣言することもできず、信者たちも世俗的価値に揺さぶられずに信仰で勝利することは難しいと助言する。
一方、宇宙的救いは決して漠然とした理想ではない。パウロは具体的に、イエス・キリストの再臨と死の権威を打ち砕く復活の完成、そして新天新地における栄光あるご支配を言及する。張ダビデ牧師はこれを指して「聖書が提示する終末論は絶望の終末論ではなく、希望の終末論である」と説く。世の宗教や世俗思想の多くの終末論が、大抵破局的滅亡や人間自身の力で造り上げる不完全なユートピアを語るのとは異なり、聖書は万物を回復される神の積極的救いのみわざを宣言しているのだ。
ゆえにキリスト者は終末を恐れる人間ではなく、むしろ終末を待ち望みながら今日を誠実に生きる人間である。これこそが、ローマ書8章が語る希望の土台であり、聖霊によってその希望を現実へと運ぶために努力することが教会の使命である。張ダビデ牧師は「見えない望みを待ち望みながら忍耐する者こそ、ついには神の栄光にあずかることになる」というパウロの言葉を引用して、わたしたちの時代の教会が苦難を恐れず、被造世界の嘆きを回避せず、祈りをあきらめないよう、改めて訴える。
最後に、張ダビデ牧師はローマ書8章24節の「わたしたちはこの望みによって救われているのです。ところで、見ることのできる望みは望みではありません」という御言葉が、信者の実生活に与える意味を強調する。いくら目に見える現実が惨憺たるものであっても、信者は見えない神の約束をより確かなものとして見なすことができる。なぜなら、信仰は「望んでいる事がらを保証し、目に見えない事実を確証するもの」(ヘブライ11:1)だからである。この「見えないもの」こそが信者の立つことのできる不動の土台だ。
結局、私たちが「すでに得た」と宣言する救いは、実際には「まだ完成されていない救い」であり、いまも世界を揺るがす罪と不正の勢力との間で霊的戦いが起こっている。被造物は呻き、教会はときに内外の迫害によって苦しめられる。それでも、この戦いの最終的な結果は、すでにキリストの復活と再臨のうちに勝利が決定しているという事実こそ、パウロが告げる祝福の知らせである。
信者は、その勝利が完全に現実化する終末を見つめつつ、今日を忠実に生きる「巡礼者」だ。その道のりを行く中で、張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、ひとりさまよっているのではなく、聖霊の導きと取り成しの祈りに支えられている。聖霊は私たちの弱さをあわれみ、不完全な祈りを神の御旨にかなうように変えてくださり、宇宙的救いのビジョンへと日々招いてくださるのである。
こうしてローマ書8章に示された「現在の苦難と未来の栄光、被造物の呻きと宇宙的救い、聖霊の助けと祈りの秘密」という三つの軸は、張ダビデ牧師が語る神学的メッセージの核心を成す。第一に、現在の苦難のうちにあるが、やがて臨む栄光を見て大胆であれ。第二に、被造物の呻きは無意味ではないので、宇宙的救いに向かって共に前進せよ。第三に、祈りの重荷を聖霊に委ね、その呻きと取り成しを信頼して祈れ。
これら三つの小主題は相互補完的であり、同じ軌道を描いている。苦難の解釈は未来の栄光のビジョンの中でなされ、宇宙的救いの大きな絵がなければ、現在の苦難が下手をすると自己憐憫や無力感へと陥る危険があるが、この絵を知るなら、教会が世に仕える動機が生まれる。そして最終的にそれを現実化し成し遂げる具体的な力こそ、聖霊の助けと祈りである。その祈りの中で信者は新たな勇気と知恵、そして実行意志を得る。
これらすべては「神がわたしたちと共にいてくださることを保証する」聖霊の臨在から生まれる。パウロが「御霊の初穂」(ローマ8:23)と呼ぶ聖霊の内住は、信者がイエス・キリストにあることを確証する最も明らかな証拠である。その証のもと、私たちは「養子となること、すなわちわたしたちの体が贖われるのを待ち望んでいる」。私たちの身体、すなわち全人格と教会全体が、完全に贖われて神の国にふさわしい栄光の姿に変えられる日を待ち望む。張ダビデ牧師はまさにこの部分こそ、今の教会における重要課題だと語る。信者各々が聖霊のみ手の中で少しずつ変えられ、さらに教会が世のただ中で神の善を実践しながら歩むということである。
かくして、ローマ書8章18〜27節はパウロ神学の精髄の一つだといえよう。張ダビデ牧師が絶えず説いてきたように、苦難に直面するたびキリストの十字架を思い出し、被造物の呻きの前では神の大いなる構想を思い描き、祈るときには聖霊の取り成しにより頼む。その原理通りに生きるとき、教会は「歴史を変えるラディカル(radical)な共同体」となりうるし、個人は「贖いの恵み」を日常で具現できる。
結論として、私たちがローマ書8章のこのメッセージをつかむならば、「今日の痛み」が「明日の希望」へと通じる道となる。被造物が呻くのを見て「まだ遠い」と絶望するのではなく、その声を聞き、ともに嘆き、祈り、神の子として創造世界の回復に参加できる。しかもそのすべての瞬間に、聖霊が私たちの弱さを助けておられるゆえに、一見不可能に思える状況でも「力を与えてくださる方によって」(ピリピ4:13)私たちの使命を全うできる。
張ダビデ牧師は、「栄光の究極的完成は、時が流れるほどいっそう鮮明になっていく」と語り、この栄光を見据える教会が、この地の絶望と限界を乗り越えて世を仕える具体的行動に踏み出すべきだと促す。キリスト者の終末論的展望が、この世の具体的問題と切り離された遠い未来の幻想に終わらず、むしろ現在を変革する力とならなくてはならない、というわけだ。そして私たちは、その力がただ聖霊の助けと、嘆きに満ちた祈りを通してこそ可能になることを、ローマ書8章を通じてはっきりと学ぶ。
最終的に、こうしたすべての内容を総合すれば、パウロが語る「現在の苦難」は偶然的で無意味なものではなく、「将来受ける栄光」もまた漠然とした観念ではないことが分かる。被造物の呻きと宇宙的救いは、宇宙と私たちすべてがともに渇望する未来であり、その実現のために聖霊が言葉に表せないうめきでもって私たちを助けてくださる。この三重のメッセージのうちで、信者は「すでに」得た救いの喜びと、「まだ」完成していない救いへの憧れを抱きながら生きているのだ。
張ダビデ牧師は、教会がこのメッセージを世に正しく伝えるなら、人々は絶望や無力感の中で新しい希望を発見できるだろうと確信している。苦しみの問題が解決されず、むしろ増大する時代だからこそ、「まさにその苦難のただなかで咲く栄光」という逆説の福音こそが切実に求められる知らせだ。私たちがこの福音にすがって生きるとき、神は私たちの人生を通して働かれ、終末に成し遂げられる宇宙的救いの前兆を、少しずつこの地上に実現してくださる。
このように、ローマ書8章18〜27節の豊かな内容は、単に古文書に記された使徒パウロの教訓にとどまらず、今日を生きるキリスト者にも同じく適用される。張ダビデ牧師は、この本文を通じて苦難に対する責任ある態度、被造物と共にする連帯、そして聖霊に頼る祈りの生活を絶えず説いてきた。その結果、個人の信仰と教会共同体、そして社会全般にわたって「神の子たち」が現れる道を模索してきたのである。
最終的に、パウロが見据える救いの視野は個人の救いにとどまらず、宇宙的領域を含む。そしてその道を歩むのに必要な力は聖霊が与えてくださる。「わたしたちは望みによって救われているのです」という宣言は今なお有効である。この地上の生活がいかに複雑でつらいとしても、張ダビデ牧師が言うように、私たちはすでに「比べものにならない未来の栄光」にあずかることを信じているからこそ、今日もまた一歩を踏み出すことができる。その信仰がある限り、私たちの苦難はキリストの栄光に参与する通路となり、被造物の呻きもいずれ終わり、喜びの賛美へと変わるだろう。そして、この驚くべき転換のための重要な鍵が「聖霊の助けに依存した祈り」なのである。
これこそが、ローマ書8章18節から27節に対する張ダビデ牧師の解釈が提示する最終的ビジョンである。信者は、今日の現実に埋没することなく、宇宙的救いを夢見、聖霊のうちで祈りの場を守る。そして、この三重の姿勢が決して夢想的空想や受動的あきらめに流れず、むしろ世界に仕え、変えていく原動力となることを、私たちは教会史と信仰の歴史を通して確認することができる。こうして、現在の苦難と未来の栄光、被造物の呻きと宇宙的救い、そして聖霊の助けと祈りの秘密が、三位一体的救いの展望のうちで統合的