信仰によって生きる ― 張ダビデ牧師


.福音を恥じることがない

使徒パウロはローマ書1章16節で次のように宣言します。

「私は福音を恥とは思いません。この福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人を救いに導く神の力です。」(ローマ1:16)

この簡潔でありながらも力強い言葉には、初代教会が置かれていた時代状況、そしてキリストにあって示された神の救いのご計画が圧縮されているといえます。福音を宣べ伝える者が避けられない世の嘲りや、全く異なる価値観に満ちていたギリシア・ローマ世界の文化的障壁のただ中で、パウロは「福音を恥じない」と堂々と宣言し、宣教者としての確信と神学的洞察を明らかにしたのです。

1世紀当時のローマ帝国は、政治・軍事・文化のいずれの面においても絶対的優位を誇る超大国でした。華麗な建築物、優れた道路網、すでにギリシア的世界観と結合した高度な哲学的伝統が相まって、ローマはまさに「輝かしい帝国」として君臨していたのです。今は廃墟のように残っているコロッセオ(円形競技場)やフォルム(Forum)の遺跡を見ても、2千年前のローマがいかに強大で巨大であったかを推測できます。そのような威容ある帝国の中心地において、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えることは、決して容易なことではありませんでした。十字架での死はユダヤ人にとっては呪いとみなされ、ギリシア人(当時の知識階層)にとっては愚かしさの極みと考えられていたのです。

実際、パウロ自身もコリント第一の手紙で「十字架の言は、滅びる者たちには愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」(Ⅰコリント1:18)と語っていますが、これはローマ人(特に知識人層)だけでなく、当時ギリシア哲学を基盤に高尚な学問世界を追求していた人々にとって、福音がいかに受け入れ難いものとして響いたかをよく示しています。

それにもかかわらず、パウロは大胆に「私は福音を恥じることがない」と宣言します。それどころか、この福音こそ「信じるすべての人を救いに導く神の力」なのだと告げるのです。世の人々は各々、自分たちの追い求める道を「力」と呼びますが、パウロの目には、そのすべての「力」(あるいは知恵や権力)も結局、罪の影の下にあり、滅びに向かっているように映っていました。ローマがどんなに華やかでも、その知識がどんなに深そうに見えても、権力者がいかに強大に思われても、すべての人間は罪の刑罰からは自由ではなく、いつか神の裁きの前に言い逃れることはできない——これがパウロの認識です。だからこそ福音こそ唯一の道であり、真の力だというのです。

パウロの手紙を読む際、彼が同時に念頭に置いていたコリント教会の信徒たちを想起するとよいでしょう。コリントは港町として商業的に豊かでしたが、下層民や奴隷階層が多く、道徳的・霊的混乱が非常に深刻でした。パウロは、自分のような福音伝道者や、現地のクリスチャンたちが当時の社会で「世の屑」(Ⅰコリント4:13)のように扱われていることを隠し立てしません。しかしこのように低くされた生活地位や社会的冷遇とは無関係に、すでに主のうちに救いの恵みを経験していたパウロは、福音の「実体」を知っていました。十字架の福音は「恥ずべきもの」ではなく、むしろ究極的かつ永遠の力であり、それ自体が信徒にとって栄光のしるしとなると確信していたのです。

特に張ダビデ牧師は、さまざまな講演や説教において、パウロのこのような自信と確信を現代社会の信仰者にもそのまま適用すべきだと強調してきました。物質的豊かさと急速な情報化、多様な文化・芸術の発達によってきらびやかに見える現代文明の前で、クリスチャンたちが「もしかして福音は幼稚に見えるのではないか」「十字架というメッセージが時代遅れに思われてしまうのではないか」といった不要な恥ずかしさや萎縮を感じてしまうことが少なくないからです。しかし張ダビデ牧師は言います。

「まさに今の時代こそ福音の本質が必要なのです。なぜなら、人間自身が作り出した文明や技術、思想やイデオロギーの弊害によって、かえって世界はより深い混乱と挫折を経験しているからです。」

この言葉はパウロが「私は福音を恥じません」と宣言したことと表裏一体です。福音は本質的に永遠のものであり、どのような時代的価値や人間的な評価をも超越する「神の力」だからです。

では、パウロが語った「信じるすべての人を救いに導く神の力」という表現は、どのように理解すべきでしょうか。イエス・キリストの死と復活を信じ、その方を救い主と告白するなら、すべての罪人が救われるというキリスト教福音の核心教理がここではっきり示されています。ユダヤ人だけの救いではないのです。「まずはユダヤ人、それからギリシア人へ」という表現は、この福音が全人類に向けて開かれていることを説明します。「ユダヤ人とギリシア人」は当時一般的に用いられた区分で、ユダヤ人と異邦人を広く指し示す呼称でした。したがって、ここでパウロは「あなたがたがユダヤ人であろうと異邦人(ギリシア人)であろうと関係なく、キリストを信じる者は皆救いに至るのだ」という意味を含ませています。これは使徒言行録に描かれているように、五旬節の聖霊降臨の後、エルサレムの内側から始まった福音がサマリアへ、さらに異邦地域へと広がり、世界中に宣べ伝えられていった歴史的事実とも正確に一致します。このように「福音」はその境界を「神を求めるすべての人」へと広げ、彼らが主のうちに同じ恵みと力を体験するよう招く、驚くべき超越性をもつのです。

コリント第一の手紙1章22〜24節には、こう書かれています。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を追い求めます。しかし私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かでしょう。けれども、召された者たちにとって…キリストは神の力、神の知恵です。」

十字架につけられたキリストは、当初ユダヤ人にもギリシア人にもなじみの薄いメッセージでした。旧約の律法的な概念の中で「木にかけられた者はすべて呪われた者」(ガラテヤ3:13)とされていたことから、「十字架につけられたメシア」というのはどうしても受け入れがたいものでしたし、一方でギリシア哲学者たちが追い求めていた道徳的かつ知的な「ソフィア(知恵)」の世界に、「十字架刑に処せられた死刑囚」を中心に据えることなど到底あり得なかったからです。しかし、その十字架という「愚かしく見える」出来事こそ、神が計画された救いの中心でした。そしてパウロは、この点を誰よりも熱烈に弁証し、その弁証の土台をハバクク(ハバクク)預言者が語った「正しい人は信仰によって生きる」という言葉と直接的につなげて解釈していきます。

ローマ書を記した当時のパウロの置かれた状況、そして彼が主から受け取った啓示と確信を考慮すると、福音を恥じない彼の態度は単なる「大胆さ」を超える意味を持っています。それは一人の魂を救うにあたり、世のいかなる知識や権勢でもなし得ない「神だけが持つ力」が十字架の福音の内にあることを発見した者の、喜びにあふれた確信なのです。たとえば古典文学において、アウグスティヌスの『告白録』や『神の国(De Civitate Dei)』を例に挙げることができますが、アウグスティヌスもまた若い頃には世の哲学や学問を追い求めました。しかし結局はキリスト教の福音の内にこそ、彼が切に求めていた「真理」を見いだしたと告白します。ギリシア・ローマ哲学への愛着と探究心が人一倍強かったアウグスティヌスさえ、回心後は十字架の道こそ人間が最終的に拠り頼むべき「唯一の知恵」だと語りました。これはまさしく使徒パウロの「私は福音を恥じません」という宣言とも軌を一にする証言です。

張ダビデ牧師も同じ文脈で、この十字架の力を繰り返し強調しています。デジタル文明が進み、新しい思想や情報が氾濫する21世紀において、「救い」や「贖罪」、「神の裁き」といった主題は古びたもののように見えるかもしれません。しかし実際のところ、人間の罪性は依然として変わらず、倫理的混乱や霊的な空虚感がますます深刻化している時代だというのです。ゆえに今こそ、「私は福音を恥じない」という告白が、いっそう求められていると力説します。どれほど大きく栄光に見える帝国や文明、あるいは知識も、罪と死のゆえにあっけなく崩れ去ることがあり得る。唯一、神の福音だけがすべての信じる者を救いに導く力なのだという、2千年前のパウロの宣言は、現代においてもまったく色あせていないというのです。

さらに言えば、コリント第一の手紙4章13節でパウロは、福音の伝播者として、またイエス・キリストを信じる者としての自分自身が「世の屑」のように扱われたと告白しています。これは当時のクリスチャンたちの社会的地位を端的に示す表現です。キリスト教は決して社会の上流階級や支配層の大多数から支持された状態で始まったわけではありません。むしろイエス様が語られたように、「疲れた人、重荷を負った人」「失われた羊」「疎外された者」たちが恵みにあずかったことで、福音は力を発揮してきました。パウロの宣教を見ると、彼がローマ社会やギリシア哲学の絶対的権威を前に少しも萎縮することなく、むしろ「彼らこそ滅びに向かう者であり、福音を必要とするのだ」という視点で世を見ていたことがわかります。だからこそ「私は福音を恥じません」の言葉の後には、「なぜなら」という理由(ギリシア語原文でも確認できる)が続きます。彼が福音を誇りとし、それを力強く打ち出す理由は、この福音が罪と死の権威を打ち破り、新しい命を与える真の「神の力」だからにほかなりません。

このように現代のクリスチャンである私たちも、パウロの告白をそのまま継承すべき責任があります。教会が世間から嘲られることもあるでしょうし、ときには知性や学問、あるいは文化芸術の最先端を行く知識人たちから「キリスト教は古い神話にすぎない」と攻撃されるかもしれません。しかし私たちはローマ書1章16節のこの告白を改めて心に刻む必要があります。福音は昔だけに通用した古い思想ではなく、人類すべてが直面する罪と死の問題を根本的に解決する神の力です。この事実をしっかりと握るとき、どのような状況の下でも「私は福音を恥じません」と自信をもって宣言できるでしょう。そしてその宣言は、私たちの知識や地位を超えた、「イエス・キリストの十字架と復活」がもたらす永遠の力に根拠をおくのです。


.ただ信仰によって生きる

パウロは続いてローマ書1章17節で、福音に含まれるより深い意味を示しています。

「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり、信仰へと導くのです。『正しい人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17)

この節はローマ書全体の核心テーマであり、キリスト教の救い論の中核を成す聖句として広く知られています。宗教改革の発端となったマルティン・ルターも、「正しい人は信仰によって生きる」というこの言葉を深く悟ったことにより、「信仰による義認」の教理を再発見し、大いなる喜びを得たと伝えられています。

1. 「福音には神の義が啓示されており、信仰から信仰へと至る」

まず、ここでパウロが言う「神の義」とは、罪人が義人に変えられる“義と認められる”通路であり、その出発点、そして中心はイエス・キリストの十字架にあります。すなわち「イエス・キリストによる代償(代贖)」を通して明らかにされた神の救いのご計画が「神の義」というわけです。律法のもとでは罪を犯した者は刑罰を免れず、結局は「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)でした。人間は自力では義を成し遂げられない存在であり、律法が示す義の基準に達することはできないからです。しかし神は愛によって独り子イエス・キリストをこの地上に送り、その方の十字架の犠牲によって私たちの罪の代価を負わせてくださいました。こうして「神の義」は「罪人をイエスの血によって義と宣言される神の贖いのみわざ」として具体化されたのです。

パウロはコリント第一の手紙1章18節で、「十字架の言は、滅びる者たちには愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」と言い切ります。これは、十字架が「滅びゆく者たち」(福音を拒む者たち)にとっては全く理解しがたい愚かしさにしか思えないものですが、すでにキリストの恵みを経験した者にとっては命を与える力そのものであるということです。この力こそ、「神の義」が実際に作用する場面と言えます。罪人がどうして義人になり得るのか——これは人間の理性や合理性では説明がつきません。しかし神は、この不可能と思われること(罪人を義とみなし、その根拠として独り子の死を差し出すこと)を十字架で成し遂げてくださり、私たちはそれを「信仰によって」受け入れるだけで義とされる新たな道が開かれたのです。

ここでパウロは「信仰から信仰へと導く」と表現します。すなわち「信仰に始まり、再び信仰に至る」という構造です。初代教会以来、さまざまな解釈が存在しますが、もっとも一般的には「信仰によって始まったものが、さらにその信仰を深め、成長し、完成へと向かう過程」を言うと考えられます。私たちは最初、福音の言葉を聞いてイエスを救い主と「信じる」段階がありますが、その信仰が成長するにつれて、人生全体を通して神の義を仰ぎ見るようになり、最終的に「ただ正しい人は信仰によって生きる」という宣言の中で、より確固たる救いの確信と聖霊の力を味わうようになるというのです。

アウグスティヌスやトマス・アクィナスなどの神学的探求を見ても、彼らが共通して強調する点があります。それは「人間のうちにある功績や行為ではなく、ただ神の恵みによって達成される救い」への確信です。アウグスティヌスは『告白録』の中で自身の若い頃を回想し、哲学的放浪や快楽的生活を繰り返していた自分こそ「神から離れた罪人」であると悟り、ローマ書の言葉に触れる中で「ただ恵み、ただ信仰」の道を見出したと告白しています。すでに古代キリスト教の時代に確立されていた「恩寵の教理」が、中世を経て宗教改革の時代に入り、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンといった多くの改革者たちによって改めて大きく注目されたのも同じ原則によるものでした。「神の義」がイエス・キリストを通して現され、それを「信仰によって」受け入れるときに人は義とされるという「信仰義認」の教えは、現代に至るまでキリスト教信仰の最も重要な救い論の骨格として位置づけられています。

この真理を現代的に説いている人の一人が、ほかでもない張ダビデ牧師です。彼は多くの説教や著作で、現代人が陥りやすい罠として「自力救済(自分の善行や功績によって義を得ようとする考え)」と「相対主義(他人と比べて自分はそこまで罪人ではないと思う態度)」を挙げています。私たちはよく「自分はそれほど大きな罪人じゃない。世の中にはもっと悪い人がたくさんいるでしょう?」などと思ってしまう瞬間に、神の前での絶対的な罪人としての自覚を失いかねないというのです。唯一、神の義だけがイエス・キリストという客観的かつ絶対的な解答を提示し、この義の福音を「信仰」によって受け取り生きるときに、初めて真の自由と聖なる道へ進める——これが彼のメッセージの要です。ここで言う「信仰」は単に頭で理解する知的同意ではなく、命を懸けてすがる「全人的な信頼」を意味します。パウロが「信仰から信仰へ」と言い、途切れなく成長し成熟していくと語ったことは、この点と正確に符合しています。

2. 「ただ正しい人は信仰によって生きる」の際的意味

「正しい人は信仰によって生きる」という言葉は、旧約聖書のハバクク書2章4節を引用したものです。ハバクク預言者は、当時強力な侵略勢力として台頭していたバビロンの脅威の前で、神の正義と守りを求めて叫びました。神は彼に「正しい者はその信仰によって生きる」との黙示をお与えになります。これは激しい歴史のうねりの中で、人間の力や知恵ではどうにもならない危機に直面したとき、最終的に残るのは「神の約束を信頼する信仰」であるという超越的真理を強調したものです。世界が崩れ落ちるように見えても、その中で神の契約を握る者は滅びないという宣言なのです。

パウロはこの約束の言葉をイエス・キリストの福音と結びつけ、「今やイエス・キリストを信じる者こそがその正しい者であり、彼は信仰によって生きる」と拡大解釈しました。かつてイスラエルの民がバビロンの侵攻に震え上がっていたように、私たちもまた、罪と死、そしてあらゆる混乱に満ちた世界を目の当たりにするとき、ときに恐れに落ちることがあります。経済危機や戦争、飢饉、疫病、日々の大小さまざまな問題が尽きません。しかし「ただ正しい人は信仰によって生きる」という宣言は、あらゆる状況を超えて神の救いのご計画があるという希望を伝えます。私たちが正しい者とされるのは、自分の正しさや資格のおかげではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってです。つまり、信仰という回路を通して神の命と義が私たちのうちに入り、私たちは「生きる」のです。

「生きる」というのは、単に肉体的な生命維持を指すのではありません。聖書における「生きる」(命)とは、すなわち「神との交わりの中で味わう真の生命」を意味します。共同訳聖書がローマ書1章17節を「信仰によって神と正しい関係を得た者は生きるであろう」と翻訳しているのも、この意味によります。すなわち「義とされる」とは「神との関係が回復される」ということと同義であり、「生きる」とはその関係の中で享受する永遠の命を指しています。

ここで張ダビデ牧師は「神との生きた関係」を特に強調します。長年教会に通い、聖書の知識や神学の勉強をたくさんしていても、実際に神と「人格的な関係」を結べていなければ、依然として乾いた信仰のままにとどまる可能性があるのです。しかしその関係が実際に生き生きとしているならば、礼拝の中で、御言葉の黙想の中で、また日常生活のあらゆる瞬間において「正しい人は信仰によって生きる」という告白が、身体の呼吸のように自然になっていく、と彼は説きます。これは単に「教理としての信仰」を超えた、「人格的で実存的な信仰」へと成長する過程でもあるのです。パウロが言った「信仰から信仰へと至る」継続形の歩みがまさにここに該当します。

「正しい人は信仰によって生きる」という表現は、最終的には神の裁きの日に滅びることなく永遠の命を得るという終末論的な確信も含んでいます。ハバクク預言者がバビロンの襲来を前にしても、神を畏れ真実に信じる正しい人は滅びないと宣言したように、ローマ帝国による大迫害や数多の異邦哲学の嘲りに直面した時代においても、パウロと初代教会の信徒たちはこの約束を握りしめました。そして実際にキリスト教は、人間的な武力や政治権力ではなく、福音への信仰を土台として「当時最強の帝国」であったローマ帝国を霊的に覆してしまったのです。

古代教会史をみると、コンスタンティヌス皇帝の時代以降にキリスト教が公認され帝国全土へ広がっていきますが、その前の迫害時代にも、数えきれない多くのクリスチャンが牢獄やコロッセオで命を落としながらも信仰を守り抜きました。これはまさに「ただ正しい人は信仰によって生きる」というみ言葉の実践例と言えます。彼らが世の権力と妥協せず、さらには命さえも差し出せた背後には、「福音に表された神の義」が確実だという信仰があったのです。何よりも、イエス・キリストの十字架と復活という変わらぬ出来事を根拠に、自分たちにも同じように永遠の命が保証されていると確信していました。

このような文脈は、私たちが生きる21世紀にもそのまま当てはめられます。コロナ禍、国際紛争、経済格差の拡大、個人の孤独や人間関係の破綻など、数えきれないほどの課題や問題が山積みの状況の中で、多くの人々が無力感や不安に陥っています。しかし逆説的に言えば、人間の力や知識が限界を露呈するときにこそ、福音の力は一層鮮明に輝くのです。「ただ正しい人は信仰によって生きる」という宣言は、この混沌とした時代に生きる私たちにも初代教会と同じ希望があることを告げています。私たちが義とされること、救いを得ること、永遠の命にあずかること——これらすべては「信仰」という回路を通して可能になり、その信仰の根拠は「イエス・キリストの十字架と復活」という歴史的かつ超越的な出来事にあるのです。

イエス様はこの過程を指して「人の子が来たのは仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、多くの人の身代金として自分の命をささげるためです」(マタイ20:28)と直接に語られました。またヨハネ福音書15章13節には「友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はありません」と記されています。つまりイエスの死は「私たちの身代わりの贖いの死」であり、その贖いこそ「神の義」をもっとも完全に示す場面なのです。そしてそのイエスの死を私が「信仰」をもって受け入れるとき、神は私を義と宣言してくださり、永遠の命の道へと導いてくださる。これがキリスト教福音の核心であり、ローマ書1章16〜17節がめざす結論でもあります。

張ダビデ牧師は多くのセミナーや講演で、この「信仰によって生きる道」をより具体的に説明します。たとえば、人間の内面にある罪の性質は、一度信じたからといって一気に完全消滅するわけではないため、日々の生活の中で継続して福音を黙想し、聖霊の導きに従う「実践的な聖化」が重要だというのです。ただし、その出発点はあくまでも「自分の善行」や「自分の努力」ではなく、すでに神が完成された「神の義を信じること」である点を見失ってはならない、と強調します。義とされる道、すなわち神と正しい関係に入る道は、ただ十字架の恵みを信仰によって受け入れることから始まるのです。

これに関連して、聖書から見出される古典的な例として、創世記15章6節を挙げることができます。「アブラムは主を信じ、その信仰をもって彼は義と認められた」という言葉は、旧約の時代からすでに「神を信じること」が「義と認められる」原理として働いていたことを示唆します。アブラハムは自分の正しさや業績ではなく、「神の約束」を信じる信仰によって義とされましたが、この原理がイエス・キリストの時代に到来してさらに明白に示されたのです。ですから、旧約・新約を通して核心となるのはいつでも「信仰」でした。ただ、イエスの十字架の出来事以後は「メシアがすでに来られ、死に、そして復活された」という、より鮮明な事実に基づいて救いにあずかれるという時代的祝福が与えられた点が異なるだけです。

したがって、「ただ正しい人は信仰によって生きる」というこの一節は、実は私たちのあらゆる信仰的実践や霊的旅路に深く影響を及ぼす中心軸でもあります。福音を宣べ伝えるにあたっても、人々がまず完璧になることや、高度な哲学的思考に到達するのを待つのではなく、あるがままの姿で福音を伝え、彼らがイエスを信仰によって受け入れるとき、神がその人を義としてくださるのだと大胆に宣言すればよいのです。また私たちの平日の日常の中でも、「自分は今も救われた者であり、神の子どもとされた状態にある」という事実をどれだけ確信して生きているかを絶えず点検してみることができます。パウロが「福音に現れた神の義」を誇り、「福音を恥じない」と語った背景には、彼自身がすでに十字架の恵みを深く体験したという生きた証しがありました。結局、私たちも同様の体験を続けて味わうときにこそ、信仰から信仰へと成長し「正しい人は信仰によって生きる」という生き方を実感できるのです。

古典文学では、『神曲(La Divina Commedia)』で有名なダンテ(ダンテ・アリギエーリ)が、地獄・煉獄・天国を象徴的に描く中で「信仰」を強調した中世文学の巨匠として知られます。彼は叙事詩全体を通じて、人間は罪により煉獄や地獄の裁きを免れがたいが、最終的に完全なる救いに達するには「神の恩寵」が必要だと示唆しています。神学的に緻密な構成ではないかもしれませんが、中世キリスト教世界観のもとで、「正しい人は信仰によって生きる」という教理が文学的・芸術的形式を通して提示されていたとも言えます。パウロが語った救いは初代教会や使徒時代にだけ通用したのではなく、人類の歴史全般にわたり、多くの芸術家や信仰者がさまざまな形でこれを告白してきたことからも、「ただ正しい人は信仰によって生きる」という聖書の言葉がいかに深遠で力強いメッセージを含んでいるかを改めて再認識することができます。

ローマ書1章16〜17節は、このすべての信仰の旅路の始まりと結論とを同時に含んでいるといえます。要約するならば、福音とは、人間の救いが全的に神の側から成し遂げられた出来事であり、イエス・キリストの死と復活によって完成された「神の義」を指し示します。そして罪びとである私たちがその義を受けて義人へと変えられるのは、ただ「信仰」を通してのみ可能であり、その結果として私たちは永遠の命を得て「生きる」のです。ゆえに「私は福音を恥じません」と語るパウロの声は、2千年の時空を超えて今日もなお有効な挑戦として響いています。それは世のどんな価値や評価にも揺るがない命の力であり、その中心には十字架にかけられたイエス様がおられます。そして「福音には神の義が現れている」と宣言するパウロの明言は、義を成し遂げ得なかった罪人が今や恵みによって義と認められるという神秘を照らし出します。このすべてのプロセスがまさに「正しい人は信仰によって生きる」というみことばの現実的成就であり、人間に対する神の驚くべき救いのご計画の結実なのです。

張ダビデ牧師をはじめ、現代の多くの教会指導者たちは、まさにこの福音の核心を握りしめながら時代に向かって叫んでいます。いかなる文化や哲学思想も、人間の罪の問題と死の問題を根本的に解決することはできません。しかし福音には、それらを解決する神の義と力が秘められていることを忘れてはならないのです。そしてこの福音を単に知的に理解したり、教養として取り入れるだけでなく、日々の生活の中に実際に適用し、「ただ信仰」という回路を通して生ける神と歩むように——これこそがローマ書を開くパウロの核心メッセージ、「私は福音を恥としません…ただ正しい人は信仰によって生きる」という、あらゆる時代を貫く真理だといえるでしょう。

私たちが覚えておくべきは、ただ信仰によってこそ人間は神と正しい関係を結び、その関係の中で「真の生」を享受し、永遠の命をつないでいくという真理です。この告白の上に、使徒パウロと初代教会、中世や宗教改革の時代を経て今日に至るまで、数えきれない聖徒と教会が立ってきました。今もそれは変わりません。福音を恥じないことによって、この福音こそが究極の力であることを証しすることができ、さらに「神の義」が現れた十字架を見上げるたびに、私たちの罪がすでに赦されたことを思い出し、感謝の告白を捧げることができます。そうするとき、私たちは初めて、この世が与えることのできない平安と確信のうちに、「正しい人は信仰によって生きる」という宣言にふさわしい生き方を全うできるのです。

これこそが、ローマ書1章16〜17節でパウロが私たちに伝えている最も核心的なメッセージであり、張ダビデ牧師が絶えず訴えている福音説教の本質的文脈でもあります。世は今もなおきらびやかに見えながら、その下には多くの罪の問題や欠乏、苦しみ、喪失が潜んでいます。しかし唯一福音だけが、この問題を根本から解決し得るものであり、その福音を信じて受け入れる人々に神の義が臨んで罪人が義とされ、滅びることなく、究極の命を得る道が開かれます。これこそ、昔も今も、そして未来においても変わることのない福音の中心であり、「ただ正しい人は信仰によって生きる」という永遠の宣言にほかなりません。

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